早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

韓国映画-極私的好み-

2009-07-03 22:07:23 | 連載コラム

私の連載コラムもこれが最後となりました。
 趣味を開陳しても迷惑だと思っていままで書かなかった,好みの韓国映画を羅列します。

「誤発弾」
60年代初頭のソウルで生活するサラリーマンの話。ハコバン,と呼ばれたバラックに暮らしている(場所は,往十里などの当時の細民街か?)。
病床の母親が呻くように繰り返す「帰ろう。」との台詞が,北の地域への帰郷心の表現とも解釈できることから,当時の政権の検閲を受けて一時上映禁止となった。
つい最近,NHKで韓国映画を取り上げた特集が組まれていたが,この映画を撮ったユ・ヒョンモク監督がインタビュー出演しており,イタリアのネオリアリズムの影響を受けた,と語っていた。
当時の,貧寒としか形容できないソウルの街頭風景が観られる。こんな街だったのか,と驚く。

「森浦への道」
 若い労働者,刑務所を出てきた中年男,居酒屋から逃げ出した若い女性,という3人のロードム-ビー。
中年男の故郷である,森浦(架空の町)を目指すが,男の記憶にある町からは大きく変容している。
 70年代の,まだ発展しきっていない韓国の,田舎町や小さな駅の風景がもの哀しい。
この哀しい話はどうなるのだろうと思って観ていても,結局哀しいまま救いなく終わるというのは,イム・ゴンテク監督の「風の丘を越えて 西便制」などもそうで,韓国映画にはままある。

「グリーンフィッシュ」
 名匠イ・チャンドン監督の4部作(残りは,「ペパーミントキャンディ」「オアシス」「シークレットサンシャイン」)の内では最も有名ではないが,名優ハン・ソッキュが自ら“演技に目覚めた”と言う社会派映画。
ソウル近郊の田園地帯がベッドタウンとして開発されていく陰で,障害者の兄を持つ主人公がギャングの手下として破滅していく話。ギャングの親玉を演じるのは,かの文益煥牧師の息子さんである。
敵方の親玉を暗殺しに向かうハン・ソッキュが着けたオイルライターの火が,サングラスに大きく映る場面が興趣に満ちている。

「ペパーミントキャンディ」
 原題は,「薄荷砂糖」。しかし甘い映画ではなく,労働運動,警察の拷問,光州民主化抗争,バブル経済の破綻等々を,自殺した40歳の男の境涯を通して描く,極めて社会的な趣の映画である。主役はソル・ギョング。
 四方田犬彦氏によると,韓国人なら,おしなべて目を背けたくなる様な現代韓国史の陰画であるとされる(岩波新書「ソウルの風景」)。
相手役の女優はムン・ソリ。この二人が犯歴保有者と重度脳性麻痺の女性を各々演じたのが「オアシス」で,こちらは韓国社会の少数弱者に対する冷酷さを描いている。
いずれも,ビールを飲みながら気楽に観られる映画ではない。

「チング」
 有名な映画であるが,ジェンダーの立場からは,身勝手でアホな不良男達の姿に過ぎないとの論難もある。
 以前,ソウルでタクシーに乗った際,運転手がこの映画のチラシを車内に貼り付けていたので,主人公達と同じ「386」と呼ばれた世代には特別の感懐をもたらすのだと思う。
 この映画も,70年代の釜山の様子が描かれているところが良い。
あとは,ローラースケート場で,主人公が跳び蹴りの一発で敵の不良を倒すシーンも良い。
男ばかりの,ホモソーシャルな話の典型であるが,ほぼ実話であり,上映された時期に獄中にいた主人公の一人が「アレはオレのことだ」と,えばったらしい。

「受取人不明」
 米軍基地近郊の村で,アフリカ系アメリカ人兵士を父に持つ少年を主人公にしている。
「春夏秋冬,そして春」「悪い男」などの奇才,キム・ギドク監督の作品。
 これも,いったいこの暗い話はどうなっていくのかと心配していると,どうにもならずに終わっていく。
主人公の家族とは別の家族についてだが,父親が6.25で名誉の戦死をしたはずだったのに実は北の国家に去っていたことが分かって,急に警察の監視対象にされる挿話があり,「赤の家族」とされた人々が惨い迫害を受けてきたことが分かる。
さきほどのイム・ゴンテク監督は自身がその迫害を受けてきた人物であり,「シルミド」でソル・ギョングが演じた主人公もそういう設定下の男だった。
連座制と呼ばれた国家ぐるみの差別については,つい最近まで詳しいことを知らなかった。
平凡社から日本語の翻訳本が出ている「朝鮮戦争の社会史」(金東椿/原題「戦争と社会」)という本に,その当たりの事が触れてある。

「マルチュク青春通り」
 原題は「マルチュク通り残酷史」というもので先の「386」世代等が70年代後半に過ごした,軍隊並みの高校生活が描かれる。
1979年の,開発が始まった頃のソウル江南地域が舞台。学校に常駐する軍人,えこひいきされる高級軍人の息子,体罰と喧嘩に荒れ果てる高校生の心象,などが描かれる。
 最後にクォン・サンウ演じる主人公が「韓国の学校,クソ食らえ」と叫ぶ。
こうした高校生活を強いられた彼らが,大学進学後に6月民衆抗争で民主化運動の前面に立った,のだという向きの解説もある。

 もちろん,その他にも数多く名画がありますが,極私的には「グリーンフィッシュ」が最も素晴らしいと感じます。
                                 以上


焼き肉屋の写真を・・・。

2009-01-25 22:00:49 | 連載コラム

李  宇 海
 
 在日一世の写真集やオーラルヒストリーを集めた本が出版されているが,古い焼き肉屋の写真もだれかが撮っておかないと,全部なくなってしまうことが心配である。古い焼き肉屋の佇まいは,同胞の生活史の象徴のように見える。
 世田谷の三軒茶屋付近で,築50年ほどの,小さな木造2階建ての焼き肉屋を見たことがある。表通りではなく,裏の住宅街の一隅にあって,外に向けてちゃんとメニューも貼り出してあったから,まだ営業していたのだろう。三河島や枝川ではなく世田谷なので余計に珍しく,入ろうかと思ったが,食事時でもなく仕事の途中でもあったので,やめておいた。
 もう建て替えられたが,学生時代に早稲田にあった木造時代の「D苑」も懐かしい佇まいだった。
 上野の,ちかごろは「キムチ横町」などと変な名前で呼ばれている同胞密集地にも,いうまでもないが年代物の建物がある。たしか「T園」という店名だったと思うが,間口は割に大きいものの,正面から見ると木造2階建ての建物全体が傾(かし)いでいて,中にトイレもない(裏口に回ったところに,共同の公衆トイレのようなものがある。)。ここは壁もタタミも油でテカテカだが,ハラミなどは大変に旨い。
 もっというまでもないが,大阪・鶴橋駅のそばにも,シブイ店がたくさんある。ここらの古い店のなかには,メニューが60年代のままで,クッパもビビンバもなく,主食は白飯のみで,ホルモンをはじめとした肉類(しかしタン塩なんかない。)と,ほかには玉子スープとかもやしスープ,キムチしかない(キムチでなく「漬け物」と称されているところがまたいい。)ところがまだある。私の,ごく年少の頃の記憶にもこういう店があって,客は同胞とヘルメット・ニッカボッカ関係の人々だけだった。しかし,猪飼野周辺で私が好きなのは,鶴橋駅のそばよりも御幸森商店街の何件かの焼き肉屋だ。いずれもさほど古い建物ではないのだが,ここにしかない佇まいというのか,同胞が過半を占めるような地域でしか「成立しない」風情がある。
 これら以上に,写真に撮っておきたい,と思ったのは,広島出張に行ったときである。仕事が終わって広島駅から東に向かうJR呉線というのに乗り,呉駅の少し手前の安芸阿賀という駅で降りた(なんでこんなところに行ったかというと,名画「仁義なき戦い」の登場人物たちの,そのモデルになった人々の多くが阿賀の出身と言われており,いっぺん見てみたかったのである。腹巻きをした菅原文太が,雨の中でくわえタバコを投げ捨てるや,「土居!」と叫んでピストルを乱射する,有名なシークエンスがあるが,この土居組のモデルもこの阿賀にあった。)。駅から海に向かっていく広い道路があるのだが,ダンプカーが行き交っているのに歩道も設けられていない。道の左右は,軒の低い家々が並んでいる。歩いているのは私だけだ。
 海水浴場があるような海辺とも違い,漁港と言ってもそんな明るさやのどかさはない。考えてみれば,いまここに来ても「仁義なき戦い」を彷彿させるようなものが見られるはずもない。オノレのバカさ加減に,もう戻ろうか,それにしてもこのダンプはいったい何を運んでいるのか,と後悔していたら,赤提灯に「焼肉」と黒字で抜いたのがぶら下がっている店があった。さきの三軒茶屋の店と同じくらい古く小さい。左右の建物との距離が近すぎて,上野の「T園」のように傾ぐこともできない(ように見える。)。どこにも店名が書いてない。営業はしているように見えるが,周りを見てもうどん屋ひとつないところだ。店が成り立つほど客が来るのだろうか。ここでもよほど入ってみようかと迷ったが,入る決断ができなかった。三軒茶屋でもそうだったのだが,正直に言うと,せっかくの建物の風情なのに,あまり旨くなかったら失望するだろうから,入れなかったのである。
 蛇足だが,この安芸阿賀駅のホームから見た風景は美しかった。降りたときには「土居!」の場面などを思い出していたので気づかなかったが,帰りの列車に乗るためにホームに上がると,右側に見える高い岸壁に陽が落ち掛かっていて,油を流したような瀬戸内海の上をたくさんのカモメが飛んでいた。しかし,そのホームに,どこをとっても勉強した帰りのようには見えない男女の高校生の一団がドヤドヤ上がってきて,地言葉で,風景を根底的に破壊するようないろいろなことを喋り始めるのだった。風景は良くても,高校生の人品は良くなかった。
数年後に,たまたま呉に住む同胞と話す機会があって訊いてみたら,ちゃんとこの店のことを知っており,いまも営業しているそうである。広島に行く機会があれば,こんどは入ってみよう。


カレンスキ-・・・・サハリンの同胞たち

2008-09-06 00:56:20 | 連載コラム

李  宇 海
 
 戦前,日本が支配していたサハリンに,数万の同胞が取り残されたことを,ご存じの学兄も多いと思う。
 現在,彼らとその子孫は,サハリンの人口のうち5%を占めている。
 徴用の名の下に強制連行された1世を含め,この地で同胞達が日本の郵便局に預けた貯金が,いまも返ってこないままになっている。この件は既に訴訟になっていて,かの高木健一弁護団長から弁護団参加のお誘い受けた筆者も,裁判準備のため,7月の終わりにサハリンを訪ねることになった。
 高木弁護士のお薦めで,飛行機ではなく,稚内から5時間半の船旅である。
 コルサコフという港に着く。ここは,日本時代に大泊と呼ばれた街で,下船までの間にデッキから見ると,港の周辺は丘陵になっており,古い,4,5階建ての集合住宅が,背の高い草むらの中に点在しているのだった。荒涼たる,というのは月並みだが,日本の生活がさのみ明るいわけではないにしろ,ここで暮らすことについて生活の明るさを想像するのは難しかった。船内では,5時間半の間に自動販売機のビールをいったい何本飲んだのか,中年のロシア人の男が泥酔し,下船を待っている船客の間で,大きなからだごとドターッと倒れたり,また起きあがったりを繰り返していた。
 解放直後,朝鮮に帰国すべく,樺太の各地からこの港を目指してきた同胞らは,日本人ばかりを乗せた船が往くのを,港の上の丘から悄然と見送った。ちょうど,私がデッキから見た,草むらの丘陵からである。帰国できるまで,と念じながらこの街で何年も働きながら留まった同胞も多かったそうだ。
 この港町から,全さんというハラボジ(75歳だが,ヘビースモーカで酒も大分お飲みになり,極めて頑健かつ頭脳明晰な方だった。ソ連時代には軍人の経験もおありだった。)の車に乗せて頂き,30分ほどで,ユジノサハリンスク,かつての豊原に着いた。サハリン州の州都である。街の中心に近い場所に「韓人文化センター」という瀟洒な建物があり,二階は宿泊施設で,日本のビジネスホテルよりよほど広く,シャワーもふんだんに出る。クーラーはなく,窓を開けるとヤブ蚊が凄いのだが,閉めていてもそう暑くはない。高木弁護士や現地の同胞,そして我が稲門会の李恢成学兄らの努力で,日本政府から拠出させた資金で出来上がった建物である。
 当たり前のことだが,荒涼たる風景の中だとて貧寒な暮らしばかりがあるはずはなかった。自民族中心主義にならないように注意しながら言わなければならないが,我が同胞達は勤勉であり,経済的地位は高く,そういえば街を歩く同胞とおぼしき人々は,相対的に豊かに見える。シンポジュウムや会議を終えた最後の晩,弁護団,原告,その他韓国から訪れた支援者などが大宴会をやった駅前のレストランは,巨大かつド派手であったが,玄関で「オソオセヨ」と出迎えてくれた同胞2世のアジュマがそのオーナーであった。60年代前半までは民族教育が認められていたため,60歳以上ほどの同胞達はウリマルができる。しかし,「韓人文化センター」のフロントにいた20代の若者は,話しかけても笑って「モッラ,モッラ」しか言わないのだった。
 「生まれたらそこがふるさと」だと,在日のわれわれには言いたくない気持もある。しかし,たいていの場所なら,どこででも生きていけるのだろう。やかましくて限りなくせわしないソウルより,また行ってみたい気持ちが,意外にも消えないのである。
                            以上


母校ラグビー部優勝の感想

2008-01-15 09:56:36 | 連載コラム

李  宇 海
 ラグビーの大学選手権も慶応に勝って優勝し,六大学野球と箱根駅伝の往路での優勝とあわせて,「所沢スポーツ大学」と揶揄されている。
 自分の学生時代にも野球やラグビーは時々優勝していたのだろうけど,はっきりは思い出せない。学生スポーツというのは今より地味だっだと記憶している。もっとも,学生スポーツが派手だったら良くないわけではないし(本当は良くないように思うが,そう思う理由は自分でも明らかでない),テレビで観ていると早稲田を応援してしまい,勝つと少しはうれしい。
 しかし,卓球の,あの「愛ちゃん」という人は,見ていて不愉快を感じるわけでもないのに,なぜか別に応援したくはならない(ゴルフの「ハニカミ王子」とかいうのには不愉快を感じる。早稲田とは関係ないが)。同じ個人競技のマラソンでも金哲彦学兄は無論応援したが,これは在日同胞だからそうしただけで,瀬古選手を応援したことはない。早大生の「かたまり」を見ないと,かつて通った大学への帰属意識が刺激されないのである。
南北・在日を問わず,コリアンのスポーツ選手については個人でも団体でも本能的に応援するのに,早稲田については団体競技にだけ感情移入することになるのには,いわば愛族精神と愛校精神の違いの秘密が隠れているように思う(大袈裟だが)。
換言すると,私達がよく使う,「同胞」という言葉の秘密があるんだろうと思える。民族は,生まれながらに自分が投げ込まれている場所であって,同じ場所に投げ込まれてしまった者がたった一人でも闘うのを見ると,どんな気持で闘っているのかが分かる気がする。「同胞」とはそういうものとして,私達に認識されているのだろう。一方,「愛ちゃん」を見ても,「愛ちゃん」が闘っている気持はちっとも分かった気にはならないのである(健気-けなげ-だとは思うが,そんなに必死に卓球をやらなくても,ほかになんとか生きていけるんじゃないかと思う)。
だからとて,愛族精神が気高くて,愛校精神はそうでもないと言いたいわけではない。篠つく雨の国立競技場で慶応と闘った早稲田のラグビー部員達は,勝って泣いていたが(勿論,慶応の部員達は,負けてもっと泣いていた),観ている自分はそこまでは感激しない。どの民族のナショナリズムも,「泣くほどのことはないが応援する」という愛校精神のレベルにまで解かれていく方が,良いと思う。
勿論,「愛ちゃん」を泣くほど応援する在日同胞がいても良いと思う。
                               


「在日外国人・朝青龍」

2007-09-05 15:21:22 | 連載コラム

李  宇 海
 
 腰を疲労骨折したのにモンゴルでサッカーに興じたというので,朝青龍が無茶苦茶に非難されている。不思議なのは,この騒ぎと,その前に騒がれていた八百長疑惑が,まったく関係ないかのようになっていることである。いったい,八百長疑惑はどうなったのか。もし大相撲で八百長が横行していたなら(報道からすると真実性は高い),横綱の品格とか,心技体とか,相撲道とか,いま朝青龍を非難しているその論拠は,大部分崩壊する。
 朝青龍にしてみれば,バカバカしいし,信じられないような気持だろうと,私は推測する。ほかの力士は,自分が出した八百長代(と呼ぶのか?)を受け取っているのに,それで,自分に向けてだけ品格とか心技体とか言われたのでは,大変な欺瞞だと思っているだろう。
 心技体とか,横綱の品格などというのは,日本の国技に独特なもので,これをモンゴル人の朝青龍にちゃんと教えないからいけなかったというのは,錯認である。スポーツはなんでも,精神力と肉体の強靱さと技術が求められるし,チャンピオンに品格が求められるのも一般的なことだ(総合格闘技の王者,エメリヤーエンコ・ヒョードルの,あの品格はどうだ!)。これを日本独特のものと思っているのは,たちの良くない自文化中心主義である。
相撲協会や日本の社会が欠いていたのは,国技の伝統だとかヘチマだとかを朝青龍に教えなかったことではなく,きいたふうなことを言う以上は求められるはずの競技の公正さである。朝青龍が力士になることを望んでこうなったとしても,相撲協会も外国人力士を必要不可欠なものとして望んだのだから,どちらにも公平な,普遍的な価値観を分け合わなければならないのは当たり前ではなかろうか。八百長をはびこらせておきながら,なにを勝手なことを言っているのか。いまのままなら,心技体も品格も相撲道も,大相撲というビジネスを成立させるための虚偽意識である。
思い出さざるを得ないのは,力道山のことだ。国技の伝統などと言っている以上,いま見ているような理不尽さも,力道山の時代から変わっていまい。かの英雄が力士時代に体験させられたことを想像してみると,在日1世の苦難の極北のようなものを見る思いがする。
朝青龍は,国際人権規約の適用に不熱心なこの国に生きる,在日外国人である,と強調したい。 


「継承したいこと」

2007-04-25 21:37:28 | 連載コラム

                                                                     李 宇 海
 
 四方田犬彦が近著「大好きな韓国」の中で,インスタントラーメンの作り方について,韓国人と日本人の違いを書いている。日本人は包装に書かれた作り方を読み,ネギと卵を入れろと書いてあれば用意してそれらを入れ,3分待てとあれば3分待つ。韓国人はそんなものは読まず,いきなり袋を破り捨てて,そこらにあるものを投入し,あるいは麺も粉末スープも別の料理に放り込んで,新たな食べ物を創作してします(プデチゲがそうですね)。日本人は計画を立てて実行することは優れているが,突発事態に対応できず,韓国人は無計画にいきなり始めるから突発事態の連続になるが,(日本人には)思いもよらない方法でそれらを解決していく,というのが四方田説である。
 これ以上に肩入れする必要もないが,韓国人のこのような振る舞いは,別に無思慮というのではなく,「計画を立てても客観的条件が持続するとは限らない」,つまりは「社会は身勝手に変動するものだ」という観念と関係があると思われる。これも激動の韓国近現代史の所産ではなかろうか。
 そういえば思い出すのだが,明洞の食堂の外壁にある料理(ポッサム)の写真に「不意にれかにさられねること」という日本語訳が付いているのを見たことがある。この類の日本語訳はいい加減なのが多く,特に「ン」と「ソ」が混同されていて「テンジャソチゲ」「コムタソ」などと書いてあるのはしょっちゅうである。それにしてもこのポッサムの訳はワケが分からないので,日本に帰って韓日辞典で「ポッサム」の項をひくと,「不意にだれかにさらわれること」と書いてあるのだった。
 件(くだん)の食堂の人は,このひらがなのうち「だ」を書き忘れ,「さらわれ」を「さられね」と写し間違えて,ああなったのである。日本人向けに,とりあえず分かればいい(と言っても,この場合分からないのだが),委細は気にしない,という気質の結果だ。もちろん,ポッサムは,白菜に豚肉やキムチを包んで食べるあの料理のことだが,私の持っている辞書には,なぜかその意味は書かれていなかった。
 こういういい加減さは,在日同胞の間で自嘲気味に語られることが多い。好みの話をすると,こういう気質は(人に迷惑を掛けない限りで),私が是非受け継いで行きたいと思うところである。