早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

私の就職活動体験記

2010-11-24 19:30:17 | 現役学生の一言

早稲田大学法学部4年
                            姜  貴浩

 私が今回、自分の就職活動について体験記を書く機会をいただいたのはウリ稲門会の朱先輩に「内定式を無事に終えました」という報告をしたことがきっかけでした。

多くの回り道をしてきたことで年齢が28歳ということ、そして在日コリアンという立場という世間一般では「多くの困難」を抱えながらも複数の企業から内々定をいただけるにいたった道のりを記す事で『就職氷河期』といわれる状況を「突破するためのヒントにしていただけるのでは」という朱先輩の誘い文句に乗ってしまいお引き受け致しました。

 そもそも、早稲田大学に入学したのは「法学の研究者」をめざし、そのなかでも自分の専攻である「民法の財産法」を中心に学び直し、現早稲田大学総長である「鎌田薫先生」の弟子になることを目標にしていたためでした。
東京学芸大学附属高校を卒業後、国公立医学部を目指しながら複数の大学や学部を出入りし遠回りをしてきた中で「法学は社会を診る医者」という言葉にひかれ「民法学者」を目指して学んでいきました。

 念願晴れて、鎌田薫ゼミナールの入ゼミが許可され日々忙しいながらも充実した毎日を過ごしていましたが、「光陰矢の如し」。大学院入試の出願を検討する時期に入ると「このまま進んで本当に研究者として食べていく事が出来るのか、具体的にはどのくらいの時間を要するのだろう」と悩む日々が続きました。

ゼミ合宿などゆっくりお話が出来る機会に鎌田先生やゼミの指導に参加されていた白石先生(社会人から研究者の道に進まれた経歴をお持ち)に相談していく中で「一度、社会に出る事は可能なのか?」という疑問がわき起こり企業の法務部などで活躍された経歴をお持ちの先生を捜していたところ堀龍兒先生に出会いました。

相談を重ねていく中で「学部の新卒を使えるのは今しかない。年齢的にもリミットだと思う。社会に出ても法学は学んでいく事が出来るし自分の頑張り次第で大学に戻る事も可能だよ」という言葉がきっかけで就職活動を始めたのが2009年11月中旬。

 内定が取れなければ、研究者の道一本で進もうと決断し鎌田先生に報告にうかがうと「民間に行くのはもったいない。年齢を考えると厳しい就職活動になるだろうから様々な選択肢を用意した方がいいだろう。早稲田は君がいつ戻ってきても門は開いてあるからな」と本当に心に響くお言葉を頂き「よし!自分の力を尽くしてやれることはやろう!!」と決意したのでありました。

 就職活動をするにあたって、心がけていた事は多くの方々に直接お話を聞くことでした。いわゆる就活本やインターネットでは「28歳の在日コリアンの学部生」の就職活動については何も出ている訳が無く自分の足で稼いで企業の先輩社員や人事部の方に直接疑問をぶつけていくことが私の就職活動の根幹であったと言っても過言ではありません。

セレンディピティ(serendipity)という言葉がありますが、エントリー数は業界や業種を絞らず100社近くしました。『内定』という偶然を生み出すためには、多くのきっかけを散りばめておく必要があると考えたためでした。OB訪問も、商社を中心に30人以上にお会いし早稲田のOBだけでなく学芸大学附属高校のOBにも行いました。

 今、考えると多くの先輩方とお会いした事で「面接力」が養われたと思います。商社の先輩方はリクルーターとは異なり忌憚なく率直に自己PRの内容や話の組み立て方に意見やアドヴァイスをくれ、選考とは別物という意識がこちらにもあるため様々な試行錯誤をする事が出来ます。
自分が話した内容は「6年続けた小学校でのボランティア」「5年続けた中学受験塾でのアルバイト」「民法学を学んできた経緯」でした。OB訪問を重ねていった事で、これらの内容が有機的に結びつき自己PRや将来の展望、自己分析につなげる事が出来、論理的な面接対応が出来たように思います。
「論理的」という言葉が出てきましたので、触れておきますが鎌田薫ゼミナールでのゼミ発表、ゼミ合宿は本当に良い教訓となり入念な準備があってこそ「よい発表」ができる事を学びました。面接においても採用ホームページやパンフレットに限らずディスクロージャーやCSRなどにも文献を芋ずる式に調べ説明会などで得た情報と総合する事で企業分析に厚みを持たす事が出来、選考を受けた人事の方々からはお褒めの言葉を頂くことが多かったです。

 金融は+2まで。これは就活生の間で言われる都市伝説のようなもので2浪、2留以上の年齢つまり学部生では24歳以上になると金融を含めてリクルーター面談がある企業は選考フローに乗る事は不可能であるというものです。
私自身もこの「セオリー」に縛られ金融へのエントリーをためらい、しておりませんでしたが「受験のように受験代がかかるわけでもないのでエントリーしておこう」と考えを変えメガバンク、信託銀行を中心に金融以外のリクルーター選考のある企業に連続してエントリーをしました。

驚く事に、政府系の金融や元公社、メガバンク、信託銀行、鉄道、インフラなど外国人にも厳しいと言われる業界などからもリクルーター面談の電話をいただき選考フローに乗る事が出来たのです。
当然、全てがトントンと進めた訳ではありませんでしたが4月1日には内定が出るかもしれないという淡い期待を抱いてしまうくらい順調そのものでした。
3月末の時点で最終選考まで残った企業が3社ほどあり、最終手前も複数ありましたが4月に入ったとたん内定はおろか、手元に残っている選考の案内は消えてしまいました。
リクルーター面談に安易に進めてしまったために業界の幅をあまり広げずエントリー数もこの時点では40社程度。危機に直面して改めて「セレンディピティ」の大切さに気づき、業種や業界を絞らず中小企業も含めて選考会に直結の説明会を沢山入れられるだけ予約をして足を運びました。製薬会社、繊維素材メーカー、化学メーカー、専門商社、電機メーカー、鉄鋼、生命保険とエントリー出来るところは全てしました。

この時期になってエントリーが100社程度になりました。様々な企業の説明会や選考に参加していく中で「多くの事が学べる金融がよい」「誰かのために貢献する事が出来る企業が良い」「できれば子会社ではなく本体がよい」「やはり、まだまだ影響力がある旧財閥系企業が良い」という条件を付けて選考に望んでいきました。

 リベンジである4月以降の選考で初めて、三井物産の子会社から内定を頂くと製薬会社のMR職から生命保険会社まで合計5社から内々定をいただきました。まさか、この『就職氷河期』という逆風の中で、しかも「28歳の在日コリアン」という条件で内定を複数取れるとは考えていませんでした。

最終面接で、次々と落とされてさすがに気がめいっているとき励みになった事があります。それは、ウリ稲門会の忘年会や新年会でお会いしたコリアンの先輩方です。
多くの大先輩方が、早稲田のOB・OGとして社会で活躍されている様子を伺った事で自分も先輩方のようにしっかり日本社会で活躍していきたい!と鼓舞させました。ウリ稲門会との出会いがあったからこそ就職活動を無事に終える事が出来たと思います。

 私は、2011年4月より三井生命株式会社で総合職の職員として働く事となりました。業界順位も低く不安要素も多いですが先輩社員や人事部長をはじめ人事の方々が私の遠回り人生の話に真摯に耳を傾け、会社の現状も率直に話していただき「こういう現状だからこそ、姜くんのような人物を採用したい。どこにでも通用するような金融マンに育つような教育は私たちが必ず用意するから、あとは姜くんが今までのように熱心に取り組んでくれればいい」という最終面接での殺し文句に惚れて内定を受諾したのでした。

三井生命は、グループディスカッション(16名近くから1名通過)で早稲田のOBに拾っていただき、人事面接ではその場で最終への通過を宣告され、最終面接ではその場で殺し文句とともに内定を頂き多大なる評価をいただけたのが決め手でもありました。内定者となって三井生命を含めて他者の人事の方とお話をする機会があったので聞いたところ書類では「大学、所属ゼミ、出身高校」はチェックするそうです。それを考えるとたまたま、額面上揃ったために足切りにあわなかったようでした。

 最後に、貴重なスペースを使わせていただき特殊な経歴の私の『就活体験記』を書かせていただく機会を頂きましてありがとうございました。
この稚拙な文章を読んだ現役の就活生の方、ご子息ご息女が就職活動を迎える方でもし 聞いてみたいという事がありましたらお声をかけていただければ幸いです。

生命保険業界に身を置くということからも先輩方には今後より一層お世話になることが増えていきそうですが何卒よきご指導、ご鞭撻を宜しくお願い致します。


早稲田大VS高麗大サッカー定期戦観戦記

2007-09-13 10:59:11 | 現役学生の一言

初めまして 早稲田大学創造理工学部社会環境工学科1年の李殷在(19)と申します。
2007年7月26日東京国立競技場で行われた早稲田大学創立125周年記念、早稲田大学VS高麗大学の試合の観戦記を書かせていただくことになりました。今回の観戦にお誘いいただいたことを諸先輩方に対して深く感謝しております。
試合のほうは、序盤早稲田は高麗大の高い身体能力に屈し、試合の主導権を握られ1点を先制されましたが、後半は持ち直し1点を返し、早稲田が試合を支配し続ける形になっておりました。最終的に1―1で引き分け、互いにわだかまりの残らない試合になったと思いました。試合を応援する上で、早稲田の学生であり、そして韓国人でもある私の立場として、どちらを応援したら良いものかと悩むところでした。内心両方勝ってほしいと願っていたかもしれません。結果同点になって安心しました。
早稲田大学への進学が決まったとき祖父から渡されたのは、25年間宝のように大切に保管してあった早稲田大学の四角帽でした。父は早稲田大学の社会科学学部出身で、25年前学部卒業の時に被った帽子だったそうです。祖父の兄も早稲田大学の政治経済学部に通っていたそうで、三世代通して早稲田に通っていることにただならぬ縁を感じられずにはいられません。
在日3世として生まれ19年間、他国に住んでいながらも恵まれた環境で、こういった日本と韓国との試合を観戦できることを考えると胸が熱くなりました。今こうした環境で僕らが生活できるのは、多くの先輩方々が苦難の歴史を乗り越えて来たからこそだと思います。僕たちもこれを受け継ぎ進取の精神と共にさらなる努力をし続け、在日社会の向上を目指していかなければならないと思いました。
今回、サッカーという一つの競技を通し、沢山のことを学ばせていただいたことに深く感謝しております。
 今後ともOB、現役学生とのパイプを取り持ち、現役学生と共に会を一層盛り上げるために努力させていただきたいと思っています。


商学部2年生 姜 裕史

2007-04-23 00:00:00 | 現役学生の一言

 早稲田大学に入学して早一年が過ぎました。入学当初は、高校時代に抱いていた大学生活のイメージとのギャップに多少の戸惑いも感じましたが、二年生となった今では、授業やクラス、サークルにバイトと毎日充実した大学生活を送っています。

 高校三年の三月、早稲田大学入学が決まり、手続きをしている中で、私は第二外国語に朝鮮語があることを見つけました。小学校・中学・高校の18年間、通名を使い、周りの友人に対しては在日であることを隠すわけでもなく、かといって在日であることを強く意識し、誇りに思うわけでもなく生きてきました。大学という新たなフィールドに立つのに際し、母国である韓国のこと、さらには自分自身のことをもう一度見直して根本的に理解するための良い機会になるのではないかと考え、私は朝鮮語を選択することにしました。また両親から、早稲田には昔から多くの在日が在籍しているので、朝鮮語のクラスにも何人かいるのではないかとの助言もあり、在日の友人を作れるかもという期待も抱いていました。

 今では朝鮮語を学び始めて二年目に入り、ハングルの読み書きや挨拶、簡単な会話や文法まではできるようになりました。時折担当の先生が話してくれる韓国の文化や歴史はとても勉強になり、朝鮮語を選択してよかったと思えることが多いです。ただ、一つだけ心に引っかかるものがあります。それは、クラスに在日の仲間が一人もいないことです。周りの友人は皆日本人で、彼らは韓国に興味があったり、韓国の映画やドラマが好きだったりといった理由で朝鮮語を選択したらしく、それはそれで嬉しいことなのですが、私には在日の友人を大学で作りたかったという気持ちがありました。

 そんな気持ちから先日、この記事を書くきっかけとなったウリ稲門会の会合に参加させていただきました。残念ながら現役の学生は私だけで、ご一緒していた時間も少ないものでしたが、同窓会ならではの温かい雰囲気と学生の頃から続いているのであろうメンバー同士の絆の深さを感じることができました。

 そして今、私はクラスや現在参加しているサークルとはまた別に、ウリ稲門会のような同年代の在日の仲間が集まり、時間を共有する、そんな場にもっと積極的に参加したいと思っています。よく「大学生は四年間、何をするのも自由」といった言葉を耳にしますが、その言葉は裏を返せば、「何もしなくても四年間、惰性で過ごすのも自由」になってしまうわけで、高校までとは違い、大学はやはり自分から動かなければ何も変わりません。これからの三年間、私はウリ稲門会やその他の在日の学生が集まる場へと自ら足を運び、在日の仲間を増やして、その中で自分の意見や考え、時には夢を語ったり、また逆に聞いたりして価値観を広げ、社会に出る前の大事な残りの大学生活を悔いの残らない、実のあるものにしたいと思っています。