軽暖の候、各位におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
すでにご案内の通り2019年度の総会を下記の要領で開催します。
懇親会もこれまでにも増して楽しいものになりますので奮ってご参加ください。
記
於:リーガロイヤルホテル東京
日時:2019年4月13日土曜日
時刻:総会 午後4時30分開始 (受付開始4時)
懇親会 午後5時30分開始
会費:一般会員1万円
35歳未満及び同伴者は5千円
在校生は無料
2次会はホテル内セラーバーに移動します(無料)
以上

東西線の早稲田駅からかつての早稲田実業の方に折れ、つまりメルシーの前を通って、新しい学生会館の脇から大隈講堂前のロータリーに出る。常にたどる狭い道から視界が開けたとき、いつもと違う光景に、私はいささか面喰らった。おびただしい人、人、人。「ああ、今日は理工の卒業式であった」とすぐに気づきはしたのだが、記憶を辿ってもピッタリ30年前の自分の卒業式の映像と重ならない。そもそも私は卒業証書をもらいに行っただけだし、式には大幅に遅刻した。
「中退一流、留年二流、4年で卒業ただの人」。タモリ等、メディアで活躍する人に中退者が多かったことから、私が通っていた当時の学生は、大多数が4年で卒業するにも関わらず、無頼をきどってそううそぶいていた。その言葉の通りなら、1983年に入学し1年留年して1988年に卒業した私は「二流」の「早稲田マン」ということになる(卒業式にわざわざ遅刻するなど、まったくもって「二流」らしい「粋がり方」で、今となっては恥ずかしい限り)。先日、幹事の間で「早稲田マン」という言葉は一般的に流通していたのかとネット上で議論になったが、決めゼリフを「肩で風切るオイラは早稲田マン」とする戯れ唄を、早大学院出身の同級生が入学時のコンパで唄っていたのを記憶しているから、慶應ボーイに対抗する呼称としてあることはあったのだろう。しかし、大隈講堂を尻目に、正門から歴史館に人をかき分けて進むにつれ、ライバル校ほどに一般化しなかったその呼称も、今となっては「死語」に違いないと思うにいたる。かき分けた人の波が、理工の卒業式だというのに、女子でいっぱいだったからである。
歴史館に展示された建学当時の写真に映る学生の中には、追いはぎと見紛うなりをした者が多数いた。今日ではこれも死語なのだろうが、「バンカラ」をかろうじてパブリックイメージとしていた30年前の早稲田は、文学部と教育学部の一部の学科を除いて「男」ばかりだった。もちろん、単に校風だけの問題ではなく、社会的な背景があることは承知しているが(男女雇用機会均等法が施行されたのは私が大学3年の1986年4月)、早稲田といえば「マン」だったのだ。
それがどうだ、今や「勢力図」は塗り変わった。校友会から送られてくる早稲田学報には「ワセジョにいいね!」という連載コーナーがある。当会の準会員である学生生活課課長 関口八州男氏から「近年、成績上位者はほとんど女子」と聞いたこともある。考えてみれば、当会に参加する在校生たちだって男女のバランスが当たり前に取れている。もうむさ苦しい大学ではないのだ。
加えて、卒業生と父兄でごった返すキャンパスを逍遥していて気づいたことがある。あらゆる人種の卒業生が、その父兄とともに卒業を喜び合っていた。ハッとするほどに留学生がいたのだ。昨年の総会で祝辞をくださったダイバーシティ担当・畑惠子理事のお話を思い出す。前述の関口氏も、現在は学生生活課課長の他にスチューデントダイバーシティセンター課長を兼任している。早稲田は本気なのだ。
もうひとつ、強く印象に残った情景について記しておきたい。目的を果たし、懇親会会場リーガロイヤルホテルに向かうため、キャンパスの喧騒からいくらか隔てられた、といっても普段よりは人の多い大隈庭園を横切っていたときのことだ。大隈講堂の写真を撮ろうと思って振り返る。幼児が駆け回り、きらびやかな晴れ着や慣れないスーツを着た若者たちが遠くで笑い合っている庭園で、ヒジャブを巻いたイスラムの女性が、静かにそして穏やかに祈りを捧げていた。それは、とても美しい平和な春の情景だった。大げさかもしれないが、私はシャッターを切りながら感じた。「世界はこうあるべきだ」と。
なりふりかまわず「憎しみ」に溢れかえる今日だからこそ、母校には多様性とダイバーシティの砦になってもらいたいと切に願う。そんな母校であれば、もちろんのこと喜んで末端に連なっていたい。「早稲田はそうあるべきだ」心からそう思うのだ。
みなさん、アンニョンハセヨ!
会長の河相淳(ハ・サンスン)です。
本日は年度末という時期にもかかわらず、多くの方にお集まり頂き感謝申し上げます。
母校では卒業式の時期であり、新年度の入学式を控え、ご多忙の中ご参席いただいた母校の李成市理事、また遅れても参加を予定しております関口学生生活課課長には改めて深謝申し上げます。
本日は、若い在校生が多数参加されており、最近「ウリ稲門会って何をしてる会なんですか?」という素朴な質問もありましたので、私から当会の概略を説明したいと思います。
まず、我々の歴史は、111年前の1907年に結成された「早稲田大学朝鮮留学生同窓会」にさかのぼります。日本植民地下の1919年の3.1独立運動の先駆けとなった東京の2.8独立宣言に積極的に参加されています。活動の詳細については、本日は割愛させて頂きます。87年前の1931年に「ウリ同窓会」と改称されましたが、戦後は祖国の南北分断もあり、若干の空白期を経て、51年前の1967年にほぼ現在の形となりました。永い歴史を持った集まりであるであります。
また、母校には120名以上の在日コリアンと、日本の国籍を有しながらも、コリアをルーツとした多数の在校生がいます。韓国からの留学生も1000名ほど母校で学んでいます。最近の傾向といたしまして、留学生の半数以上が卒業後も日本に在留しています。これら、母校の在日コリアンの稲門会は唯一当会のみであります。
従いまして、当会は「我々=ウリ」という名前のとおり、原則、早稲田で学んだコリアンであれば、国籍や卒業の有無にかかわらず、誰でも参加することができます。また、当会は、思想、政治信条、宗教の違いを超えて交流をはかる場であり、純然たる親睦会であります。
早稲田を巣立ち、日本に定住しているコリアンは当会に所属し、韓国に帰国した留学生は韓国にある「早稲田大学韓国校友会」に所属します。現在早稲田に学ぶ留学生は、在学中は「韓国人学生会」として活動しており、この3団体は交流を持ちながら、友好関係にあります
活動としては、主として、春・秋の懇親会、ゴルフ早慶戦、忘年会、新年会等をしております。また、我々は在日同胞在校生を対象に奨学事業基金を4年前に設立し、大学当局の方々の協力も得て、この3年間で18名に一人当たり40万円の無償の奨学金を支給しました。
永い歴史を有していること、在日コリアンの同窓会としては唯一の稲門会であること、純然たる親睦会であること、これが当会の概要であります。
本日は若い方、ご年配の方、皆様が有意義で楽しく過ごせますことを期待しまして、会長の挨拶とさせて頂きます。
1953年の統計開始以来、東京では3番目の早さで桜が満開に咲き誇った3月24日、恒例の「早稲田大学ウリ稲門会 春の懇親会」が、母校に隣接するリーガロイヤルホテル東京で開催されました。この日は、大隈講堂で理工学部の卒業式が執り行われており、本部キャンパスの大隈銅像から正門、そして講堂にかけてはごった返すほどの人の波。母校周辺は春の活気に満ちていました。
今回の「春の懇親会」の目玉は弁護士の殷勇基学兄の講演。タイトルは『在日と「国籍」—血統主義・複数国籍・「帰化」』。河相淳会長の挨拶(別掲)に続いて登壇いただいた時には、用意したレジュメ・椅子がまったくもって足りず、終盤にいくつも挙がった質疑の手に答えていただく時間も当然に足りるはずもなく、こちらも「人の波」に大わらわの盛況となりました。
講演の後は隣の部屋に移って懇親会となります。最初に、来賓を代表して当会会員でもある李成市母校理事から祝辞をいただきました。本部キャンパス1号館に新たに作られた早稲田大学歴史館の館長である李理事は、その歴史館に在日コリアン同窓会の100年以上に及ぶ来歴が紹介されていることに触れながら、その末裔である私たちが、今日この場に集っていることの意義を強調されました。
そして、直前会長である金君夫顧問による乾杯のご発声が続きます。場はすっかりなごみ、世代をまたがる同窓会の本領が発揮されます。今回は4月から早稲田に進学する、まだ校歌も憶えていない、でも「聴いたことはある」という18歳の若者までもが何人か参加していましたから、簡単に「世代をまたがる」と申しましても、その「またがり方」は過去に例のない前人未到のものとなりました。
お酒とともに久しぶりに顔を合わせる学兄の会話もひとしきり弾んだ頃、劉礼順さんのミニコンサートが始まります。会場はすっかり華やぎ、あげくに数日後に卒業する在校生が宙返りを披露するにいたる等、顔がほころぶのを禁じ得ない親密な空気に包まれます。しかし、残念なことに時間は過ぎます。朴淳徹副会長の閉会のあいさつに続き、卒業式を終えて駆けつけてくれた母校学生部 関口八州男学生生活課長のリードで校歌と応援歌「紺碧の空」を合唱。これから入学する若者たちに「手本」を示しながら、「春の懇親会」はお開きとなり、例のごとくにほぼ全員で二次会に移動、またとない宵をともに慈しみました。
ハガキ等で既にご案内のとおり、本年の春の懇親会を下記の要領で開催します。
当日は懇親会に先立ち弁護士に複数国籍問題についてご講演いただく他、懇親会では歌手の劉礼順(リュイェスン)さん公演なども予定しております。ご多忙とは存じますが皆さまのご参加をお待ちしております。
会長 河相淳
記
於:リーガロイヤルホテル東京
日時:2018年3月24日 土曜日 午後4:30開始 午後4時受付開始
会費:一般会員 1万円、 35歳未満の会員 5千円、同伴者 5千円、在校生 無料
二次会予定:同ホテル内の「セラーバー」
韓国で新大統領が誕生した直後の2017年5月14日、春と初夏の合間の穏やかな日曜日に、早稲田大学ウリ稲門会もリーガロイヤルホテル東京で総会を迎えることとなりました。
総会の冒頭、奨学金事業を立ち上げ、それをスムーズに制度化するため、二期にわたって会長職を務めた金君夫学兄が最後の会長挨拶に立ちました。金会長はその中で、「奨学金」に込められた各会員の熱い想いにあらためて感謝を表し、この制度を今後の当会発展の起爆剤にして欲しいと後進にタスキを託しました。文一陳・呉世一両顧問が議長に選出されて議事はスタート。活動報告と会計報告の承認を経て金会長を始めとする幹事団が退任、新会長が選出される運びとなりました。そして、前執行部から推薦を受けた河相淳前副会長が満場の拍手に包まれ選任され、登壇して所信を披露しました。
総会終了後の懇親会は、河新会長のあらためての挨拶で幕を開け、続いて母校からの来賓、ダイバーシティー担当の畑惠子理事にご登壇いただき祝辞を頂戴しました。さすがダイバーシティー担当理事だけあって、畑先生のお話に参加者の多くが聴き入り、感銘を受けていたようです。いささか固かった雰囲気も金博夫監査の乾杯のご発声の後はすっかり和らぎ、世代をまたがる同窓会の本領が充満します。お酒とともに久しぶりに顔を合わせる学兄の会話も進み、すっかり心持ち良くなった頃合いに李政美さんのミニコンサート。「イムジン河」も「京成線」も沁みる名演でした。慶應の同窓会であるコリア三田会、高麗大学校日本校友会それぞれの来賓からユーモアたっぷりの祝辞をいただき、恒例となった母校学生部 関口八州男学生生活課長のエール交換で懇親会は締められました。
しかし、5月の日は長く外はまだまだ明るい。当然のごとくに2次会となるわけですが、会場は変わらない昔なつかしい金城庵。座敷で盃を交わし、順番に一人ずつ立ち上がって思うところを開陳する、「いやぁこれが早稲田だよなぁ」と微笑を禁じ得ない1日となりました。
漆黒の夜に浮かび上がるサン・マルコ大聖堂、抑制されたライトアップに荘厳さもいや増す。未踏の地に立ち、未知の光景を前にして、感情は昂る。しかし、その高揚は言葉になることもなく、私はただ笑うばかりだった。
海を越えて日本の外に出るのは8年ぶりのことだった。2009年にロンドンを訪れてからというもの、韓国にすら渡っていなかったのだ。
2010年の9月に母が倒れ、それから1年を過ぎた初冬に90年に及んだ天寿を全うし、またしてもそこから3年と少しがたった2015年の1月、もうそろそろ96歳になろうかという父が、体調を崩したかと思いきや、せっかちな性格そのままにそそくさと旅立っていった。このおおよそ5年半にいたる月日の間、私たち夫婦は二人で両親を「看取って」いた。旅行好きにかけては人後に落ちないと自負する私たちであるが、この間の目的地は自ずと「連絡がつき何かあったらすぐに東京に戻れるところ」となり、それを積み重ねた結果、ストレスも少ないけれど刺激も想像の範囲、そんな適度な旅にいつしか充足するようになっていた。ヴェネツィアにたどり着くには、ささやかな「飛躍」が必要だった。
現在の早稲田大学には、学部での共通言語を英語とし、さらに日本語を母語とする学生には1年間の留学を必修とする、国際教養学部という学部がある。昨年の5月くらいのことだろうか、当会奨学生で国際教養学部2年(当時。現在は3年生)に通う二人に軽い世間話のつもりで「どこに留学するのか」と尋ねた。一人は“北京”と答え、もう一人は“ヴェネツィア”と返した。
“それは旅へのいざないだった。それ以外のものではなかった。しかしそれが発作的に現われて、情熱に、いや錯覚にまで高められたのだ。”
“それとわかってみれば至極当然だったとはいうものの、その時はわれ知らず驚きつつ、自分が本来どこへ行くべきであったかを悟ったのである。一夜にして、比類なき幻想的な異国情緒に浸ろうと思うならば、一体どこへ行くべきだったか。それはいわずと知れているではないか。自分は実はあそこへ旅行しようと思っていたのだ。”
トーマス・マンの小説「ヴェニスに死す」(イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が1971年に映画化「Death in Venice」)の主人公アッシェンバッハが、旅への憧憬をかきたてられたあげく彼の地が脳裏に浮かび、いても立ってもいられなくなった心情を語る一節である。そういうことなのだ。
予期せず現われた「ヴェネツィア」という地名に、「発作的に」旅への「情熱」は呼び覚まされ、アート・ビエンナーレ開催年にあたることを口実にしながら、後戻りできない「錯覚」にまで発展する。イタリアに行かなければならない!ヴェネツィアが呼んでいる!私は「冒険」を渇望していたのだ!ここまで頭に血が昇ってしまったら、もう手は施せない。「冒険」といっても、実のところは30歳以上離れた女子学生に頼りきることを前提にした、著しく虫のいい「冒険」であるのだが、そんなことに気づきはしない。
とはいえ、自宅からサン・マルコ大聖堂までに要した時間はおよそ21時間、「冒険」と呼ぶにふさわしい長旅だった。羽田からパリのシャルル・ド・ゴール空港へ、ドキドキしながら飛行機を乗り継ぎ、ヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港で現地時間20時くらいに迎えに来てくれた後輩と落ち合う。そこから一緒にバスに乗り、車の乗り入れが禁じられている水の都に達してからは水上バス・ヴァポレットに乗り換える。水上から暮れなずむ宵闇の向こうに世界遺産を垣間見つつ、ようやくのことホテルに荷物をおろし、夕食をとるため町に出る。「合図するまで絶対に振り向かないでください」と若い後輩に厳命されるがまま、きょろきょろすることなく従順にサン・マルコ広場を横切り、「はい!」と号令されて微笑ましく回れ右をする。真正面には煌めくサン・マルコ大聖堂。立ち止まったのは広場の中心で、つまりはヴェネツィアの中心。その名の通り広々とした広場の真ん中で、見渡す限り歴史的建造物に囲まれ、感情の昂りを抑えることができないまま、私はただただ笑みを浮かべて「比類なき幻想的な異国情緒に」包まれていた。
ヴェネツィアは、陸地から4キロほど離れたアドリア海のラグーナ(潟)に浮かぶ118の小さな島からなっている。島々の間を道のように運河が縦横に走り、400もの橋がこれをつないでいる。2000年近く前に、無数の杭をラグーナに打ち込んで作った人工的な都市が今にいたるまで存続し、しかも1100年にわたっては『アドリア海の女王』として繁栄を謳歌した都市国家であったということも驚異であり、蜃気楼のように海に浮かぶ都市や運河に映える建築群といった幻想的な景観は誰をも惹きつけてやまない。
そこかしこで見かける傾いた建造物を横目に、乳母車と車椅子以外の車が禁止された(商品の輸送はもちろん船だし、急病人ももちろん船)入り組んだ迷路のような路地を歩いていると、歴史の重みは唐突に姿を現わす。ヴェネツィアは東西約4.5キロ、南北0.5〜2キロと広くはないのだが、教会や同信会館(信徒たちの集まりである同信会の社交場。同信会は名の通ったものだけでも50を超えていたそうだ)が、その小さな町のいたるところに存在する。15世紀から16世紀の名画・名作を擁するそれら歴史的な建造物に流れる空気は、華々しくも厳かで、信者ではない私にとっても「神聖」なものであった。その最たるものがサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会であったし、それと並ぶサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会の主祭壇画、天才ティツィアーノの「聖母被昇天」はヴェネツィアを代表する名画だ。信心深さは美術の母体となり、常に美術制作を促す。都市の繁栄とともに同信会(スクオーラ)が競い合い、町には美術品が溢れかえる。一方で、交易都市であるこの町は、繰り返し何度もペストに襲われ、その度に多くの人口を失ってきた。それをやり過ごすための信心と、低く垂れ込めた闇が去った後の絢爛を必要としたのだろう、その記憶が町の隅々に沈潜して今日に至っている。世界に先駆け、アート・ビエンナーレ(2年に一度の国際美術展。現代美術の祭典)を1895年に始めたのも、祝祭空間を必要とするヴェネツィアの特質によるものと思う。
私たちは連れ立ってビエンナーレに2日出向いた。私たちとは、もちろん私たち夫婦と、この夫婦が宿泊していたスキアヴォーニ河岸のホテルからたまたま歩いて20秒のところに住んでいた後輩、そしてビエンナーレを観るために、たまたまこの時ヴェネツィアにやって来たロンドン留学中の彼女の同級生、この4人だ。学生は驚くほどの低料金でEU内を移動でき(その金額を聞いて本当に驚いた)、同級生が各地に散らばる彼らは、その特権を謳歌してお互いを頼りながら行き来し、見聞と交流を蓄積している。もちろん、彼らばかりが学生なのではないから、現地の学生は概ねそうしているのだろう。ヨーロッパで排外主義が結局は蔓延するに至らない理由に触れた気がした。東海道線の鈍行で、一晩かけて東京から大阪に行ったことをなつかしい思い出として語る我が学生時代と比較するとき、「隔世の感」という言葉ひとつで片づけてはならない深慮がそこにはある。兎にも角にも、観光地ゆえに物価が高いヴェネツィアで、厳しい留学生活を送りながらも、様々な国の友人たちと苦楽を共にしながら成長している後輩の様子は、眩しく喜ばしいものだった。
ビエンナーレに話を戻そう。会場はヴェネツィアの東のはずれにある市立公園(ジャルディーニ)と国営造船所(アルセナーレ)の2箇所。国ごとのパビリオンや展示場が立ち並び、金獅子賞をかけて競う形式を維持しているため、国の財力や政治力が介入する余地を残すあり方に今日では批判も多く、歴史的使命は終わったという人もいる。だが、私たちは「優劣」に興味はなかったし(金獅子賞受賞作品も、それとも気づかずにチラっと見ただけだった)、刺激的な作品に出会いたいだけだったし、2日もかけているのに全てを見きれなかったその規模に満足した。せっかくだから例をあげると、当時の印刷物と自身の家族の写真を並べただけで、近現代史を雄弁に俯瞰した韓国館の展示はパワフルだったし、野蛮な人間存在を隠すことなく荒々しいパフォーマンスで提示したドイツ館の作品にはかき乱されたし(しかも作者はクラブの用心棒をしていたこともある女性だという)、「価値観」を変えられずにいまだ混乱したまま前にのめる国の光景を、暑苦しい労力で表現していたロシア館もおもしろかった。つまり、とても楽しかったのだ。
陽が高い時間帯、国際的観光地ヴェネツィアは人でごった返している。おしなべてTシャツに短パンのアメリカ人、大きな帽子をかぶって笑い声絶えない韓国のおばさんたち、一族郎党でがなりたてる中国人、考えうる限りの団体さんがひしめく。とりわけ人気スポットであるサン・マルコ広場やリアルト橋周辺は、それぞれ京都の清水寺や浅草の仲見世通りに倍の輪をかけた人口密度。それにひきかえビエンナーレ会場は広くてゆったりしている。そもそも興味を共有する人達しかいない。イタリアらしくスタッフも大らかで、楽しそうにおしゃべりに興じていたり、大声を発することに躊躇なく携帯電話に出て歩き回っていたり、我関せずとゆっくり本を読む人もいた。なのに、一線を超えそうな鑑賞者がいると、「NO!」とすごい剣幕で仕事をする。私たち夫婦は、日中はこうしたところに身を置き、早朝や陽が陰ってから人気スポットへ足を向けていた。つまり、とても快適でもあったのだ。
また、ビエンナーレ開催期間中は会場だけではなく、町中各所で連動した企画が催される。中でも英国人ダミアン・ハーストの個展「Treasures from the WRECK of the Unbelievable」は圧巻で、バジェットも含めたその規模たるや想像を絶していた。かつての「海の税関」を安藤忠雄が改装した美術館プンタ・デッラ・ドッガーナと、18世紀のバロック建築グラッシ宮、この離れた2会場を占拠した作品はタイトル通り「難破船アンビリーバブル号から引き揚げられた財宝」。それはあまりにも巨大で、驚くほどの物量で、そしてあからさまに「虚構」だった。風化しているように作られた「新品」で語られる「ニセ」物語そのものこそが「作品」で、そこからは“常識を疑え、「歴史」だって怪しいぜ”と下品にほくそ笑む彼の声が聞こえてくる。ヴェネツィアは、過去の栄光を物語る歴史遺産、そして最先端の現代美術、それらすべてを融合させて町の魅力としてきた。溢れかえる美術品と、杭の上に乗っているという町の成り立ちとがあいまって、現実でありながら虚構に身を置いているテーマパークのような世界を作り上げてきた。賛否渦巻くスターアーティストの個展は、この町でしか成立しなかった。
この旅行中、片道2時間ほど電車に揺られ、ルネサンスの聖地でメディチ家の都、フィレンツェにも1泊2日で行ってきている。当たり前のことだが、同じ古都とはいえ両者はまるで違う。ミケランジェロも観たし、ダヴィンチの前にも立った。これまた心躍る旅だったが、長くなるのでフィレンツェについてはまたの機会があればということにしたい。ただ、わかりやすく違いを際立てるために、食事について触れておこう。乱暴に言ってしまえば、ヴェネツィアは海鮮で、内陸のフィレンツェは肉なのだ。ヴェネツィアは魚やスカンピ(手長エビ)のグリルおよびフリットが売りだが、フィレンツェはビステッカと呼ぶ牛肉のステーキやトリッパ(ハチノス)の煮込みが名物、フリットもうさぎ。すべからく美味しい。マンマが仕切る食堂で食べたヴェネツィアの海鮮スパゲッティは忘れられない。ぶっきらぼうな親父に供されたフィレンツェのポルチーニ茸のパスタも同様だ。明日は日本に帰るという晩にヴェネツィアで恐る恐る注文した謎の料理「カニと黒人の麺」も絶品だった。その店の日本語メニューにそう記載されていたのだが、実態は「蟹肉とイカ墨のスパゲッティ」だった。自動翻訳ソフト、まだまだである。
妻への賞賛を込めて「食」にまつわるエピソードをもうひとつ。「必ずやジェラートを食べる。しかもイタリア語で注文して。」この旅に臨む妻の野望のひとつだった。たくさんあるジェラートの中からどれをチョイスするのか、それをカップにいれてもらうのかコーンに載せてもらうのか、コーンを選ぶとしたらプレーンなのかチョココーティングにするのか、日本で画一的なソフトクリームを買うのとはわけが違い、イタリアでジェラートを注文するには自身の「選択」を細密に表明しなければならない。国際教養学部4年で、昨年までヴェネツィアに留学していたもう一人の後輩に、美味しいジェラート屋さん、リアルト橋近くの人気店「SUSO」を教えてもらっていた。狭い路地にあるSUSOは観光客で溢れている。私たちの前に並んでいた人たちは戸惑ったり、指差したりしながら時間がかかっていた。店員が肩をすくめながら妻に目で語りかける。「決まっているなら言ってみたら」と。妻は堂々と彼女に返した、「ウン コーノ ピスタチオ(ピスタチオのジェラートをプレーンのコーンに載っけてちょうだい)」。意志的できっぱりとした発語に、店員は「このシニョーラはイタリア語で注文したわよ!」と喝采し、狭い店内が歓喜に包まれた。すぐ後ろに並んでいた関西からの若いお父さんに、多大なプレッシャーをかけてしまったのは申し訳なかったが(奥さんが「あんた、この子たちの分まで大丈夫やろなぁ」と詰めていたのが聞こえた)、ジェラートは青臭くて、とても爽やかだった。
6月2日の昼下がり、カナル グランデ(大運河)のシンボル、リアルト橋からマルコ・ポーロ空港行きの船に乗り、私たちはヴェネツィアを後にした。暑かった6泊8日の旅も終わろうとしていた。後輩は船着場まで見送ってくれた。彼女も留学を終え、9月には東京に帰ってくる。ヴェネツィアは満ち干を繰り返すラグーナの潮とともに今日も日を送っている。じきに沈むから、早く観に行った方がいいという人もいる。ロシアの文豪ツルゲーネフは、「ヴェネツィアを訪れると、幸福な人はますます幸福になり、不幸な人はさらに不幸を感じる。」と書いたそうだ。旅を終えしばらく経った。現地で撮った写真の整理は終えたが、友人たちと顔を合わすごとに、土産話の披露はまだまだ続きそうだ。この文章を綴ることもその一環ではあった。その度に、旅の愉悦が思い起こされ、行って帰ってきたばかりなのに「再訪」という情熱がじりじりと錯覚へと湧き返る。そう感じることができるのは、私が「幸福な人」だからか?だとしたら、それは照れ臭くも嬉しいことだ。
朴魯善
初めてソウル支部便り送ります。と、言っても特にこちらに元々支部があって会員がいるというわけでもなく、私がこちらにいる為に出来た支部ではないかと思われますが、これから会員が増える事を期待します。私は韓国に暮らし初めて早くも10年になりますが、私が来た頃は、理工学部の先輩が居られて、数年間に亘りこちらの校友会との橋渡しをされていました。私がこちらに来た頃から、韓国校友会とウリ稲門会の交流が活発になり、当時ウリ稲門会会長であられた故安王錫元会長がウリ稲門会としては初めて韓国校友会の総会に参席されて、それ以来相互間の交流が活発になりました。その後、私は欠かさず校友会の総会に出席させてもらっています。
こちらに来て1年半経った頃、一度こちらでの生活をウリ稲門会の会報に報告しました。読み返してみましたが、その時の希望と情熱が昨日の如くに鮮明に思い出されます。実際、我々がこちらに来た2007年頃が韓国全体の絶頂期であり、景気も良く物価も日本に比べてとても安く、社会も活気に満ちており、1990年のバブルがはじけて停滞していた日本社会と比べて見ても、とても輝いていた時代でした。しかし、革新政権が保守政権に移行していくのと軌を一にして、徐々に輝きを失い始め、景気は悪くなり、物価も失業率も上昇し、現在では日本と比べても物価はほぼ同等な水準までに達しました。韓国は大手財閥が中心となって韓国経済を牽引しており、日本のように堅固とした中小企業の存在がとても脆弱で、よって韓国経済自身がそうした大手財閥系企業の業績に大きく左右されてしまう傾向があります。また、私がここで10年暮らしてとても問題であると思うのは、権威主義がとても強いことだということです。よく韓国で使われる言葉で、甲乙関係、即ち顧客が“甲”でそこと取引をする業者が“乙”という立場にあると、甲は乙に対して絶対的な立場にあると言うことです。それを“甲質(カップチル)”という言葉で表現されますが、まさにその関係が、韓国社会には蔓延していると感じます。そうした関係、及び大企業優遇の経済政策を改善すると言う意味で、第18代大統領選挙の時から各候補者が、選挙公約として掲げていた“経済民主化”というスローガンがありますが、残念ながら言葉のみが先行して、未だ実現には至っていないと言うのが、私の実感です。しかし、昨年暮れに発覚した崔順実ゲート事件に端を発した政権交代により第19代大統領に選出された革新系の文在寅政権に、この間の保守政権時代にもたらされ山積した社会矛盾を解決してもらうことを国民は大きく期待しています。また私事ではありますが、前回の報告にも記したのですが、私の父の故郷である咸鏡南道、興南が奇しくも、文大統領の父と同郷であり、近い将来、高齢の父と一緒に故郷に行く事ができるのではと期待している今日この頃です。
金協一ソウル支部長
新会長となりました 河相淳 です。宜しくお願い致します。
まずは、会長としての所信を簡単に4点述べさせていただきます。
第1に、広く開かれた集まりにします。
当会はさかのぼれば100年以上の歴史を持つ在日コリアンの同窓会です。国籍、大学の卒業有無や資格にとらわれることなく、また学部生、大学院生、各種研究所といった修学状況如何にかかわらず、原則、早稲田で学んだコリアンであれば、誰でも参加することができます。
風通しの良い会にしたいと考えています。
第2に、純然たる「親睦会」という大原則を堅持します。
私達在日コリアンは、本国が分断しているという状況や、日本に住んでいるということから、様々な意見や心情を持った方が集まっています。こうした状況は認めつつも、当会は、思想、政治信条、宗教の違いを超えて親睦をはかる集まりです。日常生活で立場が異なる方でも、当会に集まった時には立場を超えて、仲良く親睦することだけを目的とします。
当会は純然たる「親睦会」であり、それ以上でも、それ以下でもありません。
第3に、当会の継続発展に努めます。
同窓会として有意義に、楽しく親睦を図ることは当然ですが、次に重要なことは、この集まりを次世代に引き継いでいくことです。現在、発足3年目をむかえた奨学生制度や各種懇親会等、在校生への物心両面での援助・支援を心がけています。そして、在校生・新卒の皆さん!皆さんが社会人となったら、今度は後輩達のために何ができるかを考えてあげて下さい。まずは、年会費の5000円からお願いします。また、可能ならば、ボランティアも是非お願いします。
当会の継続のためには、皆さんの年会費とボランティアが不可欠です。
第4に、集団運営体制をとります。
私は凡人で、特に秀でた存在ではありません。従いまして、顧問等の先輩方のご指導を得ることは勿論ですが、幹事長、副会長等の幹事会での協議を尊重しながら、作業分担をして会の運営を行います。
最後に皆様方のご支援ご協力を切にお願いし、新会長の挨拶とさせて頂きます。
皆で楽しい会にして行きましょう!
開催日 : 2017年9月28日(木)
会 場 : 茨城ゴルフ倶楽部 東コース OUT・IN 各9:06 より
〒300-2352 茨城県つくばみらい市小島新田
TEL: 0297-58-1216 FAX: 0297-581961
http://www.ibarakigc.jp/modules/tinyd0/index.php?id=9
定 員 : 32名(8組)
集 合 : コース クラブハウス、 8時32分まで
移動手段 : 「つくばエキスプレス」を推薦
秋葉原駅 7時11分もしくは7時39分発 を利用
パーティ会場 : 計測器BAR「GAUGE」 秋葉原駅より約200m
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131001/13199532/
参加資格者: 早稲田大学ならびに慶応大学在校生、OB、OGに該当する方、
もしくは、その関係者、知人、友人、夫人、子弟、その他
協議方法 : チーム戦 - 各校上位4名のグロススコアにて決定
個人戦 - ダブル ぺリア方式
賞位と賞品: チーム優勝杯(持ち回り)
個人男性・女性・シニア別優勝、他 順位別賞品
費 用 : プレー費 約18,000円/一人 (各自、フロントにて清算)
(含む:プレー代、キャディ代、カート代)
賞品&パーティ費 : 6,000円/一人
キャンセル時 : 8月末までに、その旨を通知ください。 その際、代理の方を
指名されるますことも許可いたします。
9月1日以降のキャンセルは、参加費(6,000円)を徴収させていただきます。
注意事項 : 原則、全員が「つくばエキスプレス」利用とします。
9月25日(月)までに、キャディバッグ、ボストンバッグ、
その他を宅配便で発送してください。
協賛依頼 : 協賛品、協賛金を募っております。 金額上限(5万円/人 以下)