早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

中部支部共同代表朴燦鎬学兄の著書出版記念会開催!

2009-03-23 20:16:45 | 各会員の近況・会の活動日誌

李 榮一
「韓国歌謡史1,2」出版記念会が、2009年3月19日ソウル市内プレスセンターにて行なわれました。歌謡史研究家はじめ、地方及び日本からの参席者も含め、60名ほどの方達が参席しました。
7時30分から開催された記念会は、「韓国歌謡史2」の編集者である李煕氏が司会進行をつとめ、朴燦鎬先輩のあいさつでは、今回「韓国歌謡史2」執筆にいたる経過と、ハングルで執筆されたご苦労などを話されました。緊張の為か、平素流暢な韓国語が時々やや詰まりながらも、かえってそれが朴先輩の生真面目さや人柄を伝えるに十分なよい印象を与えてくれました。

「韓国歌謡史1」「韓国歌謡史2」は、それぞれ1895~1945年までと1945年~1980年までの解放前、後に分けて執筆されたものであります。600~700ページに及ぶこれらの大作本は、すでに22年前の1987年に日本にて発表され、その後韓国でも翻訳出版された「韓国歌謡史」を修正・加筆した1と今回新たに書き下ろした「韓国歌謡史2」であります。
その当時、韓国にいる歌謡史研究家達も収集できなかった貴重なSP盤を基に、長期間の忍耐と努力と執念とも言える熱意で資料収集執筆した成果は、韓国の研究家達にも甚大な影響を与え、その後の研究にも大きく役立ってきました。

「韓国歌謡史1」を翻訳された安東林(前清州大教授)先生、李重訓(前嶺南大教授、古音盤研究家)先生、陳玉燮(伝統芸術公演企画者)などのあいさつでは著者のご苦労を労う暖かい激励の言葉と、一点の非の打ち所もない著書の内容に、驚愕を禁じ得ず、脱帽したという話が続きました。
朴先輩の歌唱では歌詞の内容に感動し涙する場面もありましたが、アンコールも出るなど感動的な出版記念会として無事終了しました。
主な参席者:金昌南(成功化大教授、韓国大衆音楽学会会長)、金ガンウ(歌謡114代表)、 鄭文教(シンナラレコード社長)、朴エギョン(延世大教授)、申均三(秋田韓国商工会議所会長)ほか多数。
問い合わせ:1,2巻とも定価29,000ウオン、発売:ミジブックス 02-713-1848


訃報

2009-03-17 21:07:36 | 各会員の近況・会の活動日誌

尹武雄学兄(1960年政経学部入学)
2009年1月16日永眠 享年68歳

1月16日の仮通夜には趙成泰学兄を始めとして崔得海、車剛一、朴燦鎬、金宅圭、梁徳守の各学兄が出席。18日の葬儀.告別式(イズモ葬祭センター、春日井市)には崔得海、車剛一、梁徳守の各学兄が参加し故人のご冥福を祈りました。


早稲田韓国校友奨学財団奨学金 奨学生証授与式

2009-03-16 18:56:43 | 各支部・分科会の近況

先般2月27日金曜日、早稲田リーガロイヤルホテルに於いて午後7時半より早稲田韓国校友奨学財団奨学金奨学生証授与式が執り行われました。

当日は奨学金の栄誉を得られた奨学生23名と主催者である韓国校友会から李賢儀副会長と金炳扈副会長の2名、大学当局から野嶋栄一郎常任理事以下7名の関係役員、ウリ稲門会から安王錫会長、文一陳副会長、李春雄代表幹事が参加。

当会の安王錫会長が来賓代表として奨学生に対し、勉学に益々励み将来韓国を背負う立派な国際人になられるようにと祝いの言葉を贈った。


時代は変った?

2009-03-14 10:54:07 | 私の意見・交流・日常

「彼氏に家族旅行に誘われているの?行ってもいい?」
今から6年ほど前のある日、突然このメールを受け取ってからの私達
夫婦の慌てようと言ったら。
ご両親と一緒に、スペイン在住の彼氏の兄夫婦のところに
クリスマス休暇をとりに行く、旅費は一切持つから一緒に行こう、と
誘われたらしい。

現地で付き合っているイギリス人男性がいる、とは
聞いていたが、まだ日にちも経っていないしそんな深い仲ではないだろうから
寧ろボディーガード役として都合がいっか?現地のネイティブ相手なんて
あいつも中々やるなぁ、どっちに似たんだ?はっはっはっ、なんて妙に
安心していた矢先。

ご両親と一緒だと言うし、親戚のところだったらまぁ心配ないか?
許可するしかないだろう?でもまだ学生だぞ、どうする?
こちらの不安を察知したのか、続いて届いたメールで
宿泊先のコテージを紹介するホームページを教えてきた。

早速パソコンを起動し、そのURLをクリックするが、当時まだまだ遅い。
夫婦で頭を突き合わせながら今か今かと画面を覗き込む。
出てきたのは、ジブラルタル海峡に近い、アンダルシア地方の海辺の
コテージ。「ほぅ、中々良いところじゃないか?」と感心する私をよそに妻が
早速頁をクリックすると「ここが両親、兄夫婦はこの部屋。そして
私たちがこの部屋。」
んっ?この部屋ってベッドが一つしか見当たらないぞ、おい、それは
まずいだろう、よく探してみろよ、どこ探すの?どこって...。

それからというもの、娘のブログには日々の生活や学業
(ロンドン大学チェルシー美術学校)のこと、そしてその彼氏と一緒に過ごす日々が
綴られて始めた。同時に我々夫婦のこと、そして日本のことが徐々に少なく
なっていったのは当然のことだろうと思う。娘は変った。

彼女は在日3世。高校卒業まで日本の学校に通い、日本の教育を受けた。
わずかに、本名である「崔 瑠美=チェ ユミ」で通わせたことだけが、彼女の
民族的なアイデンティテイだったのかもしれない。その彼女がこう言った。

自分は日本では(名前のせいか)何時もどこか、周りと違う「他所の人」的な感覚が
あった。それがこちら(ロンドン)に来てからも役に立った。つまり、こちらでも
「他所の人」なので周りの日本人たちより早く、現地に溶け込めた、というのである。
彼女にとっては日本もイギリスもどうせ、どこか他所の国なのだろう、という点で
一致していたというのである。少し分かる気がした。

そんなわけで二人は今年の2月、目出度くゴールインした。英国での結婚式
の際には、在英の朴淳徹先輩(前号でご紹介)に一方ならぬお世話になった。
ご夫婦には心から感謝申し上げたい。圧倒的な数のイギリス人相手に新婦両親の
通訳に始まって、果ては新婦のサムチュン役?まで買っていただいた。
パーティが大変盛り上がったのはご夫婦のお陰である。

帰りの機中、妻が先日亡くなった彼女の母(享年85歳)の昔に娘を重ね、
「これから彼女は「1世」としてどれだけ苦労するのだろうか?おばぁちゃんも
単身日本に渡ってきて、随分苦労したからね。」としみじみと話していた。
でも時代は変った。

今や、例え地球の裏側でも、気軽に電話で話せるし(スカイプ)、日々のできごとは
ブログを通じて知ることができる。リアルタイムで顔色を見ることさえもできるのだ。
お金も簡単に送金し、引き出すことができる。最早、手紙すら必要ない時代に
なったのである。

そしてそれよりも何よりも、色んなものの境界というものが
無くなりつつあると感じる。特にかつて言われていたような
もの=既存の価値観=が壊れつつある。結婚式に集まった人物を見渡しても
外見だけでは国籍や人種、育った地域等は判然としない。
それぞれが交じり合い、融合していっているのが現実世界の大きな
流れであり、それを何人も止めることはできないと考える。
果たして個人は流れに身をまかせていくしかないのだろうか。

かの国の大統領を見ても分かるように、時代は変ったのである。
そして、我々も自らを変えなければならない時代になった。

Yes, we can Change!

崔 相敦
1979年 第二文学部卒業


第27回ゴルフコンペ

2009-03-14 10:47:49 | 各支部・分科会の近況

ウリ稲門会第27回ゴルフコンペが、昨年の10月11日、栃木県の都賀カンツリー倶楽部に於いて開催されました。今回は、若手の方にも多く参加いただこうと、土曜日に開催致しましたので、参加者は4組16名で、大いに盛り上がりました。特に女性が3名参加されましたので、花のある賑やかなコンペとなりました。


 この時点では自分が優勝者!(特に徐富男さん、前日練習しすぎ?)

競技は、朱茂氏の豪快なティーショットで幕を開け、全員が優勝を狙っての白熱したプレーが展開されました。ゴルフを始めたばかりで、もちろんコンペも初めてという玉川静さん、本人も周りの人も心配していましたが、同伴者の姜健氏の親切な指導のもと、まっすぐ、まっすぐの堅実なゴルフを展開!何と63―66の参加者全員がびっくりのスコアで上がりました。

玉川さんの華麗なスイング!

見事優勝を飾ったのは、初参加の盧康九氏。OUT41、IN45、ハンディ12、ネット74のスコアでした。優勝の弁では、「次回は女子プロを連れてきまーす。」と大変喜んでおられました。準優勝はゴルフ幹事の康泰鎭、3位は朱茂氏、ベスグロは玉川さんを教えながらも83で上がった姜健氏。栄えあるブービーは、前日張りきって練習し過ぎた(?)徐富男氏。優勝から10位までは僅かの差で、新ペリアの隠しホール次第では誰が優勝したかわからないほどの接戦でした。
今年もゴルフ会は不景気を吹き飛ばす意気込みでコンペを開催します。皆さん、奮ってご参加いただきますようお願い申し上げます。


韓国生活記(我が家族の挑戦)

2009-03-10 21:13:56 | 私の意見・交流・日常

金協一
ウリナラに暮らし始めて1年半が経った今日現在を整理する意味で筆を執ることになりました。この時期に何でわざわざ韓国に行って暮らしているのかと思われている方も少なくないかと思いますが、偶然と強い意志により、家族まで引き連れて韓国で暮らすことになったのです。1970年代後半の学生時代には将来こうしてウリナラで暮らすということは想像すらできませんでした。

1. ウリナラで暮らすことになった経緯
半導体液晶製造装置関連の日本企業から韓国で現地法人設立というミッションを受け、2005年6月に単独、渡韓しました。任務は無事遂行できましたのですが、急な会社の方針転換により、不本意ながら半年で日本に戻らざるを得なくなってしまいました。その時に個人で契約したアパートが残りました。本来長期で滞在するはずだった初期の我が家の予定を遂行するために、結局、その会社を辞めて、2007年5月に家族と共にウリナラに戻ってきました。もしもアパートが残らなければ、再度、韓国で暮らすことはなかったと思いますが、これも偶然の成せる業と肯定的に受け留め、我が家の挑戦を始めました。

2. 我が家の周辺環境
私の住んでいる盆唐(ブンダン)は90年代初頭からソウルのベッドタウンとして城南市の南部に開発されたニュータウンで、半導体液晶関連の外資系企業が多く集まっています。ソウル市の江南地区にリンクしていて、比較的、高所得者層が多く住んでいます。この地域には30階建て以上の高層アパートが林立していて、飛行機の上空から眺める景色はなんとも壮観です。我が家のある野塔洞というのは盆唐地区の北のはずれにあり、旧城南市に丘を隔てて隣接しています。旧城南市は元来ソウル地域の開発の為に強制的に撤去された人達が多く住む地域で、丘の上に煉瓦造りの家が密集する、どちらかといえば低所得者層が多く住む地域です。旧城南市には在来市場が数箇所あり、城南市の食の台所でもあります。また城南市と隣の広州市の間には、三国時代以来の歴史的な遺跡である南漢山城があり、最近では国内人気観光スポットにもなっていて、いつも登山客で賑わっています。
我が家は15階建アパートの11階であり、完全な南向きです。奥行き方向の両サイドに窓を有しており、南側にベランダ、北側に洗濯場、貯蔵室があります。ベランダといっても日本とは違い、窓があり、外気から隔離されています。 冬の厳しい寒さの為に最上階や角部屋は好まれません。日本とは対照的です。家の前には小さい公園を挟んで野塔川があり、道路の向こうには400m級の小山があります。目の前に遮る物が無いので、眺望がとても良いです。夏は涼しく、冬は暖かく暮らすことができます。
家の周辺には、城南市営高速バスターミナルや中央図書館、端川総合運動場(Kリーグ城南一和ホーム競技場、プール、スケート、テニスコート等の施設)、城南アートセンター(音楽演奏会、美術展示会施設)等の公共施設があり、とても便利です。自転車道もかなり整備されているので、信号に遮られずに、ソウルの漢江まで約1時間ほどで行けます。故に我が家の交通手段は徒歩と自転車、バス、地下鉄が中心です。2008年からはソウル市と京畿道地域でバスや地下鉄の乗り継ぎ時に、再度、料金を払う必要がなくなり、さらに便利になりました。

3. 家族の適応(言葉の壁)
妻は1980年代後半に韓国に1年間留学したことがありますが、娘はウリマルが殆ど話せない状態で地元の学校に転向しました。入学手続きは比較的簡単でした。ただ、日本の学校に比べても進捗が速い韓国の学校の勉強について行くのがなんとも大変でした。民族学校に通ったことがない我々にも子供の言葉は難しく、毎日、教える妻も教わる娘も言葉との闘いでした。数ヶ月後にはさすがの妻も頭が痛くなってしまい、一騒動でした。が、直ぐに夏休みが始まったおかげで、一家離散は免れました。夏休みの間も2学期からできる限り追いつけるように予習をして、後半戦に備えました。
ただとても助かったのは、地元の小学校が在日の我々を優しく受け入れてくれたことと、元来、外交的で積極的な娘に直ぐ友人ができたことです。また、家の周辺に友達と遊ぶ環境があったことも幸いしました。友人の中には海外生活の為に韓国語が苦手な子がいて、その親が外国生活のつらさを理解してくれて仲良くしてくれたことも良い刺激になっています。その子とは一年、二年と同じクラスであることも手伝い、今も仲良しです。
当初は娘が早く日本に戻りたくて、“アッパ、いつになったら日本に戻るのと?”と聞いていました。“お前が、帰りたくなくなったら”と答えていましたが、最近は私の戦略に嵌ったようで、“もう日本に帰りたくない”と言うまでに成長(?)しました。子供の適応力はすばらしいものです。私たちは時には娘の友人から“変な発音!”と思われたりしていましたが、娘の発音には違和感がないようです。
発音の問題ではいつも気になることですが、初めて会う人は外見から私たちが外から来ていると判らないので心の受け入れができないためか、話途中でこちらの発音を聞いて一瞬戸惑うようです。私たちにはこの一瞬がなんとも寂しいのです。通りすがりの人であればできるだけ判らない様に適当に話すのですが、立ち入った話になるとそうはいきません。それで、仕事では深い話をしなければならないことが多いので、初めての人には最初から日本から来たことを説明するようにしています。如何せん、我々はこちらでは決して内国人ではなく、外国人(むしろ日本人(イルボンプン))だからです。在日の状況を理解する人はほんの一部の人だけでしょう。ただ、最近、日本で活躍する在日のスポーツ選手で韓国語ができる場合にはこちらのマスコミにもよく取り上げられています。何よりも直接意思疎通ができる母国語力が大事なようです。

4. 仕事
当初は日本のアイテムを持参してこちらでの販売展開を模索してみましたが、起業時のリスク等もあり、踏み込めませんでした。現在は知り合いが2005年に設立した半導体、LCD関連の会社に席を置き、私が培ってきた人脈を通じて、韓国市場への導入を推進しています。こちらにある業界では世界最大手の会社をターゲットにしたビジネス展開をしています。仕事上、日本や中国、台湾に行くことがあり、今更ながら、自分が今韓国で生活していることを再認識させられたりします。どこであれ、我が家に戻った時にはほっとします。
昨年の米国のサブプライム問題に端を発した世界的金融危機のため、韓国もかなり景気が冷え込んでいますが、2009年下半期から回復するだろうとの希望的観測を元に、現在の韓国企業人たちは頑張っています。

5. 日常生活
最近は円高の為に日本からこちらに旅行する方が急増しているようですが、我が家にも在日、日本人を問わず、友人や先輩、後輩、親戚がよく来ます。ソウル市内に出て会うことも多いですが、我が家で食事をしたり、或いはそのまま宿泊したりします。なかなか楽しいイベントになっています。
 週末は毎週地元でサッカーをやっています。小学校のグランドが一般に開放されているので、数チームが集まって楽しく交流しています。私が所属するチームは友人が立ち上げた地元の同好会で、平均年齢40位の中年のチームです。私が一番年配ですが、気持ちだけは若者に負けないように頑張って球を蹴っています。職場も年齢もバラバラですが、サッカーを中心に、年齢の上下を意識したりせず、練習が終わった後には杯を交わしたりして楽しんでいます。一週間の中で最もリラックスできるひと時です。韓国では60代でもサッカーをやる人が多く、シニアチームの大会などもあり、幅広いサッカーが楽しめます。
 ウリナラ生活の一押しは何と言っても食べ物です。ご存知の通り、こちらの食堂ではメインデッシュを一つ注文すると、おかずが沢山付いてきてお代わりも自由です。日本での外食に比べると遥かに満足度が高いといえます。特に肉類を食べる時には野菜類を心置きなく食べることができるので、幸せです。勿論、味付けに関しては日本の繊細な味覚を恋しくなることもありますが、我が家にとって韓国の食文化に軍配が上がります。。

6. 我々の権利 
初めて地元の役所で住民登録をしようとした時、我々は出入国管理事務所に行って登録しなければならないと知らされ、愕然しました。我々が昔日本で苛められた入管の経験を、祖国に戻っても味わわなければならいかと憤慨し、役所の職員に食ってかかったりもしました。担当者も同情はしてくれましたが、如何せん決まりは決まりなので、渋々入管に出向き、在外国民国内居住申告を行いました。そして内国人がもらう住民登録番号に代る在外国民国内居住番号をもらい受けました。日本の永住権を持っている我々は非内国人(=外国人)扱いになるのです。この在外国民国内居住申告番号はなかなかの曲者で、我々の生活に多々支障を及ぼします。その度に抗議をしてきました。我々の意見に賛同してくれる担当者も多く、そのせいか最近はかなり改善されてきたような気もします。
参政権に関して言うと、2007年6月に憲法裁判所が在外国民に選挙権がないのは違憲であるとの判決を下し、2008年末までに具体的な実施方法を決めることになっていました。その間、国会議員総選挙と大統領選挙等2度ほどの選挙がありましたが、具体的な実施方法等が議決されなかったために残念な思いをしました。投票当日にわざと投票所に行って違憲状態なのに何で早く具体的な実施方法を決めないのかと抗議したりしました。結局、今年の2月にその実施方法が決められ、早ければ2012年4月の国会議員選挙から実施されることに至っています。また我々のように国内に居住する在外公民に対しては地方選挙の選挙権も付与されることになりました。嬉しい反面、今回の韓国政府の決定により、日本での定住外国人の地方参政権の話が二重選挙権との論拠から更に衰退してしまうように危惧されます。韓国では定住外国人に対して地方参政権は既に認められていますが、日本では長年かけて論議してきた割には何の前進も見られません。日本社会の閉鎖性がここでも浮き彫りされています。

7. ウリナラの人々(日本と比較して)
 昨年大統領に就任した李明博氏は、就任早々から米国産牛肉輸入の問題で、市民から連日のキャンドルデモの洗礼を受けて、米国と再交渉せざるを得ない事態となりました。民主化された韓国社会の浄化作用を再確認できます。韓国の人達はとても表現が豊かでバイタリティに溢れています。自分の主張をはっきり言うことが自己表現の基本になっています。協調性より自己を重んじる国民性です。国会で見られる各党の威信を掛けた討議はなかなか日本では見られるものではありません。
人々の口論は日常茶飯事です。車で相手と接触したりすると、車を道路の真ん中に置いたまま、それぞれの運転手が出てきて、口角に泡を飛ばして口論します。但し、余程の事がない限り、物理的衝突に至ることはありません。時間が過ぎるとお互い納得して、妥協点を見出すようです。年齢性別に関係ありません。
 又、基督教信者が多い所為か、社会的奉仕活動にとても積極的です。特にスポーツ選手や芸能人等の高額所得者による寄付活動が盛んです。弱者に対して保護しようとする力が社会的に作用する為、不合理なシステムに対する改善は日本とは違ってすぐに決まって実行に移される気がします。
 韓国人は良いと思ったらすぐ実行に移す傾向が強いので、失敗する確率も高いようです。逆に日本人は慎重に考えすぎて、いざ実行に移そうとしたらもう遅すぎる事がよくあると思います。両国を足して二で割る位が丁度、良いかもしれません。又、先程の話に共通しますが、韓国人は自尊心が強いので、我々から見てどうでも良いことまでこだわる傾向があります。逆に、日本人は協調性を重んじるが為に、自分を犠牲にしてしまう傾向があります。これも中間辺りが良いのではと思います。

8. これから
私がウリナラで暮らす理由は、家族と一緒にここで暮らすことと同時に様々な分野での人脈作り、そして、何よりも意思疎通能力(=語学力)の改善です。1年半の間、果敢に新しい環境へ挑戦し続けてきたお陰で、ウリナラ生活に関しては家族全員が自信を持つようになれました。特に娘にとっては両国の生活及び学校を体験したので、どちらでも暮らせるという大きな自信になっていると思います。又、様々な分野で積極的に活動、交流したので人脈もかなり広がりました。ただ言葉に関しては今一つ伸び悩んでいます。文章を読み書きする機会は多いのですが、会話をして聞く、話す力を養う時間が少ないのです。これからはもっと意識的に効率的に学習をしていこうと思っています。

締めくくりとして、もう一言。
アボジの故郷が北部であることも手伝い私には統一された祖国で暮らしてみたとの思いが強くあります。故に今の満足度は50%ぐらいです。現在の世界情勢が米国の金融危機とオバマ新政権によりかなり流動的な様相を呈しているため、ウリナラを取り巻く情勢も大きく変化するのではとの期待があります。もしもこちらにいる間に南北統一が成し遂げられたら、アボジを連れて家族と一緒に車で38度線を越えアボジの田舎まで行ってみたいものです。
 そして、最後に無謀とも思える私の挑戦に一生懸命ついて来てくれている妻と娘に感謝の気持ちを伝えると同時にエールを送りたいと思います。
コマワォそして、これからもファイティング!


第16号新聞編集後記

2009-03-06 00:36:34 | 新聞編集後記

約10年ぶりに勤め先のオフィスが赤坂から東京駅の周辺に戻りました。
いつの間にやら再開発された高層ビルがニョキニョキと立ち並び、気分はすっかり浦島太郎です。
昼時に昔通っていた神田や日本橋界隈の定食屋に足を向けてみると、そこは更地の駐車場になっていたり、チェーン展開する店にかわっていたり。。それでも、いくつか以前と変わらぬ風情の店が残ってました。 引き戸(なぜかこういう店は自動ドアじゃない)を開けると、あれ、おじさんこんなに老けちゃったの?などとは思うものの、妙に落ち着く。おじさんも 言葉にしないが、そっちも老けたね、なんて感じの目線を送って来る。そして、おお変ってないなあこのポテトサラダの味、などとひとりごちます。
マニュアルに従った元気な挨拶が響く店も悪くはないのですが、知った顔や知った味がいつもそこにあるような店はやはり捨てがたい。
同窓会もそんな昔なじみの食堂のようなものではないでしょうか? いつもおなじところにあって、しばらく来なくても、少しあいだをあけて来ても、ふっと和む。人は昔の自分を知ってくれてる人がいるから生きてきたことを実感できるのかもしれません。
それにしても引っ越してきたビル。テナントは2月末の時点で勤務先の1社だけ。新築とはいえ36階建てでわずか1フロアーしか稼動してません。東京駅徒歩1分のゴーストタワー。。(朱 茂)