goo blog サービス終了のお知らせ 

映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「偽りなき者」 マッツ・ミケルセン

2013-12-05 23:01:01 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「偽りなき者」は今年2013年公開のデンマーク映画だ。

無実の罪を着せられた男の孤独な戦いを描くヒューマンドラマ。実に重い映画だ。
いい映画だと思うけど、二度と見たくない。そんな思いを痛切に感じさせる作品だ。主人公は「007/カジノ・ロワイヤル」で存在感を見せたマッツ・ミケルセンが演じる。彼はこの作品で2012年カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した。好演であるが、ひどいイジメにあってさぞかしつらい演技だったと思う。

離婚と失業の試練を乗り越え、幼稚園の教師という職に就いたルーカス(マッツ・ミケルセン)は、ようやく穏やかな日常を取り戻した。
しかしある日、親友テオ(トマス・ボー・ラーセン)の娘クララ(アニカ・ヴィタコプ)の作り話によって、ルーカスは変質者の烙印を押されてしまう。


幼いクララの証言を、町の住人のみならず、親友だと思っていたテオまでもが信じて疑わなかった。無実を証明できる手立てのないルーカスの言葉に、耳を貸す者はいない。仕事も親友も信用も失ったルーカスは、小さな町ですっかり孤立してしまう。彼に向けられる憎悪と敵意はエスカレートし、一人息子のマルクス(ラセ・フォーゲルストラム)にまで危害が及ぶ。ルーカスは、無実の人間の誇りを失わないために、ひたすら耐え続ける生活を余儀なくされる。クリスマス・イブ、追い詰められたルーカスはある決意を胸に、町の住人たちが集う教会へ向かう……。


ここでは徹頭徹尾嫌がらせを受ける。
子供の嘘を大人が信じてしまう。幼稚園の上司は、「勃起しているアソコ」を幼児に見せたというセリフにドッキリする。子供はうそをつかないと思い込む。でも、子供の頃って割と誇大妄想的なウソってみんなつくよなあ。そんなのわかっちゃいないのかな?と思うが、女性らしい思いこみだけで、親に報告した後で、父兄に幼稚園で大変な事件が起きたという。
だんだんムカついてくる。そう自分に思わせるのは脚本家がうまいのであろう。

しかも、主人公はスーパーで販売拒否を受ける。食料品すら買えない。息子もだ。ふざけんじゃないよ。スーパーの店員に暴力まで受けてしまうのである。日本だと、傷害事件で訴えてもよさそうなものだ。などなど本当に容赦ない。ウソをついた女の子へのムカつき度は頂点に達する。虐待したいくらいだ。

このように主人公を窮地に陥れるのがいわゆる上質のミステリーだ。その要素を持つ。


ネタばれだが、一言
最後に主人公が猟に行った時、誰かに狙われる。でも太陽光の逆光で顔が見れない。
誰なんだろう?そんな謎解きの要素がある。愛犬を殺したのも誰かと気になる。
ウソをついた親友の娘の兄貴が怪しいとするのが普通であるが、どうだろう?
最後のパーティには親友テオの妻の姿が見えなかった。この女も幼稚園の園長と同じくらいムカつく奴だよなあ

ケンカしたスーパーの肉職人かな?どれもこれも気になってくる。
最後まで主人公は追われるのだ。
後味は最高に悪い映画
だが、芥川龍之介の「藪の中」みたいな楽しみ方もできる。一度は見てみるべき映画だと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「海と大陸」

2013-11-29 19:25:01 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「海と大陸」は今年公開のイタリア映画だ。

神保町にはよく行くので、知性の殿堂岩波ホールで上演されていることは知っていた。今回dvdのジャケットを見ながらホール前の大きな看板を思い出した。海に浮かぶ船にたくさんの若者が乗っている写真がきれいだ。ちょっと見てみようかと。。
見てみると難民がテーマのようだ。以前「ル・アーブルの靴みがき」でもアフリカからの難民のことが取り上げられていた。どうやら欧州諸国では深刻な問題なのかもしれない。考えさせられるシーンが続く。
初めて知るイタリアの孤島は美しい島だ。映画で映る海の映像からは潮の香りが漂う。それを楽しむだけでも見た価値がある。

地中海に浮かぶイタリアシチリアのリノーサ島。
そこに暮らす20歳のフィリッポ(フィリッポ・プチッロ)は、代々漁師をやってきたプチッロ家の一人息子。父親を2年前に海で亡くし、今は70歳になる祖父エルネスト(ミンモ・クティキオ)と共に海に出ている。

衰退の一途を辿る漁業から観光業に転じた叔父のニーノ(ジュゼッペ・フィオレッロ)は、船を廃船にし、老後を楽しむべきだとエルネストを諭すが、エルネストは聞く耳を持たない。また、母ジュリエッタ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)は、息子を連れて島を離れ、息子とふたり新たな世界で人生をやり直したいと思っている。フィリッポは戸惑っていた。

夏になり、島は観光客で溢れ活気づく。一家は生活費を稼ぐために家を改装し観光客に貸すことにした。自分たちはガレージで生活することにする。3人の若者マウラ(マルティーナ・コデカーザ)、ステファノ、マルコが借りてくれることになり、同世代の3人組と交流できることにフィリッポは喜ぶ。

ある日、いつものように漁に出ていたエルネストとフィリッポは、難民が大量に乗船しているボートをみつける。2人の漁船を見て一部の難民が海に飛び込み助けを求めてきた。2人は溺れそうになっている数人の難民を助けた。難民はアフリカからボートに乗ってやってきたのだ。その中に居た妊娠中のサラ(ティムニット・T)とその息子をガレージに匿うのだが…。

(このあとネタばれ注意)
この難民はエチオピアからだ。アフリカ大陸の地中海際まできてイタリアに向ってくる。子連れの女性の夫はすでにイタリアで働いているという。以前中国からの難民船が随分と日本に来ていたことがあった。最近はあまり聞かない。日中間の緊張も影響していることもあるし、中国の経済状況が好転したからであろう。アフリカは発展を遂げているとは聞くが、貧富の差は激しい。日常生活に困る人たちが次から次へと難民となって欧州を目指している。この映画で難民を演じている女性は実際にアフリカから来た難民だという。

祖父と孫が漁に出ている時に難民が大勢乗った船を見つける。2人の漁船をみつけると難民が懸命に泳いでくる。船をみつけたときには当局に無線連絡をしているのに、泳いで溺れそうになった人たちを見ると、祖父は助けろという。それが海の掟だと言って。。そうして助けてしまうのだ。これは違法である。違法とわかっていながら、祖父は海に携わる男たちのルールを優先させる。そのために船を差し押さえられたりさんざんな目に会うのだ。

最初に難民を助けた後で取り締まり当局からさんざんな目に会ったあとで、主人公のフィリッポが自宅に泊まりに来た女の子とボートで沖合に行く。その時海を泳いでいる難民たちが大挙して二人のボートに助けを求めに来る。このシーンが一番印象的に残る。10人くらいの難民が泳いでボートに向かってくる。すでに痛い目にあっているフィリッポは懸命に船に乗せないようにする。船に乗ろうとする難民は必死だ。それなのにそれを振り切る。その後日が空けた後で、海岸に黒人の死体が漂流してきた。もしかしたら、あの泳いできた難民なのかもしれない?フィリッポは心を痛める。

難民の救済→当局の取り締まり、罰則をうける→主人公海上の難民救済拒否→救済しなかった難民死亡確認
若いフィリッポの心の葛藤が映像を通じて表現される。そして驚くべきラストに進む。
人道的問題が優先されるのか?法を優先させるのか?難しい問題だ。
財政状況は悪いといわれるイタリア当局からすると、これ以上来てもらっては困るのだ。

リノーサ島という名前は知らなかった。ここでは潮のにおいがプンプンするような映像を映してくれる。地形は美しい。
そして映像コンテとして一番美しいのは、観光ビジネスをしている叔父さんが島に来ている若者を連れて島巡りのクルーズに出ているシーンだ。
その写真に魅かれてこの映画を見たものだが、うならせられるほど美しいシーンであった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「命をつなぐバイオリン」

2013-10-30 18:09:23 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「命をつなぐバイオリン」は今年公開のドイツ映画だ。

原題を日本語にすると「神童」である。
第二次大戦初期のソビエト連邦の一部だったウクライナを舞台に、音楽の才能に優れた少年少女と敵国であるドイツ人の女の子との友情を描く。子役の選択が巧みで、実力のあるバイオリンの腕を見せてくれている。


1941年春、ソ連の支配下にあったウクライナが舞台だ。
2人のユダヤ人の子供、アブラーシャという少年はバイオリンで、ラリッサという少女はピアノで、人々を魅了していた。彼らは神童(Wunderkinder)と呼ばれていた。スターリンやソ連の幹部の前で演奏したこともあった。ユダヤ人の音楽教師であるイリーナの指導のもと、アメリカのカーネギー・ホールへのツアーも決定していた。

そんな二人が遊んでいるとドイツ人の少女ハンナが一緒に遊んでくれないかと話しかけてきた。そんなハンナに対して2人は警戒して無視をしていた。そんな時、裕福なハンナの父親がアブラーシャの父親に一緒にレッスンを受けさせることをお願いする。そこには金銭も絡み最初は嫌がるが、「友達になりたかった」というハンナの性格もよく、アブラーシャとラリッサも次第にとけこんでいく。2人が作っている「友情の曲」の譜面をハンナが見て引き込まれる。
しかし、ドイツ軍がソ連に戦争を仕掛けてきた。ドイツ人は一夜にして敵となる。ハンナとその家族は身を隠さなければならなくなった。彼らを救ったのは、アブラーシャとラリッサのユダヤ人家族だった。そして、ドイツ軍がウクライナを占領する。立場が全く逆転して、ドイツ軍将校にハンナの家族が保護される。敵国の将校の前で演奏する機会もでてきた。

そして、ナチスのユダヤ人への迫害が始まった。ユダヤ人2人の祖父母が、強制収容所に送られていく。そして音楽教師イリ―ナも50歳以上ということでドイツ軍から強制招集がかかるのであるが。。。

独ソ戦をとりまく情勢は、世界史の中でも重要な出来事である。
ヒトラーもスターリンもある意味同じような人物だ。ファシズム=全体主義=共産主義だ。ユダヤ人の迫害はドイツの方が極端だが、スターリン主導の粛清はそれに匹敵する。1939年8月両者は独ソ不可侵条約を結び、世界をアッと言わせる。そして翌月ポーランド侵攻で第二次大戦がはじまる。ポーランドはドイツとソビエト両方からの挟み撃ちである。むしろソビエトのポーランド支配の方がえげつなかったというのは映画「エニグマ」でも随分と語られている。ソビエトはフィンランドやバルト三国を占領し、国際連盟を追放されるのだ。

ヒトラーとスターリンの2人似た者同士でお互いのことを信頼していない。ヒトラーは1941年独ソ戦に踏み切るのだ。これ自体がヒトラーの誤りの始まりかもしれない。これには日本の天皇陛下もヤバイと思ったようだ。むしろアフリカの方に目を向けないと「ナポレオン」の二の舞になると、ヒトラーに伝言してくれと東條英機に言ったが全く通じなかった。この映画では、そのナチス占領でウクライナにも大勢いるユダヤ人が迫害を受けるという構図だ。

ユダヤ人迫害の映画は悲劇がほとんどだ。子供を描いたものでは「縞模様のパジャマの少年」がある。結果は別の意味の悲劇ともいえるが、どれもこれも後味はよくない。この映画も同様だ。

でもここでは音楽の素養がある少年少女を起用して、音楽での見せ場を作っているのが若干違うところだろう。
それと、この映画の映像コンテが実に美しい。アングルがよく練られている撮影のうまさが光る。そういう映画としての美しさがあるので映画のレベルが高くなっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「黄金の七人」 

2013-09-06 06:02:57 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「黄金の七人」は1965年のイタリア映画だ。

ルパン三世の原型とも言われる.
「オーシャンズ」シリーズなどこの映画をベースにつくられたものは多い。

スイスのジュネーブにある「スイス銀行」の大金庫は万全の備えをもつ最新式のものだ。扉は電子装置で開閉、地下には坑道をめぐらし電気写真装置、侵水装置などその防御設備には近代化学の粋がもりこまれている。そして中に眠っているのは時価数百億円の金ののべ棒。ある冬の日、真黄色に塗った道路工事の車と、オレンジ色の服を着た六人の男が、道路に穴をあけ地下にもぐっていった。しかし彼らはヨーロッパよりすぐりの泥棒だ。しかも向いのホテルの一室では、リーダーの“教授”とよばれる男アルべール(フィリップ・ルロワ)が、情婦のジョルジア(ロッサナ・ポデスタ)を傍わらに無線通話機、レーダーで総指揮をとっている。特製ドリルで大金庫の底に穴をあげた男たちは午後一時、計画通りに仕事を完了。

時価五億円の金ののべ樺は“銅”という名目でイタリアへ発送されてしまった。「教授」とジョルジアは夜行列車で、あとの六人は車で出発。落合うところはローマ。ところがジョルジアはスイス銀行の支配人としめし合せて、「教授」を眠らせて横取りを計った。しかし役者は「教授」の方が一枚上で計画は見事に失敗。彼は金を独占と思ったが、愛する女は憎めないし、六人も黙ってはいないが。。。

子供のころ、至る所に「黄金の七人」のポスターが街に張ってあった。
小学生の自分が見ても、実に刺激的なポスターであった。ヒロインがかけているメガネが妙に刺激的でドキドキさせられた。

何はともあれ、ヒロインであるロッサナ・ポデスタの美しさに目を奪われる。この当時の日本映画の美人は確かに美人だが、今と比べるとちょっと古臭さを感じさせる。でもロッサナ・ポデスタからはまったく感じさせない。イタリア美人の奥深さだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「東ベルリンから来た女」

2013-08-15 14:47:46 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「東ベルリンから来た女」は80年代の東ドイツを舞台に、国外脱出を画策する女性医師の葛藤を描く人間ドラマ。
2013年ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品である。


非常に重苦しい映画だ。共産圏国の田舎町を描くわけであるから、当然華がない。
ドツボだった共産主義社会の暗部をなめるように映す。
終始映し出される主人公ニーナ・ホスの自転車姿が実に印象的だ。

1980年夏。東西合併を9年後に控える東ドイツが舞台だ。
バルト海沿岸にある小さな町の病院に、女医バルバラ(ニーナ・ホス)が赴任してくる。西ドイツへの移住申請を出したため、東ベルリンの大病院からこの地に左遷されてきたのだ。そんな彼女に、医師アンドレ(ロナルト・ツェアフェルト)と秘密警察<シュタージ>の諜報員シュッツ(ライナー・ボック)の監視の目が光る。

ある日、トルガウの矯正収容施設から逃亡して、髄膜炎を発症した少女ステラ(ヤスナ・フリッツィー・バウアー)を警察が連れてくる。バルバラは、西ベルリンに住む恋人ヨルク(マルク・ヴァシュケ)が用意した逃走資金を協力者から回収して森に隠していた。長旅から戻ると、突然シュタージの家宅捜索と女性職員による屈辱的な身体検査を受ける。
翌朝、アンドレは血清を作っていてステラの妊娠に気づいたことを告げる。翌日、バルバラは森の奥でヨルクと密会する。

アンドレの血清のお陰で回復したステラは、施設に戻りたくないと懇願する。アンドレはかつて致命的な医療ミスを犯し、政府にもみ消してもらう代わりに地方勤務と密告の義務を課せられたことをバルバラに告白する。

その直後、ステラは人民警察によって強制退院させられる。3階から転落して意識不明に陥った少年マリオ(ヤニク・シューマン)が運ばれてくる。マリオの脳にはレントゲンでも見えない血栓がある可能性があったが、リスクを伴う開頭手術をするか、アンドレは苦悩する。
その夜、外国人専用ホテルでヨルクと密会したバルバラは土曜日に密航することを告げられる。翌朝、マリオとの会話で頭蓋骨内出血による記憶障害を直感したバルバラはアンドレを探すが、彼は末期癌を患うシュッツの妻を診察していた。嫌悪感を示すバルバラに、アンドレは病人なら助けると答える。マリオの手術はバルバラの出奔と同日に決まる。

バルバラが旅立とうとした瞬間、再び逃亡してきたステラが彼女を訪ね、一緒にいてと叫ぶが。。。。(kinenote 引用)

日本はマッカーサーのおかげで運良く国が分断されずに済んだが、ドイツは大変だった。
東ドイツは社会主義体制をとったために不自由な生活を余儀なくされた。
グッバイ・レーニン」なんて映画はベルリンの壁前後をコミカルに描いている。

南北に分断された朝鮮半島では南北の往来は命懸けとなった。東西ドイツ間の交流はそれとは全然違うものだったという。1961年に「ベルリンの壁」が構築されても、一部の東ドイツ市民は合法的に西ドイツに移り住むことができたらしい。ところが、社会の担い手として活躍することを期待されていた東ドイツ人に移住の許可が容易に下されることはなかった。
その典型が本作の主人公バルバラだ。医師の彼女は簡単には行かせてくれない。可哀そうだ。冷戦当時、東ドイツはオリンピックでたくさんのメダルをさらっていた。メダリストたちも同様なのであろう。

主人公は知的美人なんだけど、なんか冷たい雰囲気が漂う。気も強そう。
この役には適役だ。
そんな彼女も恋人と会うときだけは、ルンルンとしている。こうも変わるもんかといった感じだけど、女医さんってこんな感じじゃないかしら?女性の丸秘部分まで秘密警察に検閲されるのは屈辱的な感じするけど、仕方ないのかなあ?
そういえばメルケル首相は東ドイツ出身だったなあ。厳密に言うと西側ハンブルグ生まれの東側育ちだ。
エリートが抱くこんな思いわかるのかしら?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ローマ法王の休日」

2013-02-20 17:01:19 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ローマ法王の休日」は昨年公開の作品
「息子の部屋」のナンニ・モレッティ監督が描くハートフルドラマだ。

前ローマ法王が亡くなり、次の法王を投票で選ぶことになった。選出されたのは予想外の人物だった。いざ民衆にバチカンで発表しようとしたら、新法王は失踪してしまう。その顛末を描く。



最近ニュースで現在のローマ教皇が高齢で勇退したい旨の話が伝えられた。亡くなって交代でなく、勇退というのは600年ぶりだそうだ。その昔世界史で「教皇のバビロン捕囚~教会大分裂」は習った。フランスのフィリップ4世が仕掛けて、教皇ボニファティウス8世は失意のまま亡くなった話はあまりに有名だ。アヴィニヨンにもう一つの教皇がいるようになった。教皇に皇帝が謝りに行ったという「カノッサの屈辱」のように教皇の権力が絶大というわけではなかったのだ。その時代、決着をつけたコンスタンツ公会議を前にグレゴリウス12世が退位させられた。それ以来だ。まさにそんな話がある時期に昨年公開の映画を見た。

前のローマ法王が亡くなった。新しい法王を選出するために各国からヴァチカンへ枢機卿たちが招集される。システィーナ礼拝堂で投票が行われるが、枢機卿たちは心の内では重責を担う法王に選ばれたくないと一様に思っていた。下馬評で誰がということでマスコミも騒いでいた。投票の結果、メルヴィル(ミシェル・ピッコリ)が選出される。まったく予想外であった。まわりに祝福されるが心が晴れない。
すでに聖ペドロ広場には新しい法王の就任を祝いにきた人々で溢れかえっていた。バルコニーから就任の演説が控えていたが、メルヴィルは重圧から拒否する。

そして車で移動する際、目を離したすきに新法王が側近から逃げ出してしまうのだ。事務局はそのことが公にならないよう画策した。懸命に街中を捜索する。一方ローマの街に逃げ込んだメルヴィルは、ローマの人々と触れ合う中今後のことを考えるという話だ。

誰でも重責を担うときは、ぶるってしまうものだ。ローマ教皇の場合は世界中で12億人ものカトリック信者のトップである。その重圧はつらいものであろう。現教皇ベネディクトゥス16世が退位したいという気持ちもわかる。
この映画では選出されたメルヴィルはビビって逃げだした。しかし、周りはそうは言えない。
すぐ出てこれないと側近がうそを言う。しかし、それもずっとというわけにはいかない。困ったものだ。
コメディの一種、短編小説タッチでまあ普通の小品でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「夜」 ミケランジェロ・アントニオーニ

2012-06-24 06:22:37 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「夜」は1960年のミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品だ。

ジャンヌモローとマルチェロ・マストロヤンニの当代きってのスターの競演にアントニオーニ監督前作「情事」で強烈な存在感を示したモニカ・ヴィッティが加わる。
スタイリッシュな映画だという印象と主演3人の姿は頭にこびりついていたが、今回久々にみて、細かいところはすっかり忘れていたことに気づく。ここでは笑わないジャンヌモローが特に渋い。

舞台はイタリアミラノだ。最初に映るシーンは、主人公夫婦(ジャンヌモローとマルチェロ・マストロヤンニ)が友人の見舞いに行くところである。夫は売れっ子作家だ。アルファロメオで乗り付けた2人が病室に入る前に、精神病の若い女性にからまれる。振り切るように友人の病室に入ったら、手術がしようがないのでもう先はないと落胆している。妻は一人病室を出て涙する。
その足で、2人は夫の出版パーティに向かう。でも気持ちが落ち着かない妻は一人でその場を離れてタクシーに乗っていく。行った先で一人さまよう。精神的に不安定なようだ
夜になった。黒の新調のパーティドレスを着て、妻はどこか行きたいという。夫は富豪の家でパーティがあるから行かないかというが、2人だけで過ごしたいといってナイトクラブに向かう。
ナイトクラブでは黒人のストリップショーが繰り広げられていた。そこでも何かみたされない妻は夫に富豪宅でのパーティに向かうように言う。
大豪邸でのパーティーには大勢の来客が集まっていた。妻は相変わらず落ち着かない。ホストにあいさつをした後で、2人は別行動をとる。インテリたちの集まりで、夫は来客たちに話しかけられる。そんな中一人でゲームに親しんでいる富豪の娘(モニカ・ヴィッティ)に夫は話しかけるのであるが。。。。。


(大豪邸)
前回見た時も舞台となる大豪邸に圧倒させられた。どうやらイタリアというのはかなり貧富の差が激しいらしい。1960年という時代背景やイタリアも日本と同じ戦敗国だということを考えると、大豪邸と美女たちが妙に浮いた存在に見えた。邸宅はガラス面が多く、かなり開放的なデザインだ。それぞれの部屋が大きい。庭も広い。プールもある。夜が似合う邸宅だ。その庭でジャズのアンサンブルが奏でられる。そして遊び人の男女たちによる狂乱の夜のパーティが繰り広げられている。

(音楽)
はじまってからずっと音楽がない。静かだ。この当時のアメリカ映画だとうるさいくらい高らかに音楽が奏でられる。対照的だ。そして2人がナイトクラブに入ると、パンティみたいな白いパンツだけはいた裸の黒人男性と白いガードルに身を包んだ黒人女性が妙なストリップショーをやっている。そこで音楽が流れる。映像に映るバンドが演奏する以外はほとんど音楽がない。それだけにこのバンドのエキゾチックな演奏が耳に響く。大邸宅へ行ってもジャズのバンドがモダンジャズを奏でる。アップテンポの曲で来客たちがジルバを踊り始める。音楽はその演奏だけだ。監督はこのやり方なのであろう。


(ジャンヌモロー)
この映画ではジャンヌモローの存在感が一番強い。表情が冷たく、ほとんど笑わない。クールな感じだ。この生意気そうな表情が大好きだという男性も多いだろう。黒いパーティドレスが似合う。当時32歳、ただ今で言うと雰囲気は40代前半という感じだ。50年前の映画を見ると、人間は進化しているのを実感する。モニカ・ヴィッティとは大して年が違わないが、やけにジャンヌが老けて見える。
そこにマルチェロ・マストロヤンニが加わる。彼もこういうパーティのシーンが似合う俳優だ。8・1/2と比べると若さを感じる。

(ミケランジェロ・アントニオーニ)
この映画は監督自身の離婚経験がベースにあるといわれる。すでに醒めている夫婦がいる。その状態で、突如妻がもともと好きだった男があと先短いというのがわかる設定だ。気持ちがなおのこと醒めていく。横では夫が若い女性にちょっかいを出している。醒めた夫婦の世界だ。
監督の映画は愛の不条理を表わすなんてことが取り上げられる。それ以上に彼が時代を見る目は鋭いと感じる。しかもスタイリッシュだ。こののち公開される「欲望」ではなんとジェフべックとジミーペイジが共演しているという歴史的映像も映しだす。時代の先端を行っていたともっと後世に評価されてもおかしくない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8 1/2 フェリーニ

2012-06-14 19:59:15 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「8 1/2」フェデリコ・フェリーニの映画史に残る作品を早稲田松竹で見てきました。

1965年キネマ旬報ベスト1でありオスカー外国映画賞だ。歴史的作品でありながらDVDレンタルはされておらず、少し前まではDVDすら売っていなかった。なかなか見るチャンスがなかった。ふと名画座でやっているのに気付く。
難解な作品との評判通りに、現実と夢想が交錯する映像に少々戸惑いました。


映画は渋滞の中に止められている車を映し出す。全く動けず、車の中ではみんな好き勝手なことをやっている。前方から来る車も動けない。そうしていくうちに車のルーフから外に飛び出るなんてシーンがいきなり画面に現れる。主人公の混迷する心理状態を表わしているのであろうか。。。?
人気映画監督である主人公グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)が温泉地に行く。新作に向けての準備をしている。しかし、一向に進まない。心身ともに疲れている。クランクインしてお金ばかりがかかっている。そこには映画スタッフも役をほしがる美人女優たちも大勢いる。そして主人公に愛人(サンドラミーロ)が来る。ますます混乱する。そうしていくうちに妻(アヌークエーメ)も来るのであるが。。。


基調はこういうストーリーであるが、順を追ってうまく説明するのが難しい。見ていてもどれが現実で、どれが夢想なのかがわからない。起承転結がはっきりしているわけではない。
この映画は傑作とされる。しかし、一度見ただけでこの映画を理解することは困難だと思われる。それくらいさまざまな要素が絡み合っている。一瞥だけで分かる人はいないだろう。かなり映画を見ている人でも3回は最低見ないとこの映画を評することはできないと思う。
同じフェリーニでも同じく傑作とされる「道」とは違う重層構造だと思う。「道」のDVDはレンタル店でもかなりの頻度で借りられているくらい人気だ。実際単純でわかりやすい要素がある。でもこれは違う。

登場人物が多いというとロバートアルトマン監督の映画だ。彼の映画ほどの大人数ではないが、セリフを話す人は多い。しかも、登場人物がものすごい掛け合いで話しまくる。セリフが次から次へと連続する。早口のイタリア語がずっと続く。機関銃のようなセリフだ。配役全員がきっちりと演じながら正確なパスのようにセリフを発する。こんなに生きたセリフが続く映像は見たことがない。演技に緊迫感が出ている。凄い演出だ。圧倒される。
どれもこれも奇妙なセットだ。温泉浴のシーンは主人公を王様に例えたようなハーレムのようだ。鞭を打ったりSMクラブ的匂いもある。「道」を連想させる大道芸人が演じるサーカス的に見えるシーンもある。ロケット発射台を連想させる、鉄骨足場のようなものに階段がついているセットがある。このセットが中心になってクライマックスに持っていく。

マルチェロ・マストロヤンニは温泉場で出演を願望する女優達に囲まれる人気映画監督の役だ。モテ役を地で演じている。いくつかの映画で見せるシリアスな役よりも遊び人の役の方がいい。ここでの女優陣の美しさはすさまじい。時代の古さを全く感じさせない。クラウディア・カルディナーレをはじめとしたそんな美女たちも彼の前ではみんなイチコロだ。100年を超える映画史の中でこの役を演じられるのはマルチェロ・マストロヤンニしかいない。ローマ帝国の昔から受け継いだモテ人間の強いオーラがある。まさに適役といえよう。



蛇足だが
1965年キネマ旬報ベスト1ということで、本棚に向かいキネマ旬報全史を読み返してみた。メリーポピンズやサウンドオブミュージックやコレクターといった名作がある中で、どういう連中がこの映画に10点満点をつけたのかと。植草甚一、荻昌弘、淀川長治、双葉十三郎といった死ぬまでその名をとどろかせた評論家が10点をつけている。加えて、自分の大学時代に「映画論」を講義していた津村秀夫も10点だ。いずれも日本映画界を代表する人たちである。でも彼らはいったい何回この映画を見たのだろう。それぞれの著作を持っているが、植草甚一以外はどれも解説が中途半端だ。やっぱり難しい映画なんだよなあ。
単なる難しいだけの屁理屈じゃないのはわかった。普通の神経ではこの映画はつくれない。
究極の映画を堪能するために何回か見てみよう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ル・アーブルの靴みがき  アキ・カウリスマキ

2012-05-03 20:39:45 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ル・アーブルの靴みがき」を映画館で見てきました。
ブログ映画評いよいよ700到達という節目にいい映画が見れた。

フィンランドが生んだ世界的名匠アキ・カウリスマキ監督の新作で、評論家筋の評判もよくロードショーに向かった。しかし、東京周辺では渋谷しかやっていない。映画館に着き、エレベーターから降りると人の多さにびっくりだ。ミニシアターらしからぬ混雑ぶりで、どこがチケット売り場かわからないくらいだ。ここ最近こんなに前方の座席まで観客で埋まっているのは見たことがない。驚いた。いかにも評判の高さを語っているようだ。「過去のない男」「街のあかり」などアキ・カウリスマキ監督の作品は独自の個性が強い。殺風景な色づくりの画像だ。そこで到底美男美女といえない男女が、日本でいえば昭和40年代にタイムスリップしたようなレトロな国フィンランドを舞台に人間模様を繰り広げる構図だ。



今回は映画を見始めてしばらくしてフランス語が語られる中、フランスが舞台だということに気づく。原題でもある「ル・アーブル」はフランス西部の大西洋に面した町である。60年代のシトロエンやプジョーが街を走り、フランスらしいアコーディオン音楽も流れるが、いつものように朴訥とした雰囲気で映画が展開される。青緑がベースカラーの色彩設計は相変わらず地味だが、イエローやレッドのポイントカラーを効果的に使う。一つの希望を示しているようだ。
移民問題が基調にあり、その中に他に類のないやさしさが流れている。映画を見た後のすがすがしい爽快感はこれまでのアキカウリスマキ監督にはなかったものだ。見てよかった。

フランス西部ノルマンディ地方のル・アーブルという港町が舞台だ。
主人公マルクス(アンドレ・ウィルム)は靴磨きを職としている。映画はやくざ風の男がマルクスに靴磨きを頼む場面からスタートする。周りにその男を狙う男たちが現れ、靴が磨き終わるといきなり撃たれるシーンだ。
主人公は元々パリにいたが、今は妻(カティ・オウティネン)と下町で二人のんびり暮らしている。食事の前にカフェでアペリティフを飲むのだけが趣味の男であった。

場面は波止場に移る。警察が不法入国を取り締まる場面だ。コンテナの中に潜んで不法移送されたアフリカからの黒人移民たちが見つかった。連行しようとしたところ、一人の黒人の少年が逃げて行った。彼に向って銃を向ける警官もいたが、上司の警視がそれをとどめた。町では新聞沙汰になる騒ぎとなった。
マルクスが波止場で一人食事をしようとしていたところ、海の中で一人の黒人少年がこちらを見ていた。ものほしそうだったので、食事をあげた。「ロンドンは泳いですぐか?」と少年に聞かれたが、それは無理だと主人公は返した。ふと周りを見ると警官がいた。警視から「黒人の少年がいなかったか?」と聞かれ、少年の存在は黙っていた。そして脱走した不法入国者の存在を知った。


ある夜、黒人少年の面倒を見て帰りが遅くなった主人公を妻が迎えたが、妻は具合が悪そうだった。あわてて病院に運ぶ。主治医に妻は声をかけ「自分の病状は夫には話さないように」とくぎを刺した。妻は自分の病状が悪化していることを知っていて旦那に心配をかけたくなかったのだ。妻は入院した。

妻の入院の後、少年を家に連れてくるようになった。よく話をしてみると、少年はフランス語も話せて、普通の素直な子だった。ロンドンに住む母親に会いたいという。主人公はなんとか望みをかなえてあげたいと思うようになった。しかし、脱走した少年を探している警察の捜査が主人公の周辺に近づいているのであったが。。。



これまでの作品は地味な出演者がでて、みんな無口であった。極度に無駄が省かれる。
今回は若干違う。下町のパン屋や乾物屋、カフェバーの女ママなどに人情のようなものが感じられる。途中までは貧乏暮らしを続けている主人公は、ツケがたまっているのでパン屋や乾物屋の店主たちに嫌がられていたが、奥さんが入院したり、少年をかくまっている主人公を見て態度を変える。カフェのママと旧知の警視も人情味がありいい感じだ。日本映画の人情物に通じるところがある。
途中でロックアーチストを登場させる。オヤジバンドがロックを歌いまくるシーンは前にもあった。ここで稼いで密航の費用を稼ごうとするのである。主人公の切符切りも堂に入っている。


そうしてラストに向かう。ラストに向かう際も、いくつかの関門をつくる。密告者が出てくる。かなりしつこい嫌な奴だ。そこに映画「カサブランカ」を思わせる場面があったりする。そしてもう一つの山をつくる。予想外であった。今までにないうまさだ。前作「街のあかり」では主人公を谷底に落としたアキ・カウリスマキが世の中に希望を与えるような展開に持っていった。後味が良かった。


映画を見終わってなんかすっきりした。
暗闇から待合室にでたら、次の回の上映を待っている大勢の人がいた。映画館を出ると、円山町のホテル街だ。若い頃はお世話になった。この映画館の前に父と子供のころからきていたロシア料理「サモワール」が数年前まであった。ツタのからまる建物が懐かしい。ストロガノフがうまかった。なくなったのは悲しい。東急本店に向かって坂を下りながら、たぶんこういう映画好きだったろうなあと父のことを思った。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミケランジェロの暗号

2012-03-27 06:02:49 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
「ミケランジェロの暗号」はオーストリアのサスペンス映画だ。
第二次大戦中、オーストリアのユダヤ人画商がナチスに迫害され名画を奪われようとして抵抗する話をコメディサスペンスのように描く。二転三転し先を読ませない脚本が冴える。


1938年のウィーン。ユダヤ人画商カウフマン一家が営む画廊に、かつての使用人の息子ルディ(ゲオルク・フリードリヒ)が訪ねてくる。一家の息子ヴィクトル(モーリッツ・ブライブトロイ)にとっては兄弟同然の存在だった。カウフマン一家は400年前、バチカンから盗まれたとされるミケランジェロの名画を所有していると噂されていた。画廊主催のパーティーが終わった夜、ヴィクトルはルディからその真相を聞かれた。つい心を許して家の中の隠し場所で見せてしまう。
ところが、ルディはナチス軍に所属し大尉となっていた。彼は自分に有利になるように絵画のありかを軍に密告した。ナチスは画商の家に乱入する。隠し場所を見つけるが、すでに絵はない。問い詰めるナチス。
一家はスケッチを渡す代わりに、スイスへ行くことを交換条件にしてスケッチを渡す。ところが、中立国スイスで訴訟を起こされてはたまらないと一家は強制収容所へと送られる。
一方、ナチスは絵を取引の材料にイタリアと優位な条約を結ぼうとするが、イタリアお抱えの美術鑑定人に奪った絵が贋作であることを見破られる。本物の絵は一体どこへ行ったのか。どこかに隠した一家の父はすでに収容所で死亡、息子が収容所から呼び出されるが。。。。


イタリアルネサンス巨匠のミケランジェロのスケッチが400年前にバチカンで盗まれ、それがウィーンに住むユダヤ人の画商の手に渡る。オーストリアを強引に併合したナチスはそもそもイタリアの絵画だからイタリアに返してあげるのが筋だという。だからいったん戻せという。その都合のよく奪ったミケランジェロでイタリアとの条約は自国に優位にというナチスドイツの考えだ。でも金持ちで用意周到なユダヤ人だ。そうは簡単には盗まれないようにする。フィクションだけど、こんな話ありえそうと言えばそうかもしれない。この筋立ての発想がいい。



話の内容は読めそうだが、脚本は二転三転し、見ているものの裏をかく。これでもかこれでもかと裏をかく。ちょっとへそ曲がりがつくったんじゃないかと思わせる。
それなので意外に飽きない。
普通であれば、ナチスドイツとユダヤ人の絡んだ映画は目を伏せるようなむごい場面が次から次へと出てくる。でもこの映画はそうでもない。コメディ仕立てにしていると考えてもいいのかもしれない。途中で思わぬ逆転劇がある。まさにこれはエディマフィの映画を思わせる「大逆転」だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グッバイ・レーニン 

2012-03-02 21:10:59 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
「グッバイ・レーニン」はドイツ映画、1989年のベルリンの壁崩壊前後の東ドイツに焦点をあてる。社会主義国家の崩壊とそれに伴って、すべての価値観が変わるのに戸惑う人たちを描く。映画のタッチはやさしさに満ち溢れている。


1989年10月ベルリンの壁崩壊直前の東ベルリンが舞台、主人公アレックス(ダニエル・ブリュール)は教員の母親と一緒に暮らしていた。父親は西ドイツに亡命をしていた。そのため母親は普通以上に東ドイツの社会主義体制を崇拝し、思想活動にはまっていた。東ドイツ建国40周年を祝う式典の夜、主人公は改革を求めるデモ行進に参加し、機動隊に捕らえられようとしていた。その姿を目撃した愛国主義者の母クリスティアーネ(カトリーン・ザース)はショックで心臓発作を起こし、倒れた。生命の危機は脱したが、昏睡状態に陥ってしまう。

8カ月後彼女が奇跡的に意識を取り戻した。そのころは旧体制は崩壊して、西ドイツとの統一が進んでいた。主人公はまたショックを与えると命取りになると医者から忠告された。母を自宅に引き取って、東ドイツの体制がずっと続いているふりを装う。テレビが観たいという母の要望には、映画オタクの友人と偽のニュース番組を作って応える。ビルにコカ・コーラの垂れ幕がかけられ、国営の食料品店が大手スーパーに姿を変えていく中、東ドイツ製のものを探し求めて主人公はベルリンの町を走り回るが。。。。

映画が始まって約25分程度出演者のプロフィルと時代背景をカット割りを多くしてわかりやすく説明する。コーエン兄弟の映画やフランス映画「アメリ」と似たようなタッチだ。こういう手法って割と好きだ。

映像は鮮明でなくぼやけた感じにしている。旧東ドイツをどんくさく映すためだろう。西ドイツと統合したあとに、スーパーがアカ抜けたものになり、今まで買えた物が買えなくなる。そういう風刺の仕方がうまい。母親の大好物の東ドイツ製のピクルスが体制が代わって手に入らなくなり、探そうと右往左往する姿は滑稽だ。そういう姿を優しい音楽が包む。


上の体制が180度代わって右往左往するのは日本も戦後経験したことだ。軍国主義もあれはあれで極端だけど、左翼系の極端な動きや学生運動の高まりも妙な感じだ。今も某左翼系新聞の異常な論調に引きずられて国民がだまされている印象が強い。困ったものだ。
北朝鮮は今回あまりの食料困難に核兵器に対しての姿勢を変化させた。いずれそうなるのかはわからないが、国家が破綻して、韓国と合同するようになれば、映画とまったく同じようなことが起きる可能性がある。

ドイツ民族って賢い。2次大戦後ソビエトによって東側のみ社会主義体制に代わった。完全なる押し付けの社会主義を戦後40年で解消した。そして市場経済に代わったおかげで、ユーロ圏で一番の影響力を発揮している。何よりも驚くのは現首相のメルケル女史が東ドイツ出身であるということだ。最初それを知ったときには本当に驚いた。ドイツ人の寛容性に感心し、東西統一のシナジー効果を求めて、過去のしがらみにこだわらない姿をすばらしいと思った。


主人公のやさしさがいじらしい。社会主義を崇拝する愛国主義者の母親を心配させないように右往左往する。遺物となった旧東ドイツの製品を探してゴミ箱まで探す。ちょっといやらしい感じもしないわけではない。でも彼の気持ちはよくわかる。本当にいい男だ。
若い女の人には彼の厚情をマザコンという人もいるかもしれない。でもそれはちがう。母親への愛情をもつことはすばらしいことだ。女性って本当に身勝手だ。母親と仲のいい青年たちをマザコンといいながらも、自分が男の子の母親になったらマザコンの母親になる。しかも当然というような顔をしてね。
これだから女性心理はよくわからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーラー  君に捧げるアダージョ

2011-12-18 09:11:42 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」は作曲家マーラーの不貞の妻に焦点を当てる作品だ。
映画「ベニスで死す」の主人公の作曲家はマーラーをモデルにしたと言われる。男色系かとおもったら、この映画を見るとそうでもなさそうだ。むしろかなり年下の妻に振りまわされるダメ男のマーラーと自由奔放な妻のそれぞれの奇行に焦点をあてる。
当然ながらバックの「マーラー」のシンフォニーは美しくオーストリアの歴史ある風景に調和する。


1910年夏、作曲中のマーラーに届いた衝撃的な一通の手紙。そこには、新進の建築家グロピウスから妻アルマへの熱烈な愛が綴られていた…。
世紀末ウィーンを代表する後期ロマン派の大作曲家であり、スター指揮者グスタフ・マーラー。その19歳年下の妻であり、類まれな美貌と音楽的才能で、 画家クリムトなど当時の芸術家たちを魅了したアルマ。誰もが羨む理想の夫婦であったが、その年の差と、マーラーがアルマに作曲を禁じたことで生じた亀裂が、 愛娘の死によって悪化してしまう。そして、アルマは療養先で知り合った 5歳年下のグロピウスに慰めを求める。その事実に困惑したマーラーは、休暇中の精神分析医フロイトの元を訪れ、 アルマとの愛と情熱、希望と苦悩、そして音楽に溢れた人生を語りはじめる。。。。


監督は「バグダッドカフェ」のパーシーアドロンである。現代アメリカの田舎町のカフェを舞台にした映画だ。黒人主人公とドイツ人女性の違和感が妙におもしろい。女の友情を描いた作品で、個人的には大好きである。その監督がつくるという興味深さに加えて、マーラーの音楽の調べに酔いしれたい思いもあった。

ただし、映画に流れるのは一貫してマーラーの妻の不貞ぶりだ。33歳と女ざかりの女優が演じるので、色仕掛け的色彩が強い。イタリア女性だけにフェロモンが画面中に発散される。実際の話をもとにしたのに、ストーリーは官能小説のようだ。その一歩で精神分析で有名なフロイトのカウンセリングを受けるマーラーがいかにも対照的だ。しかし、不倫がわかった後でもマーラーは彼女を捨てない。ひたすら彼女を見つめる。その目つきを見て「ベニスに死す」に映る主人公が美少年を見つめる視線にだぶってしまった。

マーラーとのかかわりは中学3年の時からだ。同級生の兄貴がマーラーが大好きだった。彼の家ではじめて聞いた時、躍動感のある曲をかけてくれた。最初は良さはわからなかったが、映画「ベニスに死す」でながれる交響曲5番の美しさに魅せられた。映画が好きな人で強い影響を受けた。この映画でも有名な5番のフレーズが出てくる。「ベニスに死す」ほど印象的に使われているわけではない。むしろ他の曲に焦点を合わせる。いずれもすばらしい。曲線が美しいウィーンの歌劇場でのロケやアルプスと思しき山々のバックも美しかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソフィアの夜明け  

2011-11-06 19:18:59 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
「ソフィアの夜明け」はブルガリアの首都ソフィアを舞台にした作品だ。けだるい雰囲気で始まり、最後までその流れは変わらない。ドツボにはまる主人公兄弟がせつない。まずしい東欧の生活をクローズアップして、ドラッグ、ネオナチ集団やトルコ人との民族葛藤など、普段考えもしない話題が妙に新鮮だ。


ブルガリアの兄弟をクローズアップして、2人の物語を並行して映す。
両親と一緒に住む17歳の弟は、頭をスキンヘッドにしてネオナチ集団に加わる。家族と疎遠になっている兄ことフリスト・フリストフは38歳の木工職人だ。ドラッグ中毒で治療を受けていた彼はアルコールに頼る日々を送っていた。兄の恋人は演技専攻の学生。若い彼女は彼を心から愛している。でも彼はそっけなく彼女を取り扱う。彼女の誕生日にレストランで食事をともにするが、話もしない彼に怒った彼女が店を飛び出ていく。そのときトルコ人の家族3人が食事に来ていた。
トルコ人家族が外へ出ると、チンピラ達に囲まれる。いきなりボコボコにあう。そのチンピラ集団には弟が混じっていた。すぐあとに兄がそこを通りかかり、トルコ人家族をかばうが、コテンパンにやられる。その時弟の姿を見かけた兄は。。。。


ブルガリアを地図で改めてみた。今話題のギリシャと隣り合わせで、トルコともつながっている。オスマントルコ帝国全盛時代には500年以上トルコ領だった。その後ロシアを中心とした東欧経済圏の国となった。東欧諸国に共通することだが、貧しさがにじみ出るような映像があらわれてくる。
路面電車が通る首都ソフィアの街に走る車は少ない。その昔五木寛之が「ソフィアの秋」なんて小説を書いていた。名前から連想するイメージは素敵だが、映像から察すると非常に地味な場所だ。都市化への進化が遅い。
そこに映る主人公はいかにも社会の底辺といった印象だ。



この主人公もクランクアップ寸前にドラッグ中毒で死んだという。そういう悲しい話もある。トルコ人の家族が主人公の兄弟に絡んでくる。娘が美しい。エキゾティックでトルコ版黒木メイサをみるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白いリボン

2011-08-03 20:30:59 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
カンヌ映画祭パルムドールとなったドイツ映画「白いリボン」みました。
評判通り暗い映画で、正直自分の好みではない。第一次世界大戦開戦前のドイツの農村が舞台、そこで奇妙な事件が次から次へと起こる。ミステリー的要素もあるが、無宗教の日本人である我々では理解しづらい宗教的色彩が流れている気もした。長まわし中心の撮影だ。丹念に人を追う。演劇的要素もあるが、動的演技ではない。静的だ。麦畑の映像が牧歌的でそれには親しみを感じた。祭りの光景もよい。

1913年北ドイツのある農村が舞台だ。村で教員をしていた男が昔を振り返るように独白する。
次から次へと小さい事件が静かな村で起きる。ドクターが張られた針金が原因で落馬したのが発端だった。翌日にはその針金が消え、小作人の妻が男爵家の納屋で起きた事故で命を落とす。秋、収穫祭の日、母の死に納得できない息子が、男爵の畑のキャベツを切り刻む。その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になった。一方、牧師は反抗的な自分の子供たちに白いリボンを腕に巻かせる。犯人がわからないまま、不信感が村に広がっていくが。。。。

映画は並行して、村の教員と男爵の家で乳母として働く女の恋を同時並行して映しだす。その昔のドイツの庶民の恋の匂いはこの映画で十分理解できた


それにしても白黒の画面に流れるムードは一貫して暗い。自分はこの映画を見て、横溝正史原作の一連の映画を連想した。同じように次から次へと残虐な事件が起きる。ここには謎解きの金田一耕介的存在はいない。あえて言えば、独白する元教員がその存在にあたるであろうか。共通するのは閉鎖的な村の姿である。世界大戦の直前にした村の中は、貴族も聖職者も民衆も妙に乱れている。出演者すべてに裏筋的要素を感じる。いろんな解説をよむとこの悪さぶりをナチズムに結び付けようとする話があるがそれは違うんじゃないかな?

かわいい顔をしている牧師の息子マルティンすらその存在に影を感じる。ふと気付いたことがある。プロテスタントが多いといわれるドイツで、少年の名前マルティンは16世紀前半ローマ教皇レオ10世に論題を投げかけた宗教改革の先駆者マルティン・ルターと一緒の名前である。あえてそういう名前を付けたのであろうか?免罪符による救済への結び付けを意識したのか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女

2011-08-01 21:24:10 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」を週末劇場で見てきました。
噂は聞いていましたが、凄い映画です。迫力に圧倒されました。今年の№1かもしれません。


ベニート・ムッソリーニは御存じ戦前日本が日独伊三国同盟を組んだイタリアの独裁者だ。ファシズムという言葉を生んだイタリアの独裁者として、“統師(ドゥーチェ)”と呼ばれた。その彼には、イーダという、全人生を彼にささげた一人の女性の存在があった。その二人の関係を一人の社会主義活動者としてムッソリーニが活躍していたころから追っていく。政治色はあっても、はかない恋の物語だ。映像コンテ、音楽、美術いずれも完ぺきだ。

20世紀前半のイタリア、若きムッソリーニことフィリッポ・ティーミは熱心な社会主義者だった。ローマ教皇の腸で国王の首をしめろなんて凄いこと言っている。その彼とイーダことジョヴァンナ・メッツォジョルノが恋に落ちる。オーストリアをめぐって参戦論が国内を二分した第一次世界大戦をはさみ、政治活動に励むムッソリーニ。イーダは全財産を売却して彼の理想の実現のために提供する。その資金援助をもとに新たな日刊紙「ポポロ・ディタリア(Popolo d'Italia)」を発刊。さらに、独自の政治組織を摸索する。

しかし、彼には本妻がいた。イーダは、やがてムッソリーニの子供を産む。彼は認知はするが、本妻は別れようとはしない。自分が彼の妻であり、息子がムッソリーニの長男であることを懸命に主張する。そんな中イタリア国内でムッソリーニの支持率が急上昇していく。国王とも手を結ぶ。その過程で、日蔭の立場からの逆転が難しくなるばかりでなく、彼女は精神に異常をきたしているようにみなされるが。。。。。


ニュース映画を映像の中に入れ込むが、不自然さはない。むしろ全盛期のムッソリーニの演説を映像に織り込ませて迫力を増幅する。ムッソリーニとその子の一人二役を演じるフィリッポ・ティーミの演説の迫力はすばらしい。ニュース映像を徹底的に研究しつくした結果生まれた演技であろう。その彼に惹かれるイーダことジョヴァンナ・メッツォジョルノの情熱的な恋の表現も熱い!ひたすら熱い!
二人の情熱的な接吻に圧倒させられる。彼女が実に美しい。

その情熱的な愛だけが見せどころではない。時代考証的にこんなことがあったのかと思わせるところがある。戦意高揚のためのニュース映画を劇場で流す場面が出てくる。プロパガンダ映画だ。当時の日本であれば、弁士が高揚する口調で観客を興奮のるつぼに押し込もうとするのであろう。ここでは映像を流しながら、ピアニストが強烈なメロディを鍵盤からはじき出す。この演奏には興奮した。凄い迫力だ。ナチスが利用したワーグナーを思い起こす。しかもこの場面が再三出てくる。


それにしても言いたいことがありすぎて言い尽くせない。

一番興奮したのはその映像コンテだ。イーダが収容された場所にある檻のような柵によじ登るシーン。外に雪が降り続く中、柵をよじ登る女主人公、このアングルが抜群にすばらしい。雨と雪の使い方が実にうまい。映像美の極致である。それを見るだけでも価値があると思う。

若干最終の締めが史実に基づくだけに少し弱いかもしれない。でもそのカメラワークと演技は凄かった。劇場で見てよかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする