wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

小江戸と呼ばれる川越。 今は・・・

2012-12-29 11:25:14 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年12月26日、暮れも暮れのこんな時期に、埼玉県の川越城へ行ってきた。

以前、私が伊勢原に太田道灌の墓を見に行った時、(後に「太田道灌の墓は二つある」のブログを書いた)、偶然にも何とこの時期、千ちゃんはこの川越城に行ってきて、この川越城が太田道灌の手によって作られたことを教えてくれたのである。

二人とも太田道灌の話は全くしてなくて、それなのに偶然にも、太田道灌つながりのことをしている二人は、奇遇である。何と表していいのか、顔を見て笑ってしまったほどであった。

共通の趣味があるというのはこういうことかもしれない。

そんなことがあり、私は川越城は行ってみたい城の一つになっていて、この冬休み、主人を拝み倒して、連れて行ってもらった。

川越は、そんな遠くなくなった。なぜなら、高尾山インターができて、そこから高速に乗り、鶴ヶ島インターでおりて、少し行けば、川越の町に入る。正味1時間くらいである。

川越の町は、この相模原と似ている。国道16号線を要し、その周りにお店や建物、畑と雑木林等が点在している。

その中にあって、川越は、小江戸と呼ばれているのは、東京の街から離れているため、空襲にはあわず、城や蔵々が焼かれずに残っているためかと思われた。でも、もう開発が進んでいて、昔の面影はほとんどなく、明治の終わりに建てられた「川越城の本丸御殿」や「蔵通りの街並み」と銘打ってその蔵々が残ってあるくらいであった。
     


川越城は、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝が1457年に太田道真・道灌父娘ら家臣に命じて築城させた城。古河公方足利成氏(しげうじ)と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していたため、扇谷上杉領の北端の拠点をなすものと考えられている。

川越市役所には太田道灌の像があった。
  


この持朝の三男・上杉定正(うえすぎさだまさ)は、あまりにも活躍していた、重臣である太田道灌に反感を招き、上杉顕定の讒言(ざんげん)を聞き入れて、相模糟屋館で謀殺したのである。以前この謀殺されたとされる屋敷にも行ったが、そこはもう公園になっていて、面影はなかった。

小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は1537年に川越城を攻め落とし、1546年には、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方とともに、川越城奪回を図ったが、後北条の奇襲にあって、大敗した。(川越合戦である)

この時、上杉憲正は、越後の長尾影虎を頼り、客分になった。その時に、上杉氏の家督と関東管領職を影虎に譲り、長尾景虎は上杉謙信を名乗るようになる。

上杉謙信は、上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と名を改め、上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。

歴史のつながりをここでも感じた。

本丸の中の様子や時の鐘、お堀が再生されていたところなどを貼り付けておく。
            


川越城は、日本の名城100城に選ばれている。

   


これからもこれらの城にも訪ねたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする