(板鼻宿2)
板鼻公民館裏手に、木嶋家本陣の一部がのこされているが、
皇女和宮降嫁のおり、この本陣を宿舎にされた。公民館の資料によれば、
当時宿泊された部屋だけを大きな本陣家から切り取って現在に残したものであるという。
中を見学する。
皇女が宿泊するには、思ったより小さな部屋であった。
その資料館備え付けの資料によれば、
「皇女和宮は孝明天皇(1846~1866)の妹に生まれ、
五歳にして有栖川宮と許嫁となりましたが、徳川家に降嫁する事になり、
その時宿泊した部屋です。
後に有栖川宮は和宮の嫁ぎ先である徳川家の幕府を倒すために、
東征大総督となって江戸攻めを行いました。
政略結婚といいながら、もとの許嫁から攻略を受けなければならなかった皇女和宮を、
悲劇の皇女として語り継がれる所以であります。
この時皇女は17歳。
夫 徳川家茂は結婚五年で死去し、幕府瓦解の折は明治新政府首脳に対して、
徳川家のためにつくされ、32歳の若さでこの世を去られた。
御降嫁に際してのお歌
惜しまじし 国と民とのためならば
身は武蔵野の露と消ゆとも」
と残された。(安中教育委員会)
この歌だけをみると、なにやら吉田松陰の辞世を思い出す。
松蔭の辞世は
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
と詠んだ。
故郷の京都を離れて、当時の東京はよほど辺鄙なところであったと思われる。
この時の本陣は道路から見て、間口16間、奥行き25間と言うから、
ざっと400坪はあったようだ。本陣の配置図をみると、部屋数30室、
湯殿(お風呂)が4箇所ある。
当時、和宮の京都からのお付の人員は4千人、京都からのお見送り1万人、
江戸からのお迎えが1,5万人であったと記録されている。
都合三万人が宿泊したことになるが、先に述べたように旅籠54軒、家数312軒しかなく、
本陣に50人、旅籠に50人づつ泊まっても2700人、民家に10人づつ泊まって3120人、
都合5870人は屋根の下で寝ることが出来る。
上役はともかく、下っ端の役人の寝泊りは近隣の寺院や住民宅を借りたにせよ、
夜具など不足したであろう。
まして人足等と呼ばれる人たちは、民家の軒下や納屋ならまだ良いほうで、
野宿は当たり前であったに違いない。(*)
とき、文久元年(1861)11月10日。
冬間近かの季節、加えて軽井沢、妙義山が近い板鼻宿では気温も低く
三万人の宿泊は難儀を極めたに違いない。
食事も近隣の四宿場町が総動員して用意したとあるが、食べれば出さねばならず、
三万人のお手洗いはどのようにしたであろうか?
インドで見たように青空トイレであっただろうか?
そうすると周囲の畑という畑は、すべてトイレになったであろうから、
後始末が大変だったろうと想像に難くない。
ずいぶん気になる。
(しかも安中藩では、各郡各村から助っ人の人馬を提供するよう命じている。
吾妻郡19カ村に人足807人、馬74匹、
勢多郡13カ村に人足1396人、
利根郡に人足1536人、馬119匹、
甘楽郡に人足346人、馬13匹、
甘楽・多胡郡に人足1451人、馬107匹。
都合人足5536人、馬313匹。)
総合計三万五千人になる。
小さな宿場町は、お祭り騒ぎと見間違うほどの人出で、ごった返したに違いない。
田畑の畔に、蓆の四隅を柱で支え、その下に何人寝たのか不明であるが、
その下に野宿をしていたことが解った。