現在千葉県知事選挙が行われている。民主党は社民党、国民新党とともに鉄道事業の経営者であった方を推薦している。
この候補者の方は「一番最初に応援メッセージをいただいた民主党を信じ推薦を受けた」と仰いました。
一方他の候補者の方々は、実質的には各政党の支援を受けながらも「県民党」を標榜し、政党色を消そうと必死であるように見える。
今回の選挙に限らず、私はこの「県民党」「市民党」というロジックは結構胡散臭いものだと思っている。特に最近は、今回の知事選のように政党の支援を受けているのは明らかなのに「私は県民党!」と主張している場合が多々見受けられるように思う。「無所属」というカテゴリーも同様の文脈で用いられることが多い。
民主主義とは最大多数の最大幸福を追求するシステムである。政党というのは主義主張を同じくする者たちが。この「最大多数の最大幸福」を獲得する営みである。一人ではできないことを多数でなすのは企業なども同じ仕組みであろう。故に「どこの政党にも関わらず、県民(市民)の目線で・・・」という主張は、「私は最大多数の最大幸福を追求するつもりはございません。」と言っているように聞こえてならない。仲間を募れない人が一体何を成せるというのか?しかも、今回の選挙の様に実際には政党の支援を受けていながら「政党には頼らず。。。」的な雰囲気を出そうなど偽装県民党ではないか?とも思えてならない。
現在の公職選挙法では党名を名乗る場合のみの手続きが定められており、実際には公党の所属であっても、「無所属」を名乗ることも可能である。この当たりが有権者に「県民党」「市民党」「無所属」というカテゴリーを分かりにくくしてしまう一員なのかもしれない。
議会制民主主義を敷いている以上、政党政治は無くすことはできない。それを無視して「県民党」「市民党」「無所属」などという標榜は正直なところ欺瞞ではないか?とすら思ってしまう。
政治家が「県民のために働く」「市民のために働く」ということは当たり前のことである。政党に所属していようがいまいが関係ない。冒頭申し上げた候補者の方々が「県民党」を主張すればするほど、「実際には○○党の支援を受けています」ということが余計明らかになってくるのではないだろうか。
この候補者の方は「一番最初に応援メッセージをいただいた民主党を信じ推薦を受けた」と仰いました。
一方他の候補者の方々は、実質的には各政党の支援を受けながらも「県民党」を標榜し、政党色を消そうと必死であるように見える。
今回の選挙に限らず、私はこの「県民党」「市民党」というロジックは結構胡散臭いものだと思っている。特に最近は、今回の知事選のように政党の支援を受けているのは明らかなのに「私は県民党!」と主張している場合が多々見受けられるように思う。「無所属」というカテゴリーも同様の文脈で用いられることが多い。
民主主義とは最大多数の最大幸福を追求するシステムである。政党というのは主義主張を同じくする者たちが。この「最大多数の最大幸福」を獲得する営みである。一人ではできないことを多数でなすのは企業なども同じ仕組みであろう。故に「どこの政党にも関わらず、県民(市民)の目線で・・・」という主張は、「私は最大多数の最大幸福を追求するつもりはございません。」と言っているように聞こえてならない。仲間を募れない人が一体何を成せるというのか?しかも、今回の選挙の様に実際には政党の支援を受けていながら「政党には頼らず。。。」的な雰囲気を出そうなど偽装県民党ではないか?とも思えてならない。
現在の公職選挙法では党名を名乗る場合のみの手続きが定められており、実際には公党の所属であっても、「無所属」を名乗ることも可能である。この当たりが有権者に「県民党」「市民党」「無所属」というカテゴリーを分かりにくくしてしまう一員なのかもしれない。
議会制民主主義を敷いている以上、政党政治は無くすことはできない。それを無視して「県民党」「市民党」「無所属」などという標榜は正直なところ欺瞞ではないか?とすら思ってしまう。
政治家が「県民のために働く」「市民のために働く」ということは当たり前のことである。政党に所属していようがいまいが関係ない。冒頭申し上げた候補者の方々が「県民党」を主張すればするほど、「実際には○○党の支援を受けています」ということが余計明らかになってくるのではないだろうか。
首長の場合、所属政党を抜けてから立候補する場合が多いようですが、それでも推薦や支持、あるいは友情支援という形で支持政党を明確にしている場合が多いように思います。(岩手県知事の様に民主党籍を持ったままの方も最近はいらっしゃいますが)
今回の場合は、そうした「表示」が全くないように思います。
またのコメントお待ちしております。