とても単純にいって、ネットでいろいろなニュースを見たり発言を読むことと、本を読むことは、どうちがうのだろうか?
基本的にネットは、“今”であるが、本は“今だけではない”。
もちろん、本だって、毎日新刊される大部分の本は、“今”である。
それだけを追い、“現在に関する情報“を得ることのみが、最近では、読書ということになっている(もちろんそれも無意味ではない)
今でない時に発せられた言葉を読むというのは、(よくある、うんざりする)“古典を読め”というあまりに正統的な読書のすすめを、(ぼくにとっては)意味しない。
たとえば、1986年12月に朝日新聞「論壇時評」に掲載された見田宗介の文章を、ぼくは今日(すなわち2014年3月11日)に読んだわけだ。
今日が、“あの”3月11日であることは、偶然である。
そこには、“世紀末”と“荘厳”について書かれている。
以下にその文章から(例によってぼくの不確かな選択によって)“引用”するが、ぼくも知らなかった《荘厳》という言葉の説明部分をまず引用;
★ 日本の仏教界で日常的には、このことばは「仏」=死者を花飾ることに使われるという。
そして《世紀末》については;
★ 前世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、<人間の死>ということだ。
(注、この文章が書かれたのが1986年だから(当然)“前世紀末”=19世紀末、今世紀末=20世紀末である;蛇足!)
さらに何箇所かを引用;
★ ある兵士が市場で死神と会ったので、できるだけ遠く、サマルカンドまで逃げてゆくために王様の一番早い馬をほしいという。兵士が首尾よくサマルカンドに向かって出立したあとで、王様が王宮に死神を呼びつけて、自分の大切な部下をおどかしたことをなじると、死神は「あんなところで兵士と会うなんて、わたしもびっくりしたのです。あの兵士とは明日サマルカンドで会う予定ですから」という。
★ 私たちはどの方向に走っても、サマルカンドに向かっているのだ。わたしたちにできることは、サマルカンドに向かう旅路の、ひとつひとつの峯や谷、集落や市場のうちに永遠を生きることだけだ。
(石牟礼道子の句集『天』について)
★ 荘厳、ということばはここで、「仏教的」な意味をくぐらせて幾重にも転回している。正確にいえば、宗教の制度としてのことばの意味をつきぬけて、宗教の生命の核を再生している。
★ ひとりの死者をほんとうに荘厳するとは、どういうことだろう。その死身の外面に花を飾ることでなく、その生きた人の咲かせた花に、花々の命の色に、内側から光をあてる、認識である。それは石牟礼が、その作品で、具体的に水俣の死者のひとりひとりを荘厳してきたやり方である。
★ このようにしてそれはそのまま、生者を荘厳する方法でもある。その生者たち自身の身体にすでに咲いている花を目覚めさせること。リアリティを点火すること。<荘厳である>というひとつの知覚は、死者を生きさせるただひとつの方法であることによって、また生者を生きさせるただひとつの方法である。
★ 《 天日のふるえや空蝉のなかの洞 》
ひとつひとつの空蝉の洞にふるえる天日のあかるさのように、それはこの個物ひしめく世界のぜんたいに、内側からいっせいに灯をともす思想だ。
<夢よりも深い覚醒>に至る、それはひとつの明晰である。
<以上引用は、見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫1995)>