早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

早大山岳部、唯一の外国人部員趙(チョ) 成(ソン) 泰(テ) 学兄

2008-09-08 21:29:47 | 各支部・分科会の近況

 
今回は、母校の山岳部史上、唯一人の外国人部員として活動なさった、趙成泰学兄にお話を伺いました。(文責:朴燦鎬)

 ―고(コ)향(ヒャン)はどちらですか。
 趙 金(キム)泉(チョン)に近い慶尚北道金(クム)陵(ヌン)で、1936年、名古屋生まれです。
―先輩は英文科でしたね。
 趙 弁論部で鳴らした高校時代から、英語を学んで海外に行きたい、外国の山に登りたいという願望がありました。イギリス隊がエベレストに登頂した頃で、憧れたね。
―山岳部に入った動機は?
趙 オールジャパンに選ばれると、海外遠征隊に選ばれるチャンスがある。オールワセダからは、毎年2,3人が必ず入っていたので、まずオールワセダを目指そうと。
 ―入部して感じたことは?
 趙 あんなに厳しいとは思わなかった。軍隊式トレーニングで、120人いた同期生のうち、残ったのは12人。
 ―初めての登山はどんなでしたか。
 趙 谷川岳で新人合宿があって、徹底的にしごかれたな。でも、馬力と返事でやり抜いた。できないことでも、「ハイッ」と元気に返事してね。合宿は年7回ありました。
 ―最も感動したことは?
 趙 2年、3年のときに冬山アタック隊に選ばれて、剣岳、穂高岳で合宿したこと。ワセダ山岳部の、一番強かった頃だね。
 ―私は中学時代に同級生4人を誘って、平湯から乗鞍岳に登りました。二、三百�の山にも登ったことがないのに、三千�の山をピクニック感覚の軽装で。登っても、登っても頂上が見えず、焦りました。みんなの手前、弱音は吐けないし。豪雨で遭難でもしていたら、同級生の親からどんなに恨まれただろうかと、今でもぞっとします。
 趙 そういうこともあるね。でも、若さと馬力を感じるな。
 ―先輩は、唯一人の外国人部員だったそうですね。
 趙 一緒に入った台湾、中国、英国の人たちは一ヶ月も持たず、残ったのは私一人だけ。「島山」を名乗っていたが、隠していません。合宿にキムチを最初に持ちこんだとき、「臭い」と文句を言われたけど、最初に無くなったのはキムチだったよ。
 ―登山中、韓国の登山隊と出くわすこともあるとか。
 趙 OBになってから、馬山山岳会の高校の先生2人と出会い、いろいろ面倒を見てあげて感謝されたね。また1995年頃だったか、エベレストのベースキャンプで韓国登山隊と出会ったときは感動したな。11人の隊員のうち、8人が登頂したという。これは凄い。
―特に印象深いことは?
趙 1958年、穂高合宿で8人を雪崩で失いました。毎年、上高地で黙祷を捧げてきましたが、50周忌の今年が一応のけじめです。1960年の富士山冬山合宿でも、4人の仲間を失っています。
 ―山岳部OBの結束は固いといわれますが、分かるような気がします。今後の予定は?
 趙 来年2月中旬から3週間、久しぶりにヨーロッパ、アルプスでスキーをします。
 ―それは何とも豪勢な。若々しくて何よりです。今日は有難うございました。


『韓国(朝鮮)の対日留学生運動と早稲田ウリ稲門会の誕生』上梓のお知らせ

2008-09-08 21:20:11 | ウリ稲門会の歴史

今般9月、白東沢顧問が上記小冊子を自費出版されました。長年にわたり早稲田在日の同窓会活動に多大な貢献をされてきた白東沢顧問ならではの大変な力作です。

ご希望の方にはウリ稲門会購入分から無料でお分けいたします。ブログ宛メールまたは会事務局、各幹事までお知らせ下さい。


学兄のみなさん、こんにちは

2008-09-08 21:00:09 | 私の意見・交流・日常

俳優のパク・ソヒ(朴昭熙)です。
 6年間?!充実した時を過ごした商学部を2000年に卒業して以来、舞台・映画・テレビドラマに出演してきました。
在学中に韓国文化研究会から時代に合わない政治色を除いて発展させた在日の会「ウリパラム」を共に立ち上げた同学部・二学年上級には現・TBSドラマ・ディレクターである韓哲先輩がいます。「ウリパラム」のBOX(6年間のほとんどをここで過ごした…)は本部キャンパス4号館にあり、演劇に関する資料では日本有数と言われる早稲田大学演劇博物館が目の前にありました。当時、韓哲と演博前のベンチに座りながら、美人で憧れの在日の先輩について時間を忘れて延々と語り合ったことこそありましたが、映画・演劇についてなど夢にも語り合わなかった二人がこうして今でも同じショー・ビジネス界で生きているのも不思議な縁としか言いようがありません。
 さて、学兄のみなさんは演劇を年に何回ご覧になりますか?ニューヨークやロンドン、ソウルの大学路のように演劇が市民の娯楽として定着している都市とは違い、まだまだ日本の演劇は「演劇ファン」だけが楽しんでいる…、という印象を持たれているのではないでしょうか。
とは言っても、近年において多くの演劇出身の役者がテレビ・映画で主役級の活躍の場を勝ち取ったり、次々に新しい小劇団が出現している等、日本演劇界のエネルギーもいつになく沸騰中です。
 そんな状況の中、私が、世界的な演出家・映画監督であるRobert Allan Ackerman(ロバート・アラン・アッカーマン)と立ち上げた新しい演劇集団、the companyの旗揚げ公演『1945』(新作。作・ロバート・アラン・アッカーマン/青木豪)がこの秋、2008年10月に開幕します。4月に旗揚げ準備公演として一ヶ月間上演、日本演劇界の話題をかっさらいまくった『バーム・イン・ギリヤド』(作・ランフォード・ウィルソン)の大成功を引っさげて、600席の世田谷パブリックシアターに進出です。
 今回の旗揚げ公演『1945』の舞台は日本。終戦直後の闇市です。芥川龍之介の小説『薮の中』をモチーフに40年代フィルム・ノワールのギャング映画の雰囲気がミックスされたエンターテインメント作品です。運命の女、ファム・ファタール的なヒロインを演じる女優には、私自身も「金村伍長」の役で出演している映画『パッチギ!LOVE & PEACE』で主役のキョンジャ役を演じた中村ゆりさん。彼女に翻弄される男たちに、元・男闘呼組の高橋和也、つかこうへいの舞台でおなじみの山本亨、そして私、パク・ソヒです。
 戦争中の権威が消えてなくなり、混乱の中、新しい価値観が日々創られる復興のエネルギー溢れる闇市で起きた一件の殺人事件。容疑者として捕らえられた朝鮮人、日本人。それを裁こうとするアメリカ人…。
 the companyのスローガンである「Breaking the Borders」とともに韓国の演劇祭、ロサンジェルスのアジアン・アメリカン・シアターでも上演を計画している大作です。
 学兄のみなさん、在学生のみなさん、ぜひこの『1945』を観にきて下さい!
 最後に、the companyでは芸術活動を支援していただけるスポンサーをいつでも探しています.毎回の公演への助成はもちろん、200席程度の自前の常設劇場を建てるという目標へのご支援もウェルカムです。芸術にご理解のある学兄のみなさんのご支援、ご協力のほど、重ねてよろしくおねがいします!

the company ホームページ
http://www.thecompany-t.com/

舞台『1945』 特設ページ
http://www.thecompany-t.com/whats_on.php

パク・ソヒ プロフィール
早稲田大学卒業後、文学座付属演劇研究所入所。2002~2003年tpt公演『BENT』の主役マックスに抜擢され、本格的舞台デビューを飾る。後に文学座を退所、現在に至る。
学生時代より現在までにローマ、モントリオール、ロサンゼルス、ソウル、ニューヨークに留学、世界のクリエイティブ・シーンに触れる。

主な出演作
舞台:『BENT』『エンジェルス・イン・アメリカ』(読売演劇大賞作品賞受賞・紀伊国屋演劇賞団体賞受賞)
    『楡の木陰の欲望』『三人姉妹』『血の婚礼』他
映画:『THE RAMEN GIRL』『パッチギ!LOVE&PEACE』『カメレオン』他
TV:『SP』『慶次郎縁側日記3』『Filthy Gorgeous』他

the companyでは俳優のほか、アソシエイト・アーティスティック・ディレクターもつとめる。


祝!ゴルフスタジオオープン

2008-09-07 02:11:28 | 各会員の近況・会の活動日誌

我が稲門会所属の学兄が先月、東京目白にインドアのゴルフスタジオを開業なさったというという話を聞きつけて、近所に住むゴルフ(下手の横)好きのブログ作業員(当投稿者)、先ほど早速不意打ち迷惑千万電撃勝手取材を断行して参りました。

明治通りと目白通りの交差点に、都内で最も古い陸橋の一つとして有名な千登世橋がありますが、目的地は目白通り沿い・千登世橋から目白駅方向にほんの数十メートルの位置にありました。自分は車で行きましたがこれなら電車で行っても山手線目白駅から6分・東京メトロの新線副都心線雑司が谷駅からなら精々2,3分の距離でしょう。クラブは無料レンタルのようなので車で行く理由がまるでない。

目的の「ゴルフアカデミー目白倶楽部」は新築ピカピカのビル地下1階にありました。地下といっても通りから直接出入りできる独立のエントランスなので閉所恐怖症気味な私でも開放的な明るい雰囲気に感じられ、台数では2台分ながらビル内駐車場かつゴルフスタジオの駐車場にしては広々スペースの駐車場に“ホントにここに停めていいのかなぁ”と不安になりながら駐車して練習場に突入。

ゆったりスペースはスタジオ内も同じ。実際に打席に入るのに20分弱待つことになりましたが、偶々オーナーの康泰鎮・松原学兄(77年卒)が現場におられたので次回のウリ稲門会ゴルフ会(氏はその幹事)の参加希望者の多寡について多少お話することができました。
氏は高等学院時代からの生え抜きの早稲田スポーツマン(第三者からの伝聞ながら大学時代はスキーチャンピオンにもなったほど)で、一般にゴルフがうまけりゃスキーもうまいといえるかどうかは知りませんが、その逆であるスキーがうまけりゃゴルフもうまいは真である、と言えるのかもしれないと思わせるに足りるシングルハンディプレーヤーなのでした。
ゴルフの趣味が高じたゆえに副業でこのようなゴルフスタジオを始めてしまうのですから羨ましいというべきかこれはもう感じが悪いと言うべきか微妙なところです(とはいえ一度会うだけで分るように、ご本人は至って謙虚・温厚で感じのよい学兄です勿論!)。

チラシには「PGA公認プロが一人ひとり丁寧にアドバイス」とありましたがその通りしかも自分には170CM近い長身のちょっと綺麗な女性プロが親切に指導してくれました。
メタボ対策に効くらしい「ゴルフフィットネスプログラム」というのは普段使わない筋肉をストレッチする、又は筋肉を作るもののようで(自分も実際に少し試しましたが)流石トヨタ系などの会社でも採用されている実績にも理由がないわけではない、中年に効果的な運動のようです。
そしてやはりチラシにあって最も気になっていた「スウィング解析器」。ヘッドスピード・飛距離その他2,3項目が測定できるようですが自分にとって一番有難いのが9コマ写真によるスウィング解析。頭のテッペンが河童のように禿げてしまっているのがよく分って余計なところで現実に直面・落胆しながらも、自分のスウィングを幽体離脱などによらずに客観的に眺めることができ、しかも何故・何処が・どの程度・どのようにヘンなのかビデオ画面を見ながら公認プロが教えてくれるというのはありがたいことです。それともイマドキはその程度は当たり前なのでしょうか。

科学技術の進歩は人類の愚かさを矯正するとは思われませんが(それにしてもホントにプロライフのホッケーママがアメリカの副大統領になってしまうのでしょうか)、50年は破られないと言われた人類の男子陸上100メートル記録と自分の明日からのゴルフスウィング向上・矯正には確実に寄与している・寄与すると云わなければなりません。

自分の家から近いアウトドア練習場は神宮外苑ぐらいしかなく(練習するならアウトドアでなければならないと信じ込んでいた)、そこで何年間も時間を見つけては何箱もヤミクモに打ってきた私ですが、定期的にプロのアドバイスと科学技術の力を借りてインドアで練習するほうが余程歩留まりが良さそうだということに、今更ながら気がついたというわけです。

下手のO.D.(アウトドア)練習休むに似たり。

ところで通常自分のゴルフスウィングは自分自身では見ることが出来ないが他者を利用して自分で自分を見ることができれば多少はマトモになれるということが真実だとすると、翻って自分の人格の発露としての挙動一般はどうなのか、ふと一抹人形な不安が沸いてきました。
疑問がないほどに自信がある場合それは御し難い愚者か聖人のどちらかというほかありませんが、通常誰でも多少の欠点は自覚しているでしょう(この多少の程度というのが多くの場合私も含めて結構問題なのですが)。尤も人格の場合、個性の多様性はむしろ必要不可欠であって抑圧されてはならないところ、その分欠点との峻別が難しい。

いかに科学技術が進歩した現代とて残念ながら「綜合人格解析器」はまだ発明されていないので、視野が広く・見識が高く・愛情が深い、真善美な進言者たる友人こそが私を見せてくれる鏡なのだろうと思います。その友人はアウトドアにもいるかも知れませんが、少なくともそれと同じ程度にはインドアにいる可能性が高いのではないでしょうか。

そしてこの鏡たる“友人”は私の配偶者かもしれないし(←実はそうでもない。インドア=家内=配偶者と連想したまでです)、ウリ稲門会の学兄かもしれません。そういう意味でウリ稲門会は1人でも多くの早稲田出身在日にとって(早稲田などに限定したくはないですが会の性質上仕方ありません)「人格アカデミー早稲田倶楽部」であって欲しいと思います(ちょっと怖いですけどね)。

話が突撃取材からずれてしまいましたが、最後に「ゴルフアカデミー目白倶楽部」情報を掲示しておきます。
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所在地:豊島区目白2-2-1 目白カルチャービルB1F
Tel:03-5979-5621
ウェブ:www.golf-academy.jp


カレンスキ-・・・・サハリンの同胞たち

2008-09-06 00:56:20 | 連載コラム

李  宇 海
 
 戦前,日本が支配していたサハリンに,数万の同胞が取り残されたことを,ご存じの学兄も多いと思う。
 現在,彼らとその子孫は,サハリンの人口のうち5%を占めている。
 徴用の名の下に強制連行された1世を含め,この地で同胞達が日本の郵便局に預けた貯金が,いまも返ってこないままになっている。この件は既に訴訟になっていて,かの高木健一弁護団長から弁護団参加のお誘い受けた筆者も,裁判準備のため,7月の終わりにサハリンを訪ねることになった。
 高木弁護士のお薦めで,飛行機ではなく,稚内から5時間半の船旅である。
 コルサコフという港に着く。ここは,日本時代に大泊と呼ばれた街で,下船までの間にデッキから見ると,港の周辺は丘陵になっており,古い,4,5階建ての集合住宅が,背の高い草むらの中に点在しているのだった。荒涼たる,というのは月並みだが,日本の生活がさのみ明るいわけではないにしろ,ここで暮らすことについて生活の明るさを想像するのは難しかった。船内では,5時間半の間に自動販売機のビールをいったい何本飲んだのか,中年のロシア人の男が泥酔し,下船を待っている船客の間で,大きなからだごとドターッと倒れたり,また起きあがったりを繰り返していた。
 解放直後,朝鮮に帰国すべく,樺太の各地からこの港を目指してきた同胞らは,日本人ばかりを乗せた船が往くのを,港の上の丘から悄然と見送った。ちょうど,私がデッキから見た,草むらの丘陵からである。帰国できるまで,と念じながらこの街で何年も働きながら留まった同胞も多かったそうだ。
 この港町から,全さんというハラボジ(75歳だが,ヘビースモーカで酒も大分お飲みになり,極めて頑健かつ頭脳明晰な方だった。ソ連時代には軍人の経験もおありだった。)の車に乗せて頂き,30分ほどで,ユジノサハリンスク,かつての豊原に着いた。サハリン州の州都である。街の中心に近い場所に「韓人文化センター」という瀟洒な建物があり,二階は宿泊施設で,日本のビジネスホテルよりよほど広く,シャワーもふんだんに出る。クーラーはなく,窓を開けるとヤブ蚊が凄いのだが,閉めていてもそう暑くはない。高木弁護士や現地の同胞,そして我が稲門会の李恢成学兄らの努力で,日本政府から拠出させた資金で出来上がった建物である。
 当たり前のことだが,荒涼たる風景の中だとて貧寒な暮らしばかりがあるはずはなかった。自民族中心主義にならないように注意しながら言わなければならないが,我が同胞達は勤勉であり,経済的地位は高く,そういえば街を歩く同胞とおぼしき人々は,相対的に豊かに見える。シンポジュウムや会議を終えた最後の晩,弁護団,原告,その他韓国から訪れた支援者などが大宴会をやった駅前のレストランは,巨大かつド派手であったが,玄関で「オソオセヨ」と出迎えてくれた同胞2世のアジュマがそのオーナーであった。60年代前半までは民族教育が認められていたため,60歳以上ほどの同胞達はウリマルができる。しかし,「韓人文化センター」のフロントにいた20代の若者は,話しかけても笑って「モッラ,モッラ」しか言わないのだった。
 「生まれたらそこがふるさと」だと,在日のわれわれには言いたくない気持もある。しかし,たいていの場所なら,どこででも生きていけるのだろう。やかましくて限りなくせわしないソウルより,また行ってみたい気持ちが,意外にも消えないのである。
                            以上