1から続く
1920年代というのはアメリカでは1次大戦後の好景気を反映して株価も上昇した素晴らしい時代だった。そんなときは芸術も全盛を極めるものである。そういう芸術家のヒーローを次から次へと呼んでくる。「フィールドオブドリームス」でケヴィンコスナーが昔の野球選手をグラウンドによんだのと同じノリなのだ。
村上春樹の訳によるスコット・フィッツジェラルドはかなり読んでいる方だ。ゼルダとの関係はあまりにも有名なので、主人公の立場になってみて片やフィッツジェラルドで片やゼルダとわかるならば、そりゃびっくりするわなあ。フィッツジェラルドの作品はゼルダと一緒にいる時が一番良かった。「グレート・ギャツビー」は1925年だ。でも彼女が精神を患ってからは、本人が調子を崩してしまうのである。そういった意味で、ゼルダが振られたとばかりにセーヌの岸辺で泣き崩れるシーンは実にうまい作り方と感じた。
ここでのヘミングウェイもかなりワイルドに演じられている。映画に出てくる闘牛士はよくはしらないが、これは小説のモデルかな?主人公にも君はボクシングが好きかいと聞く場面がある。彼は闘牛や戦争やカジキマグロ釣りや現実な題材を選んでいるが、いずれも男臭さが感じられるものである。実はフィッツェジェラルドとヘミングウェイには実感的題材という部分で共通点がある。実際に両者はパリで会っているらしい。パリでのお互いの会話はそんなに離れてはいないだろう。そういえばウディは映画「マンハッタン」で孫娘マーゴヘミングウェイと共演したなあ。エキゾチックな眉の彼女も今は別世界の人だ。。
パブロピカソが愛人をモデルとして書いた絵について、キャシーベイツ演じるガートルード・スタインと語りあう。教養足りずでガートルードの存在は知らなかった。ウディアレンもうまい俳優を持ってきたものだ。
ピカソの彼女であるアドリアナが以前はモディリアーニと付きあっていた設定である。社交界のヒロイン的存在だ。当代きってのフランスを代表する女優マリオン・コティヤールをウディアレンは起用した。前にパリを舞台にした「世界中がアイラブユー」ではジュリアロバーツを起用して自らキスしてしまう。今回もマリオンとの仕事ではウディはさぞかしご満悦だったと思う。キスシーンも自分の分身のつもりだろう。
ダリを演じたエイドリアン・ブロディも「戦場のピアニスト」とは違う独特の芸術家っぽいムードだ。
コールポーターのピアノもいいが、マリオン・コティヤールとのミッドナイトのデートが素敵だ。
気がつくと19世紀にまでタイムスリップしてしまう。馬車に連れられて行った先は「マキシム」だ。そこにはなんとロートレックがいる。そして横にはゴーギャンがいてマリオンにちょっかいを出す。ため息が出てくる。そうすると映画館で見ている観客からもため息のようなものが出るのがわかった。
マリオンがいう。このまま1890年のパリにいたいと。。。そうすると19世紀の芸術家たちはルネサンスの方がいいという。ミケランジェロの絵に囲まれていたいと。人は昔を美しく回顧したがるというのがウディがいいたかったことのようだ。でも主人公はその時代その時代が一番いいんだという。自分のセリフを主人公にしゃべらせる。
個人的に一番ドキッとしたのは、主人公がプジョーに乗るときに乗車している人がTSエリオットと名乗った時だ。この映画みていて何度も同じ感触を持ったが、この時が一番だ。20世紀の知性といわれるTSエリオットを知ったのはその昔駿台予備校に通っていた時だ。当時英語の教員に奥井先生という人がいた。まだまだ英文700選を書いた鈴木長十先生も元気で受験英語の鬼才伊藤和夫もバリバリだった。でも英訳の洗練さでは奥井潔さんにかなう人はいなかった。どう訳しても自分には奥井先生のようには訳せない。自分の未熟さを感じた。
先だって日経新聞「私の履歴書」でシェイクスピア研究の小田島雄志さんが連載している時、自分の親分として奥井さんの名をあげた時はどきどきした。その奥井先生はTSエリオットを語った。その話は本当に高尚に思った。そんなエリオットを今理解できているわけではない。でも昔を思い出して感慨にふけった。
一度でいいから主人公と同じ気分に浸ってみたい。
別に一日でもいいので。。。
1920年代というのはアメリカでは1次大戦後の好景気を反映して株価も上昇した素晴らしい時代だった。そんなときは芸術も全盛を極めるものである。そういう芸術家のヒーローを次から次へと呼んでくる。「フィールドオブドリームス」でケヴィンコスナーが昔の野球選手をグラウンドによんだのと同じノリなのだ。
村上春樹の訳によるスコット・フィッツジェラルドはかなり読んでいる方だ。ゼルダとの関係はあまりにも有名なので、主人公の立場になってみて片やフィッツジェラルドで片やゼルダとわかるならば、そりゃびっくりするわなあ。フィッツジェラルドの作品はゼルダと一緒にいる時が一番良かった。「グレート・ギャツビー」は1925年だ。でも彼女が精神を患ってからは、本人が調子を崩してしまうのである。そういった意味で、ゼルダが振られたとばかりにセーヌの岸辺で泣き崩れるシーンは実にうまい作り方と感じた。
ここでのヘミングウェイもかなりワイルドに演じられている。映画に出てくる闘牛士はよくはしらないが、これは小説のモデルかな?主人公にも君はボクシングが好きかいと聞く場面がある。彼は闘牛や戦争やカジキマグロ釣りや現実な題材を選んでいるが、いずれも男臭さが感じられるものである。実はフィッツェジェラルドとヘミングウェイには実感的題材という部分で共通点がある。実際に両者はパリで会っているらしい。パリでのお互いの会話はそんなに離れてはいないだろう。そういえばウディは映画「マンハッタン」で孫娘マーゴヘミングウェイと共演したなあ。エキゾチックな眉の彼女も今は別世界の人だ。。
パブロピカソが愛人をモデルとして書いた絵について、キャシーベイツ演じるガートルード・スタインと語りあう。教養足りずでガートルードの存在は知らなかった。ウディアレンもうまい俳優を持ってきたものだ。
ピカソの彼女であるアドリアナが以前はモディリアーニと付きあっていた設定である。社交界のヒロイン的存在だ。当代きってのフランスを代表する女優マリオン・コティヤールをウディアレンは起用した。前にパリを舞台にした「世界中がアイラブユー」ではジュリアロバーツを起用して自らキスしてしまう。今回もマリオンとの仕事ではウディはさぞかしご満悦だったと思う。キスシーンも自分の分身のつもりだろう。
ダリを演じたエイドリアン・ブロディも「戦場のピアニスト」とは違う独特の芸術家っぽいムードだ。
コールポーターのピアノもいいが、マリオン・コティヤールとのミッドナイトのデートが素敵だ。
気がつくと19世紀にまでタイムスリップしてしまう。馬車に連れられて行った先は「マキシム」だ。そこにはなんとロートレックがいる。そして横にはゴーギャンがいてマリオンにちょっかいを出す。ため息が出てくる。そうすると映画館で見ている観客からもため息のようなものが出るのがわかった。
マリオンがいう。このまま1890年のパリにいたいと。。。そうすると19世紀の芸術家たちはルネサンスの方がいいという。ミケランジェロの絵に囲まれていたいと。人は昔を美しく回顧したがるというのがウディがいいたかったことのようだ。でも主人公はその時代その時代が一番いいんだという。自分のセリフを主人公にしゃべらせる。
個人的に一番ドキッとしたのは、主人公がプジョーに乗るときに乗車している人がTSエリオットと名乗った時だ。この映画みていて何度も同じ感触を持ったが、この時が一番だ。20世紀の知性といわれるTSエリオットを知ったのはその昔駿台予備校に通っていた時だ。当時英語の教員に奥井先生という人がいた。まだまだ英文700選を書いた鈴木長十先生も元気で受験英語の鬼才伊藤和夫もバリバリだった。でも英訳の洗練さでは奥井潔さんにかなう人はいなかった。どう訳しても自分には奥井先生のようには訳せない。自分の未熟さを感じた。
先だって日経新聞「私の履歴書」でシェイクスピア研究の小田島雄志さんが連載している時、自分の親分として奥井さんの名をあげた時はどきどきした。その奥井先生はTSエリオットを語った。その話は本当に高尚に思った。そんなエリオットを今理解できているわけではない。でも昔を思い出して感慨にふけった。
一度でいいから主人公と同じ気分に浸ってみたい。
別に一日でもいいので。。。