早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

納涼会など業務連絡

2007-07-09 11:35:08 | 各支部・分科会の近況

炎熱のみぎり、皆様におかれましてはますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
早速ですが、今年の納涼会が来る8月25日に決まりました。
詳細は遅くとも今月後半には皆様に郵便にて送付されることになっております。
郵便の有無に拘わらず、参加したい・詳細を知りたいという学兄は役員までご連絡下さい。

なお今月の推奨行事としては、
26日(木曜)16時より、早稲田大VS高麗大サッカー定期戦(東京都国立競技場)があります。(ブログ作業員)


7/8 自立

2007-07-08 19:09:10 | 私の意見・交流・日常

昨日、自分が加入している健保関係の健康情報雑誌7月号が自宅に送られてきた。メタボ対策とかアンチエイジングがどうとか等を、クロスワードパズルや星占いなどを交えて掲載しているどこでにでもありそうな、しかしいかにも厚生労働関係の役人の再就職先になっているような感じの出版社による雑誌である。

役人の天下りはこの際どうでもよく、パラパラとページを捲る手を自分が思わず止めたのはその相談コーナーで、「中一の娘が父親を避ける」という箇所だった。相談者は、小学生のときとはうって変わって自分を避けるようになった娘の挙動が気になって投稿をしていて、これは今年まさに中一になった1人娘をもつ自分が数年前から経験していたのと同じ懸念だったからである。思春期だから当たり前だと分っていても、現にあまりに不条理な挙動で自分に反抗し始めると少しは動揺したものだ。

動揺したものだ、と過去形でいえるようになったのは、数年前に知人から年頃の娘との対峙法を教えてもらったお陰であって、“小学校高学年の娘を人間と思って対峙するから無理が出てくる、何か別の生き物だと見做して対処すると良い、意思疎通などと幻想を抱くな、いちいち行儀しようと思うな”といった程度の話であるが、こうした些細な意識の持ち方のアングル変更で容易に達観できることがあるものだと感心した次第である。

このような態度はいわば心理的なネグレクト(またはそれを装うだけ)だと言われるかも知れないが、決して育児放棄ではない。こんなことは岩波新書あたりの育児教育本でも読めばはじめから対応出来ていたのかも知れないが、怠慢にも読んだことがなかった(未だにないが)。勤め人の巷間、有難くない上司像の一つとして、子供のいない上司というのがあるようだ。なるほど、合理的に行動できない生物と向き合った経験のない上司の度量は狭いといった心象(Mentalite)にも全く理由がないわけでもない(ただそのような言辞はたぶんにイメージ先行であって、子を持つ親はあくまで類型的に、自分の思い通りには行動してくれない他者との付き合い方に多少慣れているといった程度に理解しておけば足りる)。

ところでこの相談にのっている精神科医の返答は普通に予想のつくような内容で、親の影響力が絶大である思春期の子にとって、その影響力を振り切って自立していこうとするには大変なエネルギーが必要で、「それは地球の大気圏から飛び出そうとするロケットなみのエネルギー」なのだという。そして以前までは一緒にお風呂に入っていたような娘が急に父を避けるようになるのはこの自立への取り組みを始めたことの証拠です、とあくまで真っ当なご宣託。このような強大な呪縛を振り切ろうというエネルギーが時に“ウザイ、あっちに行って”などの言葉や、全く口を利かない態度に具現するものだという。

しかしこの回答のなかで少々意外だったのは、リストカットや過食症、性的問題行動などの深刻な問題を抱える女性患者たちの中で、稀ではなく聞く話しとして「お父さんとは今でも時々一緒にお風呂に入ってます」話があるのだそうだ。影響力突破エネルギーが不足するまたは親の影響力が執拗に過ぎるという場合、自立への取り組みが放擲され、いつまで経っても一緒にお風呂みたいな現象になる、もっと言えばたしかに子の親殺しなどの末路にまで行き着くことすらある、というのは理屈なのであるろうが、それでもリストカットなどの悲劇がこのように見かけ上、常にうまく行っていた親子間の子に起き易いという現象はちょっと印象を超えるものがある。

形式論理学では、PならばQであるといった命題はその逆かつ裏とは一致する(その対偶である“QでないならPでない”、ことはベン図を描けば明らかだろう)が、単なる裏は真ではないとされる。ところがここでは、“親を避けるのは異常なことではない”の命題に対して、その裏である“親を避けないのは異常なことである”が真となっているかのようで、そこが印象を超えると感じる原因かもしれない。

ところで、自立するために不可避な試練である不安や孤独といった感情をうまく飼い馴らすことができない場合、絶対者を突破するのは止めてむしろその絶対者ないしは他の「しがみつける誰かに依存」するだろうことは親子関係に限ったことではない。親子関係から無理やり会社組織や民族(エトノス)や国家(ネイション)にそのまま拡大・類推解釈するつもりはないが、家族もそれらも一定のグループであるからコラテラルに解釈できるところがあるだろう。

上記のなかで会社組織の場合そこから突破などしようものならそれは即失業という笑えない結果になることも多く、よって十分に個人としての実力を備蓄しておかなければならないが、それ以外のグループでは一層のこと人格的自律にとって自立は必須なものではないだろうか。「われわれが何かを信じ込むとき、経験的=合理的なものと、魔術的=神話的なものとの微妙な釣り合いが常にその背後にある」(エドガールモラン)のだそうだ。そもそも自立なくしてこの微妙なバランスを保つことはできないというべきだろう。

余談ながら、それでは当ブログのような、大学の同窓会なる組織はどうなのか。はなから強力な呪縛もその突破も無関係なのであるが、ネーションの語源たるラテン語のナティオ(=生まれ)は、血統と出自の女神、同じ生まれに帰属する人々を意味するものらしい。この辺はWikiで今投稿しながら読んだ受け売りに過ぎないのだが、読み進むと意外に面白いので以下一部をコピペすると、

「中世にはnatioという言葉はボローニャ大学やパリ大学をはじめとして、同じカレッジの構成員、または学生たちのグループを指した。かれらは同じ地域の出身で、同じ言語を話し、自分たちの慣習法に従うものとされた互助的な自治組織であった。しかしこれらは国家を基準としたものではなく、あくまでもゆるい地理的な基盤によるものであった。たとえば、~」云々としている。あくまで近代国家概念の生起する以前のことだろうが、まさしく大学の同郷人構成体がネーションだったというのは興味深い。しかも当ウリ稲門会というのは血統的出自を同じくする点で満遍なく・この上なく中世的natioであることになる(笑)。

話が逸れたので元に戻すと、親から自立した娘が後にどうなるのかについて例の精神科医は最後にこう述べている、「娘さんが自立を実感したときに、また関係は穏やかなものへと変化しますから、その時を待ちましょう。」

自立したときに、合理的なものと神話的なものがアウフヘーベンされるかも知れないし、実はことはそう簡単ではないかもしれない。そもそも完全な自立など(子供であれ大人であれ)簡単なわけがない。殊に大人にとっては“大気圏から飛び出そうとするロケットなみのエネルギー”を維持することは容易ではない。

しかし自分としては、たとえ猥雑な雑踏のなかにある焼肉屋の裏の排気口から立ち上がる蒸気を払いのけることをしないまでに自立を実感したとしても、今日的なネーション(どの国であるかに拘わらず)が方々に撒き散らす石綿のような埃(誇り)を払いのけることを止めないエネルギーは是非とも維持しておきたいと思う。(徐富男)