wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

東国三社と忍城の旅

2011-08-13 09:28:46 | 旅行記

平成23年8月7日(日)  今年の夏の旅行は主人の希望で東国三社めぐりと私の希望で「のぼうの城」の舞台であったさきたま古墳周辺、それに、かって、もしツアーでやっていた「袋田の滝」もそこまで行くなら行こうということで計画実行した。
 
まずは千葉県の香取神社を目指して、朝の6時、主人がいつも仕事で使っている軽の四駆の車で家を出る。台風が来ていたとはいうものの、雲を全部押し上げたのか、天気は快晴。実はこの車、あまりエアコンが効かない。エアコンは入れてはいるが、窓を全開にして、風をビュンビュン受けての走行であった。それが後々とんでもないことになるとは、今は知るよしもなかった。

町田インターから高速に入り、カーナビを頼りに首都高の分かれ道が幾方向にもある分かりづらい道を潜り抜け、時間通り9時ごろ無事に佐原香取を出た。霞ヶ浦周辺は水路が縦横に伸びていて、ずっーと平らな水田が続く豊かな田園地帯だった。中には稲穂が十分に垂れていて、収穫間際のものもあった。初めてこの地に足を踏み入れたが、こんな豊かな土地とは驚きだ。かって行ったことのある佐賀県でも同じ感想を持ったことを思い出した。

香取神社は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が祭られている。この大神は、天照大神の命を受けて、この東国開拓の大業を果たされた建国の大功神とされている。水戸光圀公が参宮した跡が残っていたり、御神木である樹齢千余年とされる杉の木があったり、さし石(昔若者たちが力比べをした際に持ち上げた石)に名前を刻まれて奉納してあったり、要石として、この地方はもともと地震が多くてこれを鎮めるために(大鯰を抑えると考えた)石棒を地中深くさし込んで、その頭尾を示した石があったりと、うっそうとした木々に囲まれ静寂な神社であった。
     

千葉県立中央博物館大利根分館ではこういうことが書いてあった。「香取の人々は山野で狩りをし、海辺で漁をしていましたが、今から約1000年~1500年ほど前、強大な大和朝廷の勢力が関東に入り、香取の海を中心にして沿岸一帯に新しい農業文化をこの地方に開きました。この関東開拓の有力な祖神を祭ったのが香取神社と鹿島神宮である」と。また、日本書紀(奈良時代の歴史書)には香取・鹿島の神の神話が書いてあり、当時すでに東国の古社として、人々の信仰を集めていたのが分かると書いてあった。
また、源頼朝の寄進状が展示してあって、願い事がかなった頼朝は、香取神宮社領として下福田郷を寄付したとも書いてあった。

この地がなかなか由緒ある地だと分かって、車を走らせている途中、悲劇は起こった。

その前から、バッテリーのランプがついていて何だかおかしいなーとは思っていたが、信号で止まったその時、突然エンジンがストップ。うんともすんとも言わず、動かなくなってしまった。道路の真ん中なので、あせりながらも、私が運転席に座ってハンドルを握り、主人が車を後ろから押して、まずは車を歩道に移動させた。そして、まず入っている保険会社に連絡して修理やさんを探してもらう。住んでいる所と違う旅先でのこと、どこにいるか場所の説明が出来ない。目立ったものといったらJAの建物に「水郷潮来の活け造り」と大きく表示してあって、思わずそんなことを言っては見たものの、通じていなかったようだ。そして何とか地元の修理屋さんと連絡が取れ、来てくれることに。でも、何しろこの暑さである。道路の脇には水路が流れているものの、涼は取れず、ドアを開け少しでも風に当たりながら、今思うと何を話していたか思い出せない位ボーとしていた。

やっと来て、機械と取り付けて、エンジンをかけて、「やったーかかったー」という間もなく、またストップ。どうもバッテリーだけではなくその他の電気系統が悪いようである。車を整備工場のほうへ運ばなければならない。それにすぐには直らず、2・3日はかかるということである。これから先どうすればいいのか。それに、この車は四駆だから今来たレッカー車では運べないので、違うのを持って来なければいけない。まだまだ時間がかかる。結局、何やかやとこの場所を動けたのは、4時間後であった。

当初、旅行はあやぶられたが、結局、部品が月曜日に入れば火曜日9日には渡せるということなので、一日なら何とか延ばせるということで、レンタカーを借りて旅行は続行することにした。潮来駅まで送ってもらい、潮来駅にはあまり需要がないのかレンタカーを貸してくれるところはなく、電車も一時間に一本という不便なところであった。日本レンタカーに連絡したが、車が出払ってないということで、途方にくれたが、困っていたのが通じたのか、トヨタレンタカーの電話を教えてくれて、そちらに電話したら、OKの連絡。タクシーで3千円のところにあった、レンタカーやさんで車を借りて、旅行は続行できた。経費は2日間で14千円。それにガソリン代がかる。後で精算ということで、まあ仕方ないか。

不幸中の幸いは、思いのほかこの借りた車の乗り心地がいい。トヨタのビッツである。乗ってきた車が、エアコンがあまり効かないこともあって、この猛暑の中でのドライブはやはり車の中に入れば涼しめるという安心感が必要である。

また、この潮来で気がついたことは、車で走っていると段差が多く感じられた。また、道路の端の方はアスフャルトが割れて、下の土がむき出しになっているところも多くあった。まだまだ地震の影響があるんだなーと感じられ、この辺は液状化現象が進んでいると思った。

それでは、いよいよ鹿島神宮へ旅行を続行しよう。
この鹿島神宮は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祭っている神社である。御神体は雷ということで稲光が模様にされていた大きな丸いお皿のようなものが重要文化財のよう門の左右に掲げてあった。

香取神社と同じように、天照大神から命を受けて、東国の国家統一の大業を果たされたということである。神宮というだけあって、とても規模が大きい。うっそうとした森の中に本殿(秀忠が奉納した)や奥宮(家康が奉納したもの)・鹿園(かっては鹿が棲息していた)・要石(香取神社と同じく地震を治めるための霊石・水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘りきれずとある)などがあった。
また、松尾芭蕉が1687年鹿島詣で詠んだ「此の松の実生えせし代や神の秋」の句碑や「枯枝に鴉のとまりけり秋の暮」の句碑、小林一茶の「大地震(おおなゑ)にびくともせぬや松の花」の句碑もあり、この辺はやはり由緒ある土地で有名な人が訪れているのだなーと分かった。

途中鹿島スタジアムをわきを通って、今日の宿屋で常陸太田にあるビジネスホテルに直行する。明日行く袋田の滝の途中にあるところに予約してくれた。思ったよりにぎやかなところで、大きいスーパーはあるし、飲食店も多い。夕飯はスーパーで買ってホテルで食べて、お江をみて、ゆっくりと休む。

袋田の滝は日本三名瀑の一つ、別名「四度の滝」とも呼ばれている。四段に落下するからこう呼ばれているという説と、西行法師(平安時代の歌人)はこの滝を見て感嘆し、「これは季節のたびことに見なければ真の風趣は極められない」として季節の移るたびに訪れたからという説がある。なるほど、わたしも西行法師ではないが、この滝は季節ごとに違う趣を醸し出すように感じて、秋や冬にまた見てみたいと感じた。
      

次に行ったが、栃木県の宇都宮にある大谷石の採掘場である。でも、ここも地震の影響で中を見学するのは危ないということでしばらくは休館になっていた。よく見かける大谷石の塀があるが、その色の大きな小高い山もしくは岩みたいなものがそこかしこにあった。
   

ここから今度は埼玉県行田市のさきたま古墳辺りに移動である。本来なら帰り道の途中によるという感じだったが、直った車をとりに潮来の方に来なければいけない。まあゆっくり、行こう。でも、今日は月曜日博物館は休館日。残念。忍城の細かい資料は見ることはできなかった。でも、大満足。
まずは、さきたま古墳群へ。行くとすぐに「世界遺産に登録しよう」の大弾幕があった。ついこの間、小笠原列島の登録が決まったばかりで、いろいろなところが運動しているのだなーと思った。古墳が多く集まるこの場所は、広く平らな地形で川や用水路がいたる所にあって、水が豊かで水田が多く豊かな田園地帯であると感じた。
          

その中にあって、日本最大の円墳である丸墓山古墳は、石田三成が忍城を攻めた時に頂上に本陣を置いた場所である。上まで上ったら、遠くに忍城が見えた。見晴らしは良いから、水攻めにした様子をこの場所で見ていたのであろう。でも、見た感じは広く平らで、思ったよりすり鉢状でないので、水攻めにするには、とてもたくさんの水が必要になるんではないかなーと感じた。川がそのまま流れてくるような。でも結局は、本陣があるほうが土地が低くて、こちらにたくさん水がたまってしまったから、決壊して、この水攻めは失敗に終わったということである。見て納得がいった。この古墳群の中にも石田堤防跡があったが、古墳に続く道になっていた。

さきたま古墳から車で10分くらいのところに、石田堤碑と公園があった。なるほど、土が盛り上がっていて、堤防のようであった。三成は自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせ、全長28キロメートルにも及ぶ堤を作ったとされている。ここに残っている堤防も自然堤防の上に1~2メートルの土を積んだものと書いてあった。がこの程度でほんと水は防げるのかと少し疑問には思った。公園には、秀吉の小田原攻めのときの様子がこと細かく書いてあって、「最後に残ったのは小田原本城と韮山城・岩付(岩槻市)・鉢形(寄居町)・八王子・忍(行田市)・津久井城を残すのみとなった」と書いてあり、相模原市に入った津久井の名が出てきて、驚いた。

忍城は三成の水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられたことから「忍の浮城」とも称されたという。明治維新で一度取り壊されていたが、市が城郭の面影を残そうと再建したということである。

ここで2日目8日の泊まる所を探す。行田駅に行ってみる。駅の周りはあまり人通りがなく、観光案内所もない。駅長さんに聞いて、近くのビジネスホテルを教えてもらう。一部屋二人で素泊まりで12000円。まあ仕方ないか。また近くのスーパー(意外と大きく食料品から衣料日用品もあった)で買出ししてホテルで食べて寝る。疲れが出たの二人とも爆睡。

3日目9日の朝。早めにホテルを出る。でもここまで来たので、大宮にある武蔵国一の宮の神社「氷川神社」にいく。氷川神社は須佐之男命(すさのうのみこと)を祭っていた。
          

今日は潮来まで戻って、車を取りに行かなければならない。埼玉県の行田から茨城の潮来の方に行くには、来た道をそのまま行かなければつかない。またあの分岐点がいっぱいある首都高を通るのか~憂鬱。結局一日で2回同じ場所を通ったことになった。

古来から鹿島や香取とも関係が深い「息栖神社」に行く。海から渡ってきた海人族(あまぞく)を祭っている神社である。東国三社の一つであるとされ、この神社が一番古いのではと主人は言っていた。読み方も「いきす」ではなく「おきす」ではないかと言っていた。
「この地は広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社のあるこの息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の地域の交通上の船着場として大きな港の役割を果たしていた」と「おきすの津(港)と碇」と書いてある看板に説明がしてあり、その隣には古いさびた碇が立てかけてあった。それを見た柿本人麻呂は「大船の香取の海に碇おろし いかなる人か思わざらむ」と詠んだそうだ。
力石(若者たちが力を競って持ち上げ、優勝者は名前を刻み奉納できた)があったり、
芭蕉の句碑(「この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し」気吹戸主は息栖神社の祭神)があったりと、まるっきり聞いたこともなかった神社であったが、香取神社と似ているようなところがあって、由緒あり趣深い神社であると感じた。さすが東国三社の一つであると言えよう。
     

お昼ごろ、修理をお願いした吉崎モーターズに電話をしたら、1時ごろ来てくれということだったので、近くでお昼を食べて、取りに行く。修理代は内金で2万円を払っていたので、あと4万円を払って、6万円かかった。でも仕方ない。レンタカーを借りたことで快適なドライブ旅行が出来たと考えて、この程度のトラブルでよしとしなければいけない。

私がレンタカーに乗り、主人が直った車に乗ってまずはレンタカーを返しに行く。わたしはずーと主人が運転していたので久しぶりの運転で緊張したが、ナビを頼りに行く。そしたら途中ナビが、高速道路に乗れと指定してくる。そんなー一度も高速に乗ったこともないのに・・・。ナビを無視してまっすぐに進み、事なきを得たが、こういう緊張もあった旅行でもあった。

レンタカーを返して、無事帰路につく。こんなアクシデントもあるんだなーと、思ったが、生きていること自体が旅と同じようなもので、いろいろなことが付き物だ。そう思った方がよさそうだ。このくらいで済んだことを反対に幸せに思おう。

ちなみに、埼玉から戻ってきた時に、偶然にも初日に車が動かなくなった場所、暑い中4時間も立ち往生した場所を通った時は、思わず車を止めて、写真を撮って感慨にふけってしまった。今回の旅行で一番思い出に残った場所である
     


相模原市陽光台→首都高速→千葉県佐原(香取神社)→茨城県潮来→鹿島(鹿島神宮)→常陸太田(ビジネスホテル)→袋田の滝→栃木県(下野しもつけ)宇都宮(大谷石)→埼玉県行田市(さきたま古墳)→埼玉県大宮市(氷川神社)→首都高速→茨城県神栖(息栖神社)→潮来→首都高速→相模原市

走行距離約900キロの道のりであった。
コメント (12)
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