早稲田大学ウリ稲門会

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カレンスキ-・・・・サハリンの同胞たち

2008-09-06 00:56:20 | 連載コラム

李  宇 海
 
 戦前,日本が支配していたサハリンに,数万の同胞が取り残されたことを,ご存じの学兄も多いと思う。
 現在,彼らとその子孫は,サハリンの人口のうち5%を占めている。
 徴用の名の下に強制連行された1世を含め,この地で同胞達が日本の郵便局に預けた貯金が,いまも返ってこないままになっている。この件は既に訴訟になっていて,かの高木健一弁護団長から弁護団参加のお誘い受けた筆者も,裁判準備のため,7月の終わりにサハリンを訪ねることになった。
 高木弁護士のお薦めで,飛行機ではなく,稚内から5時間半の船旅である。
 コルサコフという港に着く。ここは,日本時代に大泊と呼ばれた街で,下船までの間にデッキから見ると,港の周辺は丘陵になっており,古い,4,5階建ての集合住宅が,背の高い草むらの中に点在しているのだった。荒涼たる,というのは月並みだが,日本の生活がさのみ明るいわけではないにしろ,ここで暮らすことについて生活の明るさを想像するのは難しかった。船内では,5時間半の間に自動販売機のビールをいったい何本飲んだのか,中年のロシア人の男が泥酔し,下船を待っている船客の間で,大きなからだごとドターッと倒れたり,また起きあがったりを繰り返していた。
 解放直後,朝鮮に帰国すべく,樺太の各地からこの港を目指してきた同胞らは,日本人ばかりを乗せた船が往くのを,港の上の丘から悄然と見送った。ちょうど,私がデッキから見た,草むらの丘陵からである。帰国できるまで,と念じながらこの街で何年も働きながら留まった同胞も多かったそうだ。
 この港町から,全さんというハラボジ(75歳だが,ヘビースモーカで酒も大分お飲みになり,極めて頑健かつ頭脳明晰な方だった。ソ連時代には軍人の経験もおありだった。)の車に乗せて頂き,30分ほどで,ユジノサハリンスク,かつての豊原に着いた。サハリン州の州都である。街の中心に近い場所に「韓人文化センター」という瀟洒な建物があり,二階は宿泊施設で,日本のビジネスホテルよりよほど広く,シャワーもふんだんに出る。クーラーはなく,窓を開けるとヤブ蚊が凄いのだが,閉めていてもそう暑くはない。高木弁護士や現地の同胞,そして我が稲門会の李恢成学兄らの努力で,日本政府から拠出させた資金で出来上がった建物である。
 当たり前のことだが,荒涼たる風景の中だとて貧寒な暮らしばかりがあるはずはなかった。自民族中心主義にならないように注意しながら言わなければならないが,我が同胞達は勤勉であり,経済的地位は高く,そういえば街を歩く同胞とおぼしき人々は,相対的に豊かに見える。シンポジュウムや会議を終えた最後の晩,弁護団,原告,その他韓国から訪れた支援者などが大宴会をやった駅前のレストランは,巨大かつド派手であったが,玄関で「オソオセヨ」と出迎えてくれた同胞2世のアジュマがそのオーナーであった。60年代前半までは民族教育が認められていたため,60歳以上ほどの同胞達はウリマルができる。しかし,「韓人文化センター」のフロントにいた20代の若者は,話しかけても笑って「モッラ,モッラ」しか言わないのだった。
 「生まれたらそこがふるさと」だと,在日のわれわれには言いたくない気持もある。しかし,たいていの場所なら,どこででも生きていけるのだろう。やかましくて限りなくせわしないソウルより,また行ってみたい気持ちが,意外にも消えないのである。
                            以上



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