軽暖の候、各位におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
すでにご案内の通り2019年度の総会を下記の要領で開催します。
懇親会もこれまでにも増して楽しいものになりますので奮ってご参加ください。
記
於:リーガロイヤルホテル東京
日時:2019年4月13日土曜日
時刻:総会 午後4時30分開始 (受付開始4時)
懇親会 午後5時30分開始
会費:一般会員1万円
35歳未満及び同伴者は5千円
在校生は無料
2次会はホテル内セラーバーに移動します(無料)
以上
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/9c/14ee500bad733a26209eb171d84c8ec7.jpg)
東西線の早稲田駅からかつての早稲田実業の方に折れ、つまりメルシーの前を通って、新しい学生会館の脇から大隈講堂前のロータリーに出る。常にたどる狭い道から視界が開けたとき、いつもと違う光景に、私はいささか面喰らった。おびただしい人、人、人。「ああ、今日は理工の卒業式であった」とすぐに気づきはしたのだが、記憶を辿ってもピッタリ30年前の自分の卒業式の映像と重ならない。そもそも私は卒業証書をもらいに行っただけだし、式には大幅に遅刻した。
「中退一流、留年二流、4年で卒業ただの人」。タモリ等、メディアで活躍する人に中退者が多かったことから、私が通っていた当時の学生は、大多数が4年で卒業するにも関わらず、無頼をきどってそううそぶいていた。その言葉の通りなら、1983年に入学し1年留年して1988年に卒業した私は「二流」の「早稲田マン」ということになる(卒業式にわざわざ遅刻するなど、まったくもって「二流」らしい「粋がり方」で、今となっては恥ずかしい限り)。先日、幹事の間で「早稲田マン」という言葉は一般的に流通していたのかとネット上で議論になったが、決めゼリフを「肩で風切るオイラは早稲田マン」とする戯れ唄を、早大学院出身の同級生が入学時のコンパで唄っていたのを記憶しているから、慶應ボーイに対抗する呼称としてあることはあったのだろう。しかし、大隈講堂を尻目に、正門から歴史館に人をかき分けて進むにつれ、ライバル校ほどに一般化しなかったその呼称も、今となっては「死語」に違いないと思うにいたる。かき分けた人の波が、理工の卒業式だというのに、女子でいっぱいだったからである。
歴史館に展示された建学当時の写真に映る学生の中には、追いはぎと見紛うなりをした者が多数いた。今日ではこれも死語なのだろうが、「バンカラ」をかろうじてパブリックイメージとしていた30年前の早稲田は、文学部と教育学部の一部の学科を除いて「男」ばかりだった。もちろん、単に校風だけの問題ではなく、社会的な背景があることは承知しているが(男女雇用機会均等法が施行されたのは私が大学3年の1986年4月)、早稲田といえば「マン」だったのだ。
それがどうだ、今や「勢力図」は塗り変わった。校友会から送られてくる早稲田学報には「ワセジョにいいね!」という連載コーナーがある。当会の準会員である学生生活課課長 関口八州男氏から「近年、成績上位者はほとんど女子」と聞いたこともある。考えてみれば、当会に参加する在校生たちだって男女のバランスが当たり前に取れている。もうむさ苦しい大学ではないのだ。
加えて、卒業生と父兄でごった返すキャンパスを逍遥していて気づいたことがある。あらゆる人種の卒業生が、その父兄とともに卒業を喜び合っていた。ハッとするほどに留学生がいたのだ。昨年の総会で祝辞をくださったダイバーシティ担当・畑惠子理事のお話を思い出す。前述の関口氏も、現在は学生生活課課長の他にスチューデントダイバーシティセンター課長を兼任している。早稲田は本気なのだ。
もうひとつ、強く印象に残った情景について記しておきたい。目的を果たし、懇親会会場リーガロイヤルホテルに向かうため、キャンパスの喧騒からいくらか隔てられた、といっても普段よりは人の多い大隈庭園を横切っていたときのことだ。大隈講堂の写真を撮ろうと思って振り返る。幼児が駆け回り、きらびやかな晴れ着や慣れないスーツを着た若者たちが遠くで笑い合っている庭園で、ヒジャブを巻いたイスラムの女性が、静かにそして穏やかに祈りを捧げていた。それは、とても美しい平和な春の情景だった。大げさかもしれないが、私はシャッターを切りながら感じた。「世界はこうあるべきだ」と。
なりふりかまわず「憎しみ」に溢れかえる今日だからこそ、母校には多様性とダイバーシティの砦になってもらいたいと切に願う。そんな母校であれば、もちろんのこと喜んで末端に連なっていたい。「早稲田はそうあるべきだ」心からそう思うのだ。
みなさん、アンニョンハセヨ!
会長の河相淳(ハ・サンスン)です。
本日は年度末という時期にもかかわらず、多くの方にお集まり頂き感謝申し上げます。
母校では卒業式の時期であり、新年度の入学式を控え、ご多忙の中ご参席いただいた母校の李成市理事、また遅れても参加を予定しております関口学生生活課課長には改めて深謝申し上げます。
本日は、若い在校生が多数参加されており、最近「ウリ稲門会って何をしてる会なんですか?」という素朴な質問もありましたので、私から当会の概略を説明したいと思います。
まず、我々の歴史は、111年前の1907年に結成された「早稲田大学朝鮮留学生同窓会」にさかのぼります。日本植民地下の1919年の3.1独立運動の先駆けとなった東京の2.8独立宣言に積極的に参加されています。活動の詳細については、本日は割愛させて頂きます。87年前の1931年に「ウリ同窓会」と改称されましたが、戦後は祖国の南北分断もあり、若干の空白期を経て、51年前の1967年にほぼ現在の形となりました。永い歴史を持った集まりであるであります。
また、母校には120名以上の在日コリアンと、日本の国籍を有しながらも、コリアをルーツとした多数の在校生がいます。韓国からの留学生も1000名ほど母校で学んでいます。最近の傾向といたしまして、留学生の半数以上が卒業後も日本に在留しています。これら、母校の在日コリアンの稲門会は唯一当会のみであります。
従いまして、当会は「我々=ウリ」という名前のとおり、原則、早稲田で学んだコリアンであれば、国籍や卒業の有無にかかわらず、誰でも参加することができます。また、当会は、思想、政治信条、宗教の違いを超えて交流をはかる場であり、純然たる親睦会であります。
早稲田を巣立ち、日本に定住しているコリアンは当会に所属し、韓国に帰国した留学生は韓国にある「早稲田大学韓国校友会」に所属します。現在早稲田に学ぶ留学生は、在学中は「韓国人学生会」として活動しており、この3団体は交流を持ちながら、友好関係にあります
活動としては、主として、春・秋の懇親会、ゴルフ早慶戦、忘年会、新年会等をしております。また、我々は在日同胞在校生を対象に奨学事業基金を4年前に設立し、大学当局の方々の協力も得て、この3年間で18名に一人当たり40万円の無償の奨学金を支給しました。
永い歴史を有していること、在日コリアンの同窓会としては唯一の稲門会であること、純然たる親睦会であること、これが当会の概要であります。
本日は若い方、ご年配の方、皆様が有意義で楽しく過ごせますことを期待しまして、会長の挨拶とさせて頂きます。
ハガキ等で既にご案内のとおり、本年の春の懇親会を下記の要領で開催します。
当日は懇親会に先立ち弁護士に複数国籍問題についてご講演いただく他、懇親会では歌手の劉礼順(リュイェスン)さん公演なども予定しております。ご多忙とは存じますが皆さまのご参加をお待ちしております。
会長 河相淳
記
於:リーガロイヤルホテル東京
日時:2018年3月24日 土曜日 午後4:30開始 午後4時受付開始
会費:一般会員 1万円、 35歳未満の会員 5千円、同伴者 5千円、在校生 無料
二次会予定:同ホテル内の「セラーバー」
漆黒の夜に浮かび上がるサン・マルコ大聖堂、抑制されたライトアップに荘厳さもいや増す。未踏の地に立ち、未知の光景を前にして、感情は昂る。しかし、その高揚は言葉になることもなく、私はただ笑うばかりだった。
海を越えて日本の外に出るのは8年ぶりのことだった。2009年にロンドンを訪れてからというもの、韓国にすら渡っていなかったのだ。
2010年の9月に母が倒れ、それから1年を過ぎた初冬に90年に及んだ天寿を全うし、またしてもそこから3年と少しがたった2015年の1月、もうそろそろ96歳になろうかという父が、体調を崩したかと思いきや、せっかちな性格そのままにそそくさと旅立っていった。このおおよそ5年半にいたる月日の間、私たち夫婦は二人で両親を「看取って」いた。旅行好きにかけては人後に落ちないと自負する私たちであるが、この間の目的地は自ずと「連絡がつき何かあったらすぐに東京に戻れるところ」となり、それを積み重ねた結果、ストレスも少ないけれど刺激も想像の範囲、そんな適度な旅にいつしか充足するようになっていた。ヴェネツィアにたどり着くには、ささやかな「飛躍」が必要だった。
現在の早稲田大学には、学部での共通言語を英語とし、さらに日本語を母語とする学生には1年間の留学を必修とする、国際教養学部という学部がある。昨年の5月くらいのことだろうか、当会奨学生で国際教養学部2年(当時。現在は3年生)に通う二人に軽い世間話のつもりで「どこに留学するのか」と尋ねた。一人は“北京”と答え、もう一人は“ヴェネツィア”と返した。
“それは旅へのいざないだった。それ以外のものではなかった。しかしそれが発作的に現われて、情熱に、いや錯覚にまで高められたのだ。”
“それとわかってみれば至極当然だったとはいうものの、その時はわれ知らず驚きつつ、自分が本来どこへ行くべきであったかを悟ったのである。一夜にして、比類なき幻想的な異国情緒に浸ろうと思うならば、一体どこへ行くべきだったか。それはいわずと知れているではないか。自分は実はあそこへ旅行しようと思っていたのだ。”
トーマス・マンの小説「ヴェニスに死す」(イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が1971年に映画化「Death in Venice」)の主人公アッシェンバッハが、旅への憧憬をかきたてられたあげく彼の地が脳裏に浮かび、いても立ってもいられなくなった心情を語る一節である。そういうことなのだ。
予期せず現われた「ヴェネツィア」という地名に、「発作的に」旅への「情熱」は呼び覚まされ、アート・ビエンナーレ開催年にあたることを口実にしながら、後戻りできない「錯覚」にまで発展する。イタリアに行かなければならない!ヴェネツィアが呼んでいる!私は「冒険」を渇望していたのだ!ここまで頭に血が昇ってしまったら、もう手は施せない。「冒険」といっても、実のところは30歳以上離れた女子学生に頼りきることを前提にした、著しく虫のいい「冒険」であるのだが、そんなことに気づきはしない。
とはいえ、自宅からサン・マルコ大聖堂までに要した時間はおよそ21時間、「冒険」と呼ぶにふさわしい長旅だった。羽田からパリのシャルル・ド・ゴール空港へ、ドキドキしながら飛行機を乗り継ぎ、ヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港で現地時間20時くらいに迎えに来てくれた後輩と落ち合う。そこから一緒にバスに乗り、車の乗り入れが禁じられている水の都に達してからは水上バス・ヴァポレットに乗り換える。水上から暮れなずむ宵闇の向こうに世界遺産を垣間見つつ、ようやくのことホテルに荷物をおろし、夕食をとるため町に出る。「合図するまで絶対に振り向かないでください」と若い後輩に厳命されるがまま、きょろきょろすることなく従順にサン・マルコ広場を横切り、「はい!」と号令されて微笑ましく回れ右をする。真正面には煌めくサン・マルコ大聖堂。立ち止まったのは広場の中心で、つまりはヴェネツィアの中心。その名の通り広々とした広場の真ん中で、見渡す限り歴史的建造物に囲まれ、感情の昂りを抑えることができないまま、私はただただ笑みを浮かべて「比類なき幻想的な異国情緒に」包まれていた。
ヴェネツィアは、陸地から4キロほど離れたアドリア海のラグーナ(潟)に浮かぶ118の小さな島からなっている。島々の間を道のように運河が縦横に走り、400もの橋がこれをつないでいる。2000年近く前に、無数の杭をラグーナに打ち込んで作った人工的な都市が今にいたるまで存続し、しかも1100年にわたっては『アドリア海の女王』として繁栄を謳歌した都市国家であったということも驚異であり、蜃気楼のように海に浮かぶ都市や運河に映える建築群といった幻想的な景観は誰をも惹きつけてやまない。
そこかしこで見かける傾いた建造物を横目に、乳母車と車椅子以外の車が禁止された(商品の輸送はもちろん船だし、急病人ももちろん船)入り組んだ迷路のような路地を歩いていると、歴史の重みは唐突に姿を現わす。ヴェネツィアは東西約4.5キロ、南北0.5〜2キロと広くはないのだが、教会や同信会館(信徒たちの集まりである同信会の社交場。同信会は名の通ったものだけでも50を超えていたそうだ)が、その小さな町のいたるところに存在する。15世紀から16世紀の名画・名作を擁するそれら歴史的な建造物に流れる空気は、華々しくも厳かで、信者ではない私にとっても「神聖」なものであった。その最たるものがサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会であったし、それと並ぶサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会の主祭壇画、天才ティツィアーノの「聖母被昇天」はヴェネツィアを代表する名画だ。信心深さは美術の母体となり、常に美術制作を促す。都市の繁栄とともに同信会(スクオーラ)が競い合い、町には美術品が溢れかえる。一方で、交易都市であるこの町は、繰り返し何度もペストに襲われ、その度に多くの人口を失ってきた。それをやり過ごすための信心と、低く垂れ込めた闇が去った後の絢爛を必要としたのだろう、その記憶が町の隅々に沈潜して今日に至っている。世界に先駆け、アート・ビエンナーレ(2年に一度の国際美術展。現代美術の祭典)を1895年に始めたのも、祝祭空間を必要とするヴェネツィアの特質によるものと思う。
私たちは連れ立ってビエンナーレに2日出向いた。私たちとは、もちろん私たち夫婦と、この夫婦が宿泊していたスキアヴォーニ河岸のホテルからたまたま歩いて20秒のところに住んでいた後輩、そしてビエンナーレを観るために、たまたまこの時ヴェネツィアにやって来たロンドン留学中の彼女の同級生、この4人だ。学生は驚くほどの低料金でEU内を移動でき(その金額を聞いて本当に驚いた)、同級生が各地に散らばる彼らは、その特権を謳歌してお互いを頼りながら行き来し、見聞と交流を蓄積している。もちろん、彼らばかりが学生なのではないから、現地の学生は概ねそうしているのだろう。ヨーロッパで排外主義が結局は蔓延するに至らない理由に触れた気がした。東海道線の鈍行で、一晩かけて東京から大阪に行ったことをなつかしい思い出として語る我が学生時代と比較するとき、「隔世の感」という言葉ひとつで片づけてはならない深慮がそこにはある。兎にも角にも、観光地ゆえに物価が高いヴェネツィアで、厳しい留学生活を送りながらも、様々な国の友人たちと苦楽を共にしながら成長している後輩の様子は、眩しく喜ばしいものだった。
ビエンナーレに話を戻そう。会場はヴェネツィアの東のはずれにある市立公園(ジャルディーニ)と国営造船所(アルセナーレ)の2箇所。国ごとのパビリオンや展示場が立ち並び、金獅子賞をかけて競う形式を維持しているため、国の財力や政治力が介入する余地を残すあり方に今日では批判も多く、歴史的使命は終わったという人もいる。だが、私たちは「優劣」に興味はなかったし(金獅子賞受賞作品も、それとも気づかずにチラっと見ただけだった)、刺激的な作品に出会いたいだけだったし、2日もかけているのに全てを見きれなかったその規模に満足した。せっかくだから例をあげると、当時の印刷物と自身の家族の写真を並べただけで、近現代史を雄弁に俯瞰した韓国館の展示はパワフルだったし、野蛮な人間存在を隠すことなく荒々しいパフォーマンスで提示したドイツ館の作品にはかき乱されたし(しかも作者はクラブの用心棒をしていたこともある女性だという)、「価値観」を変えられずにいまだ混乱したまま前にのめる国の光景を、暑苦しい労力で表現していたロシア館もおもしろかった。つまり、とても楽しかったのだ。
陽が高い時間帯、国際的観光地ヴェネツィアは人でごった返している。おしなべてTシャツに短パンのアメリカ人、大きな帽子をかぶって笑い声絶えない韓国のおばさんたち、一族郎党でがなりたてる中国人、考えうる限りの団体さんがひしめく。とりわけ人気スポットであるサン・マルコ広場やリアルト橋周辺は、それぞれ京都の清水寺や浅草の仲見世通りに倍の輪をかけた人口密度。それにひきかえビエンナーレ会場は広くてゆったりしている。そもそも興味を共有する人達しかいない。イタリアらしくスタッフも大らかで、楽しそうにおしゃべりに興じていたり、大声を発することに躊躇なく携帯電話に出て歩き回っていたり、我関せずとゆっくり本を読む人もいた。なのに、一線を超えそうな鑑賞者がいると、「NO!」とすごい剣幕で仕事をする。私たち夫婦は、日中はこうしたところに身を置き、早朝や陽が陰ってから人気スポットへ足を向けていた。つまり、とても快適でもあったのだ。
また、ビエンナーレ開催期間中は会場だけではなく、町中各所で連動した企画が催される。中でも英国人ダミアン・ハーストの個展「Treasures from the WRECK of the Unbelievable」は圧巻で、バジェットも含めたその規模たるや想像を絶していた。かつての「海の税関」を安藤忠雄が改装した美術館プンタ・デッラ・ドッガーナと、18世紀のバロック建築グラッシ宮、この離れた2会場を占拠した作品はタイトル通り「難破船アンビリーバブル号から引き揚げられた財宝」。それはあまりにも巨大で、驚くほどの物量で、そしてあからさまに「虚構」だった。風化しているように作られた「新品」で語られる「ニセ」物語そのものこそが「作品」で、そこからは“常識を疑え、「歴史」だって怪しいぜ”と下品にほくそ笑む彼の声が聞こえてくる。ヴェネツィアは、過去の栄光を物語る歴史遺産、そして最先端の現代美術、それらすべてを融合させて町の魅力としてきた。溢れかえる美術品と、杭の上に乗っているという町の成り立ちとがあいまって、現実でありながら虚構に身を置いているテーマパークのような世界を作り上げてきた。賛否渦巻くスターアーティストの個展は、この町でしか成立しなかった。
この旅行中、片道2時間ほど電車に揺られ、ルネサンスの聖地でメディチ家の都、フィレンツェにも1泊2日で行ってきている。当たり前のことだが、同じ古都とはいえ両者はまるで違う。ミケランジェロも観たし、ダヴィンチの前にも立った。これまた心躍る旅だったが、長くなるのでフィレンツェについてはまたの機会があればということにしたい。ただ、わかりやすく違いを際立てるために、食事について触れておこう。乱暴に言ってしまえば、ヴェネツィアは海鮮で、内陸のフィレンツェは肉なのだ。ヴェネツィアは魚やスカンピ(手長エビ)のグリルおよびフリットが売りだが、フィレンツェはビステッカと呼ぶ牛肉のステーキやトリッパ(ハチノス)の煮込みが名物、フリットもうさぎ。すべからく美味しい。マンマが仕切る食堂で食べたヴェネツィアの海鮮スパゲッティは忘れられない。ぶっきらぼうな親父に供されたフィレンツェのポルチーニ茸のパスタも同様だ。明日は日本に帰るという晩にヴェネツィアで恐る恐る注文した謎の料理「カニと黒人の麺」も絶品だった。その店の日本語メニューにそう記載されていたのだが、実態は「蟹肉とイカ墨のスパゲッティ」だった。自動翻訳ソフト、まだまだである。
妻への賞賛を込めて「食」にまつわるエピソードをもうひとつ。「必ずやジェラートを食べる。しかもイタリア語で注文して。」この旅に臨む妻の野望のひとつだった。たくさんあるジェラートの中からどれをチョイスするのか、それをカップにいれてもらうのかコーンに載せてもらうのか、コーンを選ぶとしたらプレーンなのかチョココーティングにするのか、日本で画一的なソフトクリームを買うのとはわけが違い、イタリアでジェラートを注文するには自身の「選択」を細密に表明しなければならない。国際教養学部4年で、昨年までヴェネツィアに留学していたもう一人の後輩に、美味しいジェラート屋さん、リアルト橋近くの人気店「SUSO」を教えてもらっていた。狭い路地にあるSUSOは観光客で溢れている。私たちの前に並んでいた人たちは戸惑ったり、指差したりしながら時間がかかっていた。店員が肩をすくめながら妻に目で語りかける。「決まっているなら言ってみたら」と。妻は堂々と彼女に返した、「ウン コーノ ピスタチオ(ピスタチオのジェラートをプレーンのコーンに載っけてちょうだい)」。意志的できっぱりとした発語に、店員は「このシニョーラはイタリア語で注文したわよ!」と喝采し、狭い店内が歓喜に包まれた。すぐ後ろに並んでいた関西からの若いお父さんに、多大なプレッシャーをかけてしまったのは申し訳なかったが(奥さんが「あんた、この子たちの分まで大丈夫やろなぁ」と詰めていたのが聞こえた)、ジェラートは青臭くて、とても爽やかだった。
6月2日の昼下がり、カナル グランデ(大運河)のシンボル、リアルト橋からマルコ・ポーロ空港行きの船に乗り、私たちはヴェネツィアを後にした。暑かった6泊8日の旅も終わろうとしていた。後輩は船着場まで見送ってくれた。彼女も留学を終え、9月には東京に帰ってくる。ヴェネツィアは満ち干を繰り返すラグーナの潮とともに今日も日を送っている。じきに沈むから、早く観に行った方がいいという人もいる。ロシアの文豪ツルゲーネフは、「ヴェネツィアを訪れると、幸福な人はますます幸福になり、不幸な人はさらに不幸を感じる。」と書いたそうだ。旅を終えしばらく経った。現地で撮った写真の整理は終えたが、友人たちと顔を合わすごとに、土産話の披露はまだまだ続きそうだ。この文章を綴ることもその一環ではあった。その度に、旅の愉悦が思い起こされ、行って帰ってきたばかりなのに「再訪」という情熱がじりじりと錯覚へと湧き返る。そう感じることができるのは、私が「幸福な人」だからか?だとしたら、それは照れ臭くも嬉しいことだ。
朴魯善
開催日 : 2017年9月28日(木)
会 場 : 茨城ゴルフ倶楽部 東コース OUT・IN 各9:06 より
〒300-2352 茨城県つくばみらい市小島新田
TEL: 0297-58-1216 FAX: 0297-581961
http://www.ibarakigc.jp/modules/tinyd0/index.php?id=9
定 員 : 32名(8組)
集 合 : コース クラブハウス、 8時32分まで
移動手段 : 「つくばエキスプレス」を推薦
秋葉原駅 7時11分もしくは7時39分発 を利用
パーティ会場 : 計測器BAR「GAUGE」 秋葉原駅より約200m
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131001/13199532/
参加資格者: 早稲田大学ならびに慶応大学在校生、OB、OGに該当する方、
もしくは、その関係者、知人、友人、夫人、子弟、その他
協議方法 : チーム戦 - 各校上位4名のグロススコアにて決定
個人戦 - ダブル ぺリア方式
賞位と賞品: チーム優勝杯(持ち回り)
個人男性・女性・シニア別優勝、他 順位別賞品
費 用 : プレー費 約18,000円/一人 (各自、フロントにて清算)
(含む:プレー代、キャディ代、カート代)
賞品&パーティ費 : 6,000円/一人
キャンセル時 : 8月末までに、その旨を通知ください。 その際、代理の方を
指名されるますことも許可いたします。
9月1日以降のキャンセルは、参加費(6,000円)を徴収させていただきます。
注意事項 : 原則、全員が「つくばエキスプレス」利用とします。
9月25日(月)までに、キャディバッグ、ボストンバッグ、
その他を宅配便で発送してください。
協賛依頼 : 協賛品、協賛金を募っております。 金額上限(5万円/人 以下)
日時 9月24日(土)17:30受付開始 18:00開宴
会場 リーガロイヤルホテル(早稲田)「エメラルド」
http://www.rihga.co.jp/tokyo/index.html
二次会は1F「セラーバー」20:30頃〜(二次会のみの参加も可能です)
http://www.rihga.co.jp/tokyo/restaurant/list/cellarbar/index.html
会費 会員8000円 同伴者5000円 在校生・留学生無料
「春の懇親会」と並ぶ、当会の重要なイベントですので、是非、ご参加下さい。
当日は来賓として大学当局から2名程度、応援団6名の参加のもと、3名の今年度奨学生を紹介致します。
会員の皆様、在校生、留学生等が気軽に集まれる「親睦」の場としたいと思います。
連絡先 早稲田大学ウリ稲門会 朴魯善(パク・ノソン)TEL.090−8850−8500
本日の総会にお集まり頂きましたご来賓並びにウリ稲門会会員の皆様、アンニョンハシムニカ?諸先輩、学兄の皆様には平素よりウリ稲門会活動に心温まるご支援、ご協力を賜りまして深く感謝申し上げます。
私が伝統あるウリ稲門会の会長という大役をお引き受けして早いもので2年が経過しました。本日の定期総会を迎えるにあたり、2年前、身が引き締まる思いで就任挨拶をさせて頂きましたのを昨今のように思いだしました。皆様よくご存じのとおり私は凡庸な男ですから、大した約束事はしませんでしたが、色々なことはさて置き就任時の挨拶の中で一つだけ強調させて頂いたことがあります。「私たちは早稲田に学んだ在日」という共有、即ち立ち位置、視点でこの会の運営にあたるということでした。この点に関しましては、執行部及び会員の皆様のご支援、ご協力を頂きまして、ブレなく会の運営に当たれたと自負しております。
この2年間の活動に関しましては、例年通り新年会・納涼会などの恒例行事で会員の親睦、交流を促進したのは言うまでもないことですが、私が本日この場で報告させて頂きたいのは、先ず、昨年9月6日の臨時総会で決議されました「ウリ稲門会奨学事業募金」が成功裏に終了し、愈々この新年度より募集開始、書類選考後の7月に候補者の面接を実施し、2015年度に限っては各学年3名、新入生を含め計12名の在校生に各40万円の無償の奨学金が授与される運びとなったことです。集まりました寄付の総額は1306万円と予定を大きく上回りました。今年度は特別に12名に供与しますが、来年度からは一年度に2名ずつ、計10年間を区切りとしております。今年、この奨学金を授与される新入生を含む在校生は、秋に予定しておりますウリ稲門会の納涼会に参加して頂き、奨学証授与式を執り行うこととなっております。今後の新会員増強、フレッシュパワー注入という意味に於いても非常に楽しみです。
このウリ稲門会奨学事業の成功は会員皆様の協力の賜物です。順不同になりますが、何はともあれ、この事業は浄財なしには成立ちませんでした。金額の多寡は別として、寄付をお寄せ下さった諸先輩、諸学兄に心よりお礼申しあげます。次に、この事業に心から賛同し、熱い支援、惜しみない協力をしてくださった母校及び母校校友会の関係者の皆様に深謝申し上げます。最後に、この事業の実現に向け、会長である私を支え、多忙な中、数限りない会合に集まり、議論し、入念な計画を練り、交渉し、実を結ばせた執行部の皆さんに賞賛と敬意、感謝の気持ちを、この場を借りて改めて伝えたいと思います。
余談ですが、ある執行部の一人は、自分の会社での仕事よりウリ稲門会仕事量の方が多いのではないかと、愚痴にもならないことをこぼしていました。会費もしっかり徴収しましたので、今日は、総会後の懇親会で、手酌でしっかり飲んで自らを慰労してください。
その他、特記すべき活動としましては、早稲田の永遠のライバル慶応と「ウリ稲門会 VS
コリア三田会親善ゴルフ」と称し初の早慶戦を実施したことです。今後のこともありますので花を持たすというか勝を譲った結果となっております。このことに関しては後の質疑応答で会長の責任を問うことはないよう事前に断っておきます。
以上、かいつまんで活動の主なものに触れましたが、同窓会の集まりとは云え、ウリ稲門会にはまだまだ課題があります。一つは、韓国や日本の社会同様、同窓会組織の高齢化に伴って組織が逆ピラミッド型、もしくは、世代層によってはかなりいびつな形になってきているということです。皆様のお蔭で。奨学金の授与も始まりますので少しずつ是正の策を講じて行ければと考えております。二つ目は、組織財政の脆弱性です。同窓会は会費制にて賄っておりますが、年々集まる会費が漸減しており、この対策も講じて行かなければなりません。
更には、全国にいる会員の皆様に同窓会の情報提供をより効率的に伝えていくにはどうすべきか、どのような方法で行うのか等々も課題の一つです。こういった課題は次の執行部で順次解決に向け取り組んで頂けたらと考えます。
挨拶が少し長くなってきたようです。最後に、当然ことですが、同窓会は会員の皆様の温かい支援、協力、自主的な参加なくしては成り立ちませんが、とりわけ、会の運営にあたり長年事務所として拠点を提供してくださった沈顧問、そして新しく事務所の使用を快諾してくれました李宇海学兄に会を代表してお礼申し上げます。
心のふるさと われらが母校
集まり散じて人は変われど
仰ぐは同じき理想の光
この校歌の意味するものに加え、我が同窓会は、在日として学び青春時代を過ごしてきたという貴重な経験を共有している会員による集まりです。この伝統あるウリ稲門会の会長を諸先輩、諸学兄皆様のご協力を持ちまして任期を全うできましたことを深謝し私の挨拶とさせていただきます。カムサハムニダ。
安王錫顧問
1941年7月8日 生まれ
1961年教育学部入学
2015年10月23日 ご逝去(享年74歳)
「内臓を10キロ切ったよ」6年前に膵臓がんで大手術を受けた後の安顧問から聴いた言葉です。その後、経過は順調で、5年の間に再発もなく、担当医からは「完治おめでとうございます」と伝えられていたにもかかわらず、今年の6月、突然、末期の肺がんを宣告されたそうです。「定期検診を受けていながら、何故、もっとはやく発見できなかったのか」、ご遺族の無念は測り知れませんが、ご本人は、担当医に「ご苦労様でした。有り難うございます」と返答したそうです。泣いたのは、それを聞いた担当医の方でした。本人の希望に則り、10月25日にご家族で密葬をされていたところ、多数の弔問客がいらっしゃったため、急遽26日に告別式となりました。突然、かつ時間不足で、訃報がいきわたりませんでした。ご容赦下さい。
在学中は韓文研に所属。後輩からの人望も厚く、1964年度幹事長に就任。「自分には厳しく、他人にはやさしい、確固たる人生観を貫いた稀有な存在だった。強い人だった。」(金博夫談)卒業後は、新宿三丁目の実家のキムチ屋を手伝い、その後、コマ劇場近くの地下で欧米風の飲食店を開業。これが、大繁盛し、実業家としての道を進むこととなる。当時、韓文研の後輩が資金援助をお願いに行くと、いつも多額のカンパを下さり、後輩の面倒見はとても良かった。「ただ、ただ、感謝したい。実社会で活躍している姿は、その後に続く後輩達に、大いに自信を与えた」(呉世一談)
当会では2007年に会長に就任。韓文研幹事長出身者が会長になられたと聞き、何かお手伝いできないかと、すぐに後輩有志5名が自主的に集まった。後輩に仕事を押し付けることもなく、気配りを忘れず、育成し、これがその後の幹事団となり、現在も「実務集団」として継続してきている。当時から在校生のための、「奨学基金」構想が持ち上がっていたが、何かと困難を伴い、その後に金君夫現会長によって、実現することになる。本国の「韓国校友会」との交流、在学中の留学生との交流もこの時期に始まり、現在も続いている。「北にも校友会があれば交流したいのだが、無いからね・・・」(本人談)と、ポツリとおっしゃっていた。
慈善事業にも熱心で、東京・王仁(ワニ)ライオンズクラブの会長を歴任。1990年代には、北の「食糧不足問題」に心を痛め、人道的立場から「北朝鮮の子供達に愛の手を」活動を推進、大量の小麦、バナナ、卵等を輸送し、「確実に子供達の手に届くのを確認するため」(本人談)自ら北朝鮮に渡った。
ジェントルマンを絵に描いたような方でありました。今は、ただ、ただ、先輩のご冥福を祈るのみです。
沈廣燮顧問
1935年1月20日生まれ
1958年商学部入学
2015年11月4日 ご逝去(享年80歳)
今年の5月、肺がんで余命6ヶ月の宣告を受ける。亡くなる1ヶ月まで、会員の誰も病状に気付かず、10月頃から、だいぶお疲れのようだということで、亡くなる数日前に、「お疲れのようだと聞きましたが、体調はいかがですか」と電話したところ、「大丈夫だ。12月の忘年会は参加するから場所と時間を教えてくれ」と、しっかりした口調でおっしゃってました。自宅療養で、特に抗がん剤等も特に使われませんでした。「担当医は6ヶ月と言っていたけど、なんとか、このまま元気でいて欲しい」という家族の願いも虚しく、息子さんには担当医から、「来年、元気に生活しているということはない」と、伝えられていたそうです。当会のイベントには必ず参加されていたのに、9月の納涼会は欠席され、今にしてみれば、その頃から体調が優れなかったのかもしれません。元気なうちにと思われたのか、7月には、ご家族、お孫様たちと旅行を楽しまれていたとのことで、それが、ひとつの救いに思われます。葬儀当日は広めの会場が満席、入りきれない弔問客で会場の3Fロビーも満杯、1Fの受付ロビーまで人の波となっていました。「会場がなかなか見つからず、皆様が入り切れず申し訳ありませんでした。」(奥様談)とのことです。
昔から、焼肉明月館は在日なら知らない人のいない程、有名でした。「沈顧問」というより、「明月館の松井さん」で通ってました。専務の息子さん、支配人の平林さんがしっかりしていらっしゃり、これからも明月館の発展を祈念しております。当会の事務所も昨年の夏まで、明月館のある明広ビル4Fに置かれていました。長年、同窓会の事務所を提供して頂き、改めて深謝致す次第です。新事務所は監査役の李宇海弁護士が快く引き受けてくれました。「歴史的役割は弊所にて継承致します。光栄です」(李宇海談)昨年末には感謝を込めて、色紙2枚に皆で寄せ書きをし、額縁に入れて、お渡ししました。金君夫会長の強い意向でした。「これはウチの家宝にしないといけないな~」(本人談)と嬉しそうに受け取って頂きました。「同窓会だけに留まらず、民族社会に多大な貢献をされた。今は、とにかく寂しい。30年前には家族ぐるみでハワイに行ったことが懐かしい。楽しかった。明月館は心のふるさと、シルクロードのオアシスの様なものだった」(文一陳談)
周囲の信望も厚く、常に、献身的な方でした。東京・王仁(ワニ)ライオンズクラブの会長を二回歴任。当会では2003年から4年間に亘り、会長を務めていらっしゃいました。「主人はウリ稲門会やライオンズの会合があるときは、いつも、嬉しそうに出かけてましたよ」(奥様談)
波乱の人生であったとご推察いたしますが、今は、安らかに、天上から我々をお見守り下さい。 合掌。
今年は、まさかと思う時期に立て続けに、顧問2名が去っていかれました。ここでは、「会長・顧問歴任者」のみの掲載となりましたが、「春秋会」の有力メンバーであった、金漢相学兄(5月26日ご逝去)を含め、掲載し切れなかった先達の方々の恩恵を忘れることなく、今後も、当会の親睦の輪を広げていきたいと思います。亡くなられた先達方に改めて敬意を表し、ご冥福を祈る次第であります。(文責 河:文中敬称略)