早稲田大学ウリ稲門会

在日コリアンOB・OGのためのオフィシャルブログ

アジア志向でゆきたい 〔於2007年3月総会〕

2007-06-03 00:43:45 | 総会来賓のご挨拶

早大前総長 奥島孝康

私が総長時代、分裂したウリ稲門会の再統合を要請してそれが実現したこと、金泳三大統領に特命教授に就任していただいたこと、創立100周年にいただいておきながら長らく放置されていたエミレの鐘のレプリカを大隈庭園に韓鐘閣として設置することを決定したことなど、早稲田大学と韓国との絆を強めて参りました。しかし、金敬得君という韓国籍の学生に日本での法曹への道を開いた優秀な卒業生の若き死という悲しい出来事もありました。心から彼の冥福を祈るものです。

 私のアジア太平洋における「共生と共創」という方針は、いまようやく大きく花開きつつあります。私が韓国の大学と締結した大学間交流協定の数だけでも30数校に達しており、また韓国を含めた教育研究の推進母体として、私が機構長を務めるアジア研究機構もようやく活発に活動を開始しました。

 このように、早稲田大学と韓国との絆は日に日に強められております。早稲田大学の現住所は日本であるが、その本籍はアジアであるという心意気で、これからもアジア志向を強めてゆきたいと考えております。


羅鍾一駐日韓国大使のご挨拶  〔於2007年3月総会〕

2007-04-29 00:08:35 | 総会来賓のご挨拶

 私は日本語があまり堪能ではありませんので、韓国語でご挨拶することをお許し願いたいと思います。実のところ、韓国人の集まりで韓国語の使用許可を得るなんて、おかしな話ですが。(爆笑)

 ともあれ今日はとても感動しております。日本での三年間の勤務を終えてただ今帰国準備中ですが、今日のような感動的な体験は初めてです。早稲田大学に韓国人同窓会があると、前から聞いておりましたので、一度覗いてみたいとは思っていたのですが、このように素晴らしい集まりだとは予想だにしておりませんでした。

 この早稲田大学には遥か昔、私の父も学生として学びに来ておりました。残念ながら三年生の途中でやめておりますので卒業はしておりません。父の日本での記録を探し当てたところ、1917年に予科に入学し、1919年本科で学んでいた時に退学処分を受けておりました。皆さんもよくご存知の“1919年の2.8独立宣言”に関与した咎で学籍を奪われた父は、上海に行ったのです。私は早稲田が韓国の近代化に深くかかわって来たことをよく知っております。そして今なお影響を及ぼし続けていることも。

 この三年の間、私は何度か早稲田を訪れました。講演したこともありますし、学生たちの行事に参加したこともあります。つい二日前にも国際学部の学生たちと懇談会を持ちました。当校の諸施設を見学する機会も得ました。また政経学部を訪問した時などは、ひょっとすると父もここで勉強したのかもしれないという想いにとらわれ、感慨もひとしおでした。あるいはまた演劇博物館では、シェークスピアのハムレットが日本で初めて公演されたのが1905年だったことも知りました。学校側の暖かいご配慮で、教育施設をはじめ、諸々の施設をくまなく参観し、打ち上げはキャンパス近くの居酒屋でした。教授の方々と酒を酌み交わし、ざっくばらんなひとときを過ごしました。日本に来て飲み屋に行ったのは、後にも先にもこれが初めてでした。

 早稲田大学には韓国人留学生が多いのも印象的でした。韓国人教授もけっこう居るんですね。のみならず、韓国に関心を抱き、研究している学生も多く、韓国語を学んでいる学生も2,300人いると聞きました。それ故でしょうか、昨年講演依頼を受けた時、不得意な日本語でするより英語?それとも通訳を介して?等と迷っていた私に、そのまま韓国語でどうぞと言ってくださいました。約1,000人の学生を対象にお話したのですが、多くの学生たちが、講演内容を含めた感想文を送ってくれました。それらの一つひとつを読みながら、私はしみしじみと時代の変遷を感じました。ほぼ一世紀前の昔、同じ早稲田で学んだ父が、これを見たら、どのように感じただろうか、と父の時代に想いを馳せたものでした。

 父の生存中、留学生活についての詳しい話は聞いておりませんでしたが、当時、漢文しか学んだことのない父が、日本に渡り、受験勉強を経て早稲田に入ったのは、二つの国の間でしなければならないことがある、という使命感ゆえだったとか。そして、日本での現実的な困難、苦悩、苦痛、無力感等を断片的に聞いた記憶があります。

 そういえば現在、一ツ橋大学の博士課程で学んでいるある学生、と言っても歴史学者ですが、彼が1910年から1920年迄の韓国人留学生を主題にした博士論文を書いているといいます。その中で私の父も含まれていると聞きました。

 時代の移ろいには激しいものがあります。韓国が独立した、つまり解放を迎えた1945年当時の我がの国のゼロ歳児の死亡率が、どの位かご存知ですか?1,000人中107人が一年も生きられずに死んでいったのです。現在では死亡児数も5人に減り、米国の7人を抜き、大幅に改善されました。また識字率も低く、文字の読める人が全国民の22%しか居ませんでした。経済はどうだったかと言いますと、植民地政府・総督府の戦時支出があまりにも多く、経済と呼べるものがありませんでした。実に驚くべきことです。それでは当時の国民一人当たりの所得は?と調べてみましたが、どこを捜しても見つかりませんでした。1984年は82ドルという統計がありました。今年の我が国の国民所得は2万ドル、昨年の輸出総額は3,000億ドルでした。

 このような数字をみると、日本支配政策の影が深かったのは経済、あるいは教育関係と思われるかもしれませんが、実際は軍事的な思考方式なのです。残された軍事政権的な発想のため、韓国は長い間悶え苦しみ続けて来ました。それが全て日本のせいだとは言いません。

 近年の韓国の社会的発展にはめざましいものがあり、軍国主義的な発想をもつ人は非常に減りました。権威主義的な残滓もほとんど残っていませんし、それ以上に素晴らしいのは女性の社会的進出のめざましさです。今や司法試験や外交官試験の合格者の半分以上を女性が占めております。酒席であれ、冗談にも女性を卑下するような言論を発すれば罰せられます。

 また、韓国ではこの10年間、死刑を1人も執行していません。先の日本の法務大臣の杉浦さんが、韓国の司法制度の実情を是非見たいとおっしゃるので韓国に紹介しました。彼は警察の量刑が緩やかであり、受刑者の人格を尊重している韓国の司法制度は素晴らしいし、先進的だとおっしゃってました。また、服役中に5年間も職業訓練を受けることができ、家族との面会もテレビを通じて行えるシステムが完備されているのに驚嘆して、案内してくれた現場の職員に「これ程充実した設備を整えるには、厖大な額が国家予算に計上されたのではないですか」と質問したそうです。すると「そうでしょうね、でも国会議員たちは、いつ自分がここに入れられるかもしれないと思い、すんなり予算を通過させたんだと思います」と答えたそうです。(爆笑)

 韓国はめざましい発展を遂げていますが、それだけで満足したり、自慢しているわけではありません。盧政権は過去の過ちにも目を向け、過去史の是正、清算に取り組んでもいます。

 祖国が一日も早く統一されることが大事です。これは政府だけの問題ではなく、全民族の課題です。韓国では北と和解し、理解し合うことが大変幸せなことだと考えています。誰が悪くて、誰が良いと言うのではなく自らが謙虚になりましょう。

 早稲田マンは考えや所属、立場等々の違いを乗り越え、ひとつになろうと努力しています。さすが早稲田大学で学んだ人たちは違うなあ、と思いました。これもひとえに、開かれた校風を作りあげてきた総長をはじめとする先生方のご指導の賜物ではないかと思います。