早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

納涼会レポート[2007年晩夏]

2007-09-14 12:00:17 | 各支部・分科会の近況

さる8月25日(土)、ウリ稲門会2007年納涼会が、東京湾クルーズシンフォニー号船上にて50余名の参加のもとに行なわれた。

午後4時30分日の出桟橋を出航。司会の李宇海副会長による開会辞に続き、安王錫会長挨拶、沈広燮前会長挨拶がなされたのち金君夫監査が乾杯の音頭をとり歓談に移った。

当日は好天に恵まれ、また例年と趣を変えた海上のクルージングとあってか、女子プロゴルフ界で活躍中の金鈴華学兄(教育学部出身)が参加したほか、話題の映画『パッチギLOVE&PEACE』に出演した俳優の朴昭煕学兄(商学部出身)も参加した。また、大阪からは作家の金在南学兄が見えるなど、会場は老若男女多くの学兄で賑わった。

アトラクションのラッキーカードでは、顧問賞や会長賞などが加わった多彩な賞品のゆくえに大きな歓声があがった。
船上には専用の屋外デッキも設けられ、東京湾の涼風に今夏の猛暑を忘れる一時となった。

その後、玉川静学兄のシャンソンや韓煕相学兄のパンソリが飛び出すなど会場は大変に盛り上がり、ひさびさに参加したOBOGを始め一同大いに旧交を温めあった。李春雄代表幹事の閉会辞ののち朴魯善学兄のエールとともに互いに肩を組み『都の西北』を斉唱し、午後6時30分に着岸、散会した。


第13号新聞の編集後記

2007-09-14 11:51:52 | 新聞編集後記

先日、カンパ回りで関西から上京した同胞学生に会いました。他大学生でしたが、久々に先輩風を吹かすことが出来、なんともいえぬ爽快(?でも爽快だった)な気分でした。
さすがにここ数年は減ったのですが、ウリ稲門会の会合に出ると決まって諸先輩方から、若いんだからもっと飲みなさい、食べなさい、お金はいいからと言われたものです。ですが、こちらももうじき50に手が届こうかという、会社じゃ部長だの執行役員だのとそれなりに責任を負う立場のオジサン。
本来こういった親切は学生や、社会に出て間もない本当の意味で若い世代に施すべきものですが、その世代がすっぽり抜け落ちてしまっている現状では、オジサンでありながらも可愛い後輩という二役をしばらく演じ続けなければならないのでしょうか。
今号の会長メッセージが緊急を要する課題と考える所以です。


現役学生との絆・ウリ稲門会の明日を見据えて

2007-09-13 22:51:30 | 会長のご挨拶

去る3月3日のウリ稲門会の総会で新執行部がスタートして、早いもので半年が過ぎようとしています。新執行部としては以下のような活動をしてまいりました。

○ 羅鍾一前大使の又石大学総長就任祝いの為、韓国全州訪問
○ ソウルにて韓国の早稲田大学同窓会とのコンタクト(同会の集まりの時等再度訪問してパイプ作り始める予定)
○ 第12号ウリ稲門会ニュース発刊
○ インターネットに早稲田大学ウリ稲門会のブログがスタート
○ 早稲田大学125周年事業への協賛呼びかけ
○ 早稲田大学VS高麗大学のサッカーの定期戦観戦

大まかに上記のような活動をしてきたわけですがその間、文一陳、李宇海の副会長をはじめ、李春雄代表幹事を中心とした幹事の皆さんが、実によくその任を全うして下さいました。この紙面をお借りして、改めて感謝を申し上げたいと思います。

又、この8月25日には、無事納涼会を開催することが出来ました。
李副会長発案による洒落た企画のせいか、久しぶりに多士済々なメンバーが、多数御参加下さり、会も大いに盛り上がり、皆さん楽しいひと時を過ごされたのではないでしょうか。大阪からは作家の金在南学兄が、遠路はるばる参加して下さいました。きっとお疲れになったに違いありません。本当に有難うございました。
納涼会についての詳細は、他に譲るとしまして、将に二時間の東京湾クルーズが、あっという間に過ぎた感じがしました。

さて前回のウリ稲門会ニュースに現役学生の声として、商学部2年生の姜裕史学兄から「大学にもウリ稲門会のような、同年代の在日の仲間が集い、時間を共有できるような会があればいいのに」という願いを込めた記事が寄せられました。私が学生の頃は、学内に「韓文研」・「朝文研」があって、それぞれ競い合うように、活発に活動していたものでした。私などは、当時、半ば強引に韓文研に勧誘されたのですが、そのお陰で民族意識に目覚めることが出来たし、素晴らしい先輩諸兄に会うことが出来たのでした。

振り返ってみますと、その後の私の人生の大半を当時の同窓学兄(先輩・後輩)と共に歩んできたような気がします。もしあの頃、誰も私を韓文研に誘ってくれず在日の人達と会うこともなければ、きっとまるで違った別の人生を歩んでいたに違いありません。そう思うと私にとって韓文研からウリ稲門会に続いたこの組織は誠にかけがえのない存在であったといえる訳です。

昨今大学には個人情報保護法の影響を受け、徐々に在日の新入生の情報を知ることが出来なくなり、メンバーの数もどんどん先細りして、今ではなんと「韓文研」も「朝文研」もなくなってしまいました。このままでは、我々の「ウリ稲門会」も跡を継いで呉れる後輩達が居なくなり先細っていくに違いありません。私は今期この問題を最重要課題の一つとしてとらえこの問題に対処していかなければならないと考えております。

その為の一つの方法として来春、早速にもウリ稲門会主催で「新入生歓迎会」をやってみてはどうだろうかと考えています。大学当局から新入生の住所等を教えて貰えなければ、看板だのビラだの、きっと何かしらの方法がある筈です。

最初は小規模でもよい、少人数でもよい、兎に角これを何とか実行にこぎつけることが出来ればと思っています。来春ということになると、開催までわずかな時間しか残されていません。これは結構大変な仕事になると思われますが、何とかやるしかありません。もしこの新入生歓迎会を我々の手で開催することが出来れば、やがて、そのことが契機となって大学に、在校生による「ウリ稲門会」(仮称)のようなサークルが誕生することになるかも知れません。

どうか同窓学兄の皆さん、この事業に対し深尽なる御理解を賜り、御協力下さいますよう切にお願い申し上げます。

                        ウリ稲門会会長 安王錫


江守先輩を偲んで

2007-09-13 11:36:13 | 私の意見・交流・日常


 敬隆

 1970年代当時、東海地区の同窓会には同世代の知人も少なく、そもそも同窓会というだけで何故か気乗りのしなかった私は、案内通知を受け取っても日常の些事にかまけて出欠の返事さえ失念することが多かった。そんな時、幹事役の江守先輩は、再三確認のため電話をかけてくるのであるが、決して押しつけがましい口調ではなく、こちらの気持をほぐすように語りかけてくる。その何気ない語りの間合いを通じて先輩の誠実な人柄が伝わってくるのである。電話を切る頃には、出席することになってしまう。この先輩の好意を無にしては人として恥ずかしい、とまで思い込んでしまうのである。

いざ当日出席してみると(当時はウリ同窓会という名称であったが、)ろくすっぽ,顔もみたことの無い大先輩ばかり。どちらかと言えば留学同系の先輩が多かった(ように感じた)、重々しい雰囲気も余り馴染めない。席についた瞬間「やっぱり来るんじゃなかった」と内心後悔する始末。今振り返っても、愉しかったという思いはあまりしない。ただひたすら,当たり障り無く数少ない同世代の友人と末席で小さくなっていたような気がする。「二度と参加しないぞ」と心に決めて帰ってくるのであるが、また次の会合があると参加してしまう。その繰り返しは、まるで先輩の催眠術にかけられたとしか思えない程、摩訶不思議でどこか心温まる体験ではあった。

 さて、卒業以来幾星霜、私は35年ぶりに早稲田に戻ることになったが、奇しくもウリ同窓会と稲水会が大同団結する歴史的瞬間(とは些か大げさであるが)を目撃する。そこに至るまで舞台裏における双方関係者の労苦は並大抵ではなかったといわれる。事にあたられた諸先輩方の英断とご尽力に対し改めて感謝をしたい。その過程では数々のエピソードがあったとのこと、当時の事情に詳しい諸先輩のどなたか、関係する方々の頭がぼける前に(失礼、記憶がぼける前にという意味です、誤解めされぬよう)ご自身のぼけ防止もかねてキチンと記録と証言を残して頂けないものかと思う。

話はもどるが、その合併総会の場で先輩と再会をしたのである。名古屋時代からかれこれ20年以上の空白があった。車剛一先輩、朴燦鎬兄など、懐かしい面々とともに、満面に笑みを浮かべ歓談をしておられた先輩は、私の姿を見つけるや「や~!ペー君、ひさしぶりだね」との一声。その音色は飄々とした中にたっぷりとぬくもりのこもったもので、昔と同じくそのまんまであった。その後、数回ウリ稲門会の集まりでお会いしたが、じっくりと先輩と語り合う事が無いままで終わってしまった事が残念でならない。今もあの江守先輩の声は私の耳にこだましている。改めて,ご冥福を祈りたい。

 ここまでくると、どこかで「ペーに似合わぬ話をする」といぶかしむ向きもあるやも知れない。
さればである。つくづくおもうに「この世はままならぬ」ものである。志半ば、道半ばで早世する「良き友」とつらい別れを重ねるごとにその思いは募る。そして「中庸」を弁えた高潔な知性との出会いが如何に稀有であるかを思い知る。

 ところで、「ウリ稻門会での交遊は、そうした出会いを育む瑞々しい息吹で満ち溢れているのだろうか」と空想してみる。 Alas! 所詮空想は妄想に過ぎない。本来、同窓会で最高に愉しいのは「クラス会」あるいは同年次の同窓会であろう。そこには上下、後先、優劣、大小,強弱などが無い入り込む余地はない。みんな逢った瞬間「昔のまんま」である。だから愉しい。許せる。しかし,日本人の場合と違い,大学単位でないとそもそも成立しないところに「在日」の制約条件があり,それはウリ稲門会の歴史と現状にも反映している。

同窓会に限ったことではないが、およそ組織というものは、誕生の瞬間から自らの存在意義の証明をめぐってある種の強迫観念に取り付かれてしまうといっても過言ではない。その絶えざる確認作業の過程において、現実社会の力、秩序位階からの影響を受けざるをえない。そこに「権威」を求め権威主義が容認されていく契機と素地が成立する。ウリ稲門会にはそうした権力志向は無用であるが、「権威」を求め身に纏いたがる「ミニ」権威主義の心性は、潜在意識において広く共有、承認されている。元来、「勲章・バッジ・肩書」に右顧左眄する習性は、朝鮮半島の南北とわず顕著に見られるが,それは今日なお変わっていない。

在日社会にあっては、さらに加えて本国の「人脈背景」に媚びへつらいその虎の威を借りる輩が跋扈する事大主義が特徴的である。いずれ到達するであろう「ワンコリア」への道程で、問われるべき重要な指標の一つが国家権力からの「市民社会」の自律性と「市民的権利」の確立である。とすれば、国家を相対化しうるという意味での[在日]の視線を濁らせ曇らせるような事があってはならないだろう。ウリ稲門会も後輩への継承と言う狭義の責任,さらには[在日]社会への貢献と言う広義の責任があるはずで,その意味において私たちの身近なところで見え隠れする権威主義的思考、態度に鈍感であってはならないだろう。江守先輩の眼差しはその事を思い出させてくれる。

 しかし,かくいう私も齢62歳。これまで何かと先輩諸兄を遠くから敬いつつ揶揄してきたものだが、いずれ後輩から権威主義的俗物として胡散くさい目で見られぬよう、自戒せねばならぬ。権威主義の最大の武器は「おべっか」「へつらい」「褒め言葉」であるが、実は、心中それらをこよなく愛するもう一人の「私」がいるからだ。(了)


又石大学訪問記

2007-09-13 11:30:47 | 私の意見・交流・日常

5月1日、成田発9:30、KE706便は定刻どおり仁川に向け離陸した。いよいよ又石大学に行くのだ、と思うと私の胸は喜びでふくらんだ。
 羅鍾一前駐日韓国大使から全羅北道の又石大学総長就任式の招待状が届いたのは4月18日だった。なんという光栄。私はすぐにウリ稲門会の役員に知らせた。その結果、安王錫会長、李宇海、文一陳、李春雄、李誠司、朴容震の各氏7名が出席することになった。

それからが大変だった。又石大学周辺の土地勘のある人が皆無だったからだ。ソウルからの交通便は?所要時間は?ホテルは?等々を旅行社に問い合わせても要領を得ない返事ばかり。とりあえず往復の航空便と大学に近いホテルを確保し、後のことは仁川に着いてから何とかすることに決めた。

 出発予定日の直前になって、又石大学の事務方からスケジュール表が送られてきた。それを見て、またびっくり。利用航空便、ソウル・仁川からの交通便、ホテル等の案内の他、5月1日から3日までのスケジュールが、時間単位でこと細かに、しかも英語で書かれていたからだ。私は面喰ってしまった。何故ハングルじゃないの?外国からの祝賀客は韓国人だけじゃないんだ、という単純なことに気づくまでに少々時間がかかった。なんという浅はかさ、思わず苦笑してしまった。

 仁川からは、迎えに来てくれた知人が気をきかして車で現地まで連れて行ってくれた。午後4時過ぎ全州の指定のホテルに到着。夕食は羅鍾一総長主催の晩餐会が用意されていた。全州は食文化の豊かさで知られた土地だ。私たちは地方色溢れた全州料理を満喫した。

 翌2日、朝食後、又石大学訪問。学校は5月の新芽の鮮やかさに包まれた中に凛とした佇まいを見せていた。校内に足を踏み入れると、そこはさまざまな花が咲き乱れる花園そのものだった。コンクリートに囲まれた都会の学校しか知らない私には、緑の眩しさがとても新鮮で心地よかった。羅総長は私たちを総長室に招いてくださり、式典の始まる時間まで、ゆったりした語らいのひとときを味あわせて下さった。

 午前11時、大ホールで式典が始まった。外国からの来賓、学界・政財界からの友人、知人によって埋め尽くされた会場は厳粛さの中にも華やぎが充ちていた。私のような部外者でさえ見知っている著名人の顔があちこちに見えたのには感動してしまった。これも、ひとえに羅総長の交際範囲の広さと人柄のなせるわざであろうと、改めて羅総長の穏やかな笑顔に視線を戻した。羅総長は就任スピーチで、次の3点を強調された。

 1.国際社会に飛翔しうる創意性豊かな学生を育てる。
 2.人口減少が加速する今日、地方大学ならではの特色を生かして、未来につなげる役割を果たす。
 3.地域社会に根ざしつつ、世界へはばたく大学を目指す。

 式終了後の昼食会は大講堂で行われ、大盛況だった。
 外国から馳せ参じた多くの祝賀客と同じ空間・時間を共有できた喜びを胸に、私たちはひと足先に午後の列車で益山からソウルに向かった。

 5月3日、午前中は上海臨時政府記念事業会の金滋東、趙俊両先生を訪問。12時に金希宣韓国国会政務委員長を訪ね、昼食を共にした。突然の訪問にも拘わらず、金政務委員長はスケジュールを調整して私たちを歓待してくださった。委員長の庶民的で気さくな性格そのままの語り口に魅了されているうちに、あっという間に予定の時間がきてしまった。再会を約束して、私たちは帰途についた。

 本当に短い駆け足の旅行だったが、感動と興奮、そして感謝の凝縮が散りばめられた忘れられない体験であった。    
                              

                      

                      


早稲田大VS高麗大サッカー定期戦観戦記

2007-09-13 10:59:11 | 現役学生の一言

初めまして 早稲田大学創造理工学部社会環境工学科1年の李殷在(19)と申します。
2007年7月26日東京国立競技場で行われた早稲田大学創立125周年記念、早稲田大学VS高麗大学の試合の観戦記を書かせていただくことになりました。今回の観戦にお誘いいただいたことを諸先輩方に対して深く感謝しております。
試合のほうは、序盤早稲田は高麗大の高い身体能力に屈し、試合の主導権を握られ1点を先制されましたが、後半は持ち直し1点を返し、早稲田が試合を支配し続ける形になっておりました。最終的に1―1で引き分け、互いにわだかまりの残らない試合になったと思いました。試合を応援する上で、早稲田の学生であり、そして韓国人でもある私の立場として、どちらを応援したら良いものかと悩むところでした。内心両方勝ってほしいと願っていたかもしれません。結果同点になって安心しました。
早稲田大学への進学が決まったとき祖父から渡されたのは、25年間宝のように大切に保管してあった早稲田大学の四角帽でした。父は早稲田大学の社会科学学部出身で、25年前学部卒業の時に被った帽子だったそうです。祖父の兄も早稲田大学の政治経済学部に通っていたそうで、三世代通して早稲田に通っていることにただならぬ縁を感じられずにはいられません。
在日3世として生まれ19年間、他国に住んでいながらも恵まれた環境で、こういった日本と韓国との試合を観戦できることを考えると胸が熱くなりました。今こうした環境で僕らが生活できるのは、多くの先輩方々が苦難の歴史を乗り越えて来たからこそだと思います。僕たちもこれを受け継ぎ進取の精神と共にさらなる努力をし続け、在日社会の向上を目指していかなければならないと思いました。
今回、サッカーという一つの競技を通し、沢山のことを学ばせていただいたことに深く感謝しております。
 今後ともOB、現役学生とのパイプを取り持ち、現役学生と共に会を一層盛り上げるために努力させていただきたいと思っています。


2007年春のゴルフコンペ

2007-09-13 10:47:06 | 各支部・分科会の近況

2007年5月16日。雲ひとつなく、またとない晴天。新執行部のもと、第1回目のウリ稲門会ゴルフコンペが茨城県の名門、美浦ゴルフ倶楽部で開催されました。

優勝は久しぶりに参加された崔然睦学兄。優勝者のプレーもさることながら、初参加の康泰鎮学兄の腕前に見惚れ、崔然睦学兄のご子息のパワーに圧倒されるなど、楽しい1日でした。実力通りのプレーを披露した学兄、普段の実力を発揮できずに悪戦苦闘した学兄、実力に見合ってボウリングのようなスコアをたたき出した学兄、秋にまたやりましょう。


ただの継続でなく、先を見据えながら……

2007-09-12 21:05:53 | 私の意見・交流・日常

「ウリ稲門会ニュース」の歩みをおもうとき、忘れてならないのは二つの同窓会が一つになって、タイトルを“稲水会”から“ウリ稲門会”に変えたが、編集方針やタブロイド版型などの形はそのまま受けつぎ、新たに11号までを発行してきたことである。
 編集という多少なりとも技術的な面が必要とされるがゆえに、一定の人に頼ってきた嫌いはあるが、「ニュース」という形でここ数十年間の同窓会活動の歴史の記録を刻んできた功績は、ひとえにその創刊以来20号までつづけてこられた李善淙学兄の力に負うところが大きい。
1~20号発行と、言葉で語るのはたやすいが、原稿の依頼や連絡・写真などを伴う構想から、原稿が集まれば整理・紙面の配置や見出しづけの編集作業、さらに校正などを経て校了を出すまで、数日は気が休まらなかったことだろうと想像される。それを長年やってきたのだから、ほんとうに頭が下がるばかりである。
 その一方で李学兄は、“稲水会”の代表も務めていたのだ。その情熱たるや、まさに私たちが学ぶべきものではないだろうか。
 そのお蔭で今日ウリ稲門会には、「ニュース」を編集するという伝統が定着している気がする。 
その勢いが今度(前号から)の紙面をA4版に改め、新しいメンバーで編集委員を構成するようになった。たいへん喜ばしい限りである。これからもこの形を定着させ、号数を重ねていって欲しい。
世の中はますます、情報化の時代である。編集担当者が、稲門会の活動を広報面で支えてやろうという情熱さえあれば、これからも継続していくことは容易だろうと、楽観する。
 継続することは、確かに大変なことだが、しかしただ続けていくだけではそのうちにつまらなくなってしまい、ともすれば初心までも見失ってしまいがちである。それを続している最中に、何か新しい方向性を見出したいものである。
 かつて、ある先輩が囁いていたものだ。二つの同窓会が並列して活動してごろの話し。「ニュース」が出る度にかなりの恐怖を感じ、ライバル意識を強めたという。「ニュース」が継続して定期的に発行されるということは、活動がそれだけ活発に展開されていることであり、それが諸学兄たちに与える影響が計り知れなかったからだと。                     (梁聖宗)


「在日外国人・朝青龍」

2007-09-05 15:21:22 | 連載コラム

李  宇 海
 
 腰を疲労骨折したのにモンゴルでサッカーに興じたというので,朝青龍が無茶苦茶に非難されている。不思議なのは,この騒ぎと,その前に騒がれていた八百長疑惑が,まったく関係ないかのようになっていることである。いったい,八百長疑惑はどうなったのか。もし大相撲で八百長が横行していたなら(報道からすると真実性は高い),横綱の品格とか,心技体とか,相撲道とか,いま朝青龍を非難しているその論拠は,大部分崩壊する。
 朝青龍にしてみれば,バカバカしいし,信じられないような気持だろうと,私は推測する。ほかの力士は,自分が出した八百長代(と呼ぶのか?)を受け取っているのに,それで,自分に向けてだけ品格とか心技体とか言われたのでは,大変な欺瞞だと思っているだろう。
 心技体とか,横綱の品格などというのは,日本の国技に独特なもので,これをモンゴル人の朝青龍にちゃんと教えないからいけなかったというのは,錯認である。スポーツはなんでも,精神力と肉体の強靱さと技術が求められるし,チャンピオンに品格が求められるのも一般的なことだ(総合格闘技の王者,エメリヤーエンコ・ヒョードルの,あの品格はどうだ!)。これを日本独特のものと思っているのは,たちの良くない自文化中心主義である。
相撲協会や日本の社会が欠いていたのは,国技の伝統だとかヘチマだとかを朝青龍に教えなかったことではなく,きいたふうなことを言う以上は求められるはずの競技の公正さである。朝青龍が力士になることを望んでこうなったとしても,相撲協会も外国人力士を必要不可欠なものとして望んだのだから,どちらにも公平な,普遍的な価値観を分け合わなければならないのは当たり前ではなかろうか。八百長をはびこらせておきながら,なにを勝手なことを言っているのか。いまのままなら,心技体も品格も相撲道も,大相撲というビジネスを成立させるための虚偽意識である。
思い出さざるを得ないのは,力道山のことだ。国技の伝統などと言っている以上,いま見ているような理不尽さも,力道山の時代から変わっていまい。かの英雄が力士時代に体験させられたことを想像してみると,在日1世の苦難の極北のようなものを見る思いがする。
朝青龍は,国際人権規約の適用に不熱心なこの国に生きる,在日外国人である,と強調したい。