子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ふがいない僕は空を見た」:社会の歪みを引き受ける覚悟は滲み出ているのだが

2012年12月16日 16時16分48秒 | 映画(新作レヴュー)
第24回山本周五郎賞に輝いた窪美澄の同名小説を「百万円と苦虫女」のタナダユキのメガホンで映像化する。それだけ聞くと極めて順当な組み合わせのように思えるが,ポイントは「R18+」コードだったのかもしれない。
妊娠に関する義母の圧迫を,アニメのヒロインのコスプレをすることによって辛うじてやり過ごしている主婦が,長い間空想してきた理想の彼氏=卓巳を現実社会で獲得してセックスに耽る。幾つものプロットが輻輳する物語の中において,主軸と言える存在の主人公をリアルに造形できるか否かが映画化の成功の鍵を握っていたはずだ。
それはすなわち,主人公を作り上げていく過程でどうしても避けられない映像コードに,果敢に挑むことが出来る女優を見つけられるかどうかという問題とほとんど同義だったかもしれない。そんな難問は,田畑智子という,相米慎二監督の薫陶を受けたミューズの出現によって,見事に解決された。

タナダユキの作品を観るのはこれが初めてだったが,とにかく粘る監督というのが第一印象だ。
メイン・プロットとなる上記の主婦と高校生の情事について,タナダはふたりそれぞれの視点から時間軸をずらして二重に描写する,という手法を採用している。ふたりの俳優(田畑と永山絢斗)がそんなタナダの方法論に体当たりの演技によって応えたことによって立ち上ってくる,孤独と生への渇望という,相反する要素がくっきりと刻まれた画面は,息を呑むほどに濃密な熱を帯びている。

だが映画全体を俯瞰すると,短編連作という形式を取っている原作に忠実だったが故に,サブ・プロットの比重が殊の外大きくなってしまっており,そんな熱は残念ながらうまく収束する点を失ったまま放散しているという印象を受ける。
卓巳の親友である福田(窪田正孝)と同級生の女の子,更には心に闇を抱えながらも福田に親切に接する大学生(三浦貴大)との交流,および助産師として生命の誕生に関わり続ける卓巳の母(原田美枝子)と自然分娩を宗教のように信奉する妊婦(吉田羊)との絡みは,独立したエピソードとしては充分に力を持っているのだが,メイン・プロットとの相関関係において,必ずしも物語の幹を豊かにする方向には作用していない。

世評と異なり山下敦弘の「マイ・バック・ページ」を評価していない私は,同作の失敗同様に,本作でもその原因が向井康介の脚本にあるように感じる。群像劇としてのダイナミズムを指向している訳ではない以上,枝葉を切り捨てる勇気を持たない限り,俳優陣の頑張りに呼応するだけの映画としての力は生まれてこない。
劇中で「案外腹黒いんですね」とパートナーから揶揄される原田美枝子級のプロ意識がどこかにあれば,と悔やまれる。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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