wakuwakuな生活

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韮山は歴史の宝庫

2011-11-05 09:17:16 | 東海道珍道中
平成23年10月29日(土) 数えること12回目の東海道珍道中を行なった。

前回は、箱根の石畳を歩いたので、今回は三島から沼津の予定だったが、三島近くの韮山というところは、千ちゃんが大変面白く読んで、私に貸してくれていて、途中まで読んでいる「曾我兄弟の密命」(天皇の刺客)の舞台となっている付近の地であり、源頼朝が平治の乱後に流された蛭ヶ小島(ひるがこじま)のある地でもある。その本にも頼朝が流されているときのことも詳しく書かれている。現に鎌倉時代に執権として活躍した北条氏の館の跡もあった。
私たちは迷いもなく、今回は東海道から少し離れたが、韮山の地を歩くことにした。

果たして正解であった。韮山は蛭ヶ小島だけでなく、江川太郎左衛門というこの私たちが今住んでいる相模の国も治めていたという代官様のお屋敷があり、また、北条早雲が築城したという韮山城もあり、歴史的に大変面白く興味のあることが、目白押しである地であることを今回行って確認できた。

では、順を追って今回の珍道中を紹介しよう。

韮山までは電車でGO。2時間半はたっぷりかかって、行く。驚いたことに、小田原から西はJR東海の管轄に入るので、suicaは使えないことが分かった。いちいち窓口で精算しなければ次の電車に乗れない。まあなんと、めんどくさい。

韮山の駅は、小さく、こじんまりとしていて、トイレもない駅であった。もう、ここに降りるのは蛭ヶ小島か、反射炉か、江川太郎左衛門かなので、駅からの行き方が此処彼処に案内が示されていて、迷いもなく、まずは蛭ヶ小島への道を歩いた。丁度、刈り入れ時で農家の人たちは忙しそうに働いていた。

道路はきれいに整備されていて、源頼朝の生い立ちや逸話が歩く道々アスファルトに埋められていて、下を見ながら歩いていた。

そのアスファルトに埋められた説明板を見るといろいろなことが分かる。
頼朝は平治の乱後に、捕らえられ処刑のために京に送られたが、そこで、余りにも若い頼朝を哀れに思った、平清盛の継母池禅尼によって余命嘆願されたことによって、この伊豆の地に流されたということだそうである。もしここで処刑されていたら、歴史は全く違っていたと考えられ、この池禅尼は命の恩人であり、歴史を作った人でもある。不思議なものである。

また、この蛭ヶ島(ひるがじま)は島ではなく、狩野川の氾濫で出来た中洲の一つで、当時は湿田に囲まれた島状の地形で、蛭がたくさんいたということから付けられたという説もある。ここで頼朝は14歳から20年間も住むことになる。

つらつらと歩いていると、平らな平地の中に大きな碑「蛭ヶ小島」が。
  

この像は頼朝31歳・政子21歳の結婚当初の像らしい。

でも実は驚くことに頼朝は、政子と付き合っていながら、並行して結婚していて子供もいたのである。今では有り得ない話である。
伊東祐親の娘で、本では三女、真珠院の看板では四女と記載されていた八重姫である。それに頼朝は30才過ぎてから出来た子供でとても可愛がっていたと本で書いてあった「千鶴丸」という女児までもうけていた。
伊東家は平家方であるので、結局父である祐親に結婚を許されない八重姫は、伊東の別館を抜け出して、頼朝の身を隠す北条時政の館の門を叩いたが、既に政子と結ばれていると知っていた門番は冷たく接し、追い返してしまった。
それを悲観した八重姫はこの真珠院の近くで入水して命を絶ったということである。
  


また、この伊東祐親というのは、伊豆の東側に位置する伊東のこの辺一帯の領主である。先に出てきた本「曾我兄弟の密命」の曾我兄弟のお爺ちゃんにあたる人である。
武士の世の中は親や子どもそれに叔父や甥等血が繋がっていながらも、家を継がせるための策略は血なまぐさい。この祐親も叔父を暗殺して家を継いだいきさつがあり、それが今度はその叔父の子どもから命を狙われ、曾我兄弟が敵討ちに走る因果になる。
まあ、その経緯は置いといて、この祐親の名前を見たときに、歴史がリンクしているんだな~とつくづく感じて、驚いた。
ちなみに、政子の父時政は、この曾我兄弟の烏帽子親でもあるのである。
本当、この辺は繋がっている。

この蛭ヶ小島からは、富士山がきれいに見えた。ずーと平らな土地が続いているので、見晴らしがいい。
今回はお弁当でも買って食べようかという千ちゃんの発案で、乗り換えの小田原で物色する。「峠越え弁当」という私たちの趣旨にピッタリなネーミングの駅弁を買った。この蛭ヶ小島には休憩所があり、自由に利用できるのだが、やはり気が引けて味噌汁を注文して、お茶をもらって外の椅子で食す。天気が良くて気持ちがいいなかで、食することができで、気分は最高である。グッドアイデアありがとう。
 


次に向かったところは、最初はあまり期待していなかった江川邸である。
ところが、行ってみたら、その業績たるや素晴らしく、屋敷自体も大きく荘厳で、中には歴史的価値のある資料も列挙してあり、驚きの数々であった。

まず、入口の門のところに数々の写真。この江川邸は、大河ドラマ「篤姫」やTBSドラマ「仁」でセットとして、使われたらしい。そういえば、篤姫がお輿入れをする場面でこの門の奥の黒光りしている板張りの段差のところでみんなに見送られて籠に乗る篤姫という場面があったと思う。
  


資料館の資料によると
江川家は清和源氏のの流れをくみ、6代宇野親治が保元の乱(1156年)に敗れて、その孫が従者13人と落ち延びて定住したのがこの伊豆の国である。頼朝の挙兵の際は参戦している。その後、地盤を固め江川姓に改名した。北条早雲の伊豆進出に際し、土地を提供して韮山城を築城させ、北条氏の幕僚となる。28代の英長は、家康に仕え、代官としてこの地を統治することとなった。

江戸時代伊豆はの国はほとんどが国の直轄領や旗本領であった。勘定奉行の下で、直轄領の支配を担当したのが、韮山代官で、その韮山代官の職は、代々江川家が世襲していた。その支配は静岡の東部から伊豆地方・神奈川県・東京都・埼玉県・山梨県と広い範囲であったという。歴代に活躍した韮山代官の中で最も知られているのは、幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍(坦庵)で、巧みな行政手腕で村々を立ち直らせたということである。

ほぼ、この英龍(36代)の業績を掲げていたと言っても過言ではない。
 


まず一番驚いたのは、国防対策にお台場等の砲台を設計したとある。
私たちがこの東海道を歩き始めて2回目の品川を歩いている時に、偶然にも出会ったのが、当時私たちのマイブームであった大河ドラマの坂本龍馬が、黒船の警備をしていた「浜川砲台」まさにその場所であった。それが何と、この江川さんが設計したとは・・・。


次にあのジョン万次郎をこの英龍さんは部下として召抱えたということであ
る。ペリー来航後海防問題の中心的役割を担っていた英龍は幕府に願い出て、万次郎を自らの部下としたとある。万延元年(1860年)海臨丸でアメリカに渡った万次郎は土産に写真機を持ってきたということである。


また、万次郎を助けたアメリカ人の船長さんとは子孫同士の付き合いが続いていて、江川氏の子孫もいれた3家族で写真が写っていた。


その他にも、鉄砲鋳造のための溶鉱炉である「韮山反射炉」を作ったり、兵の携帯食料としてのパンを開発したりしました。もちろんそこで作られた鉄製の大砲はお台場に備え付けられましたし、もしかしたら、竜馬は品川の沖の浜川砲台で警備をしながら、この英龍さんが開発したというパンを食べていたのかもしれないな~?

また、学問や芸術にも優れた才能をもった人物でした。

また、時代は遡り戦国時代、秀吉が小田原を攻めたとき、北条早雲の居城であったこの韮山城を秀吉の軍勢が包囲した1590年の戦いでの鉄砲のあとが、この韮山の代官所の裏門の門扉にくっきりと残っていた。


小田原城攻めに同行した千利休は、江川邸の庭に生えている韮山竹をみて、その下が割れているのを利用して、花を生けたという。それを秀吉の一夜城での茶会の場にこれを飾り一役をかったということである。


母屋から外に出ると、敷地には母屋とは別にお米をしまっていた米蔵があった。また、裏門ごしに見た富士山は見事だった。


たくさんのことを知って大満足で江川邸を出て、次に韮山城に行く。でも、実際は上までは行かず、下の部分を少し歩いた。
韮山城は韮山高校の近くにあり、この韮山高校の初代校長先生が何代目かの当主であると書いてあった。やはりこの江川代官の子孫は優秀な人が輩出されていて、東大教授とかもあった。優秀な人と言えば、この韮山高校はとてもレベルが高い学校で、友だちの国立大学に行っている甥御さんも高校受験ではこの学校に入れなかったと言っていた。地元に住んでいないとわからないことだ。
   


次に北条氏邸跡に行く。その途中には北条政子が産湯を使ったという井戸の碑があった。安産の伝えがあるという。
鎌倉時代執権として活躍した北条氏。1333年に鎌倉幕府が滅びると、北条氏の子女の救済と戦いで亡くなった人たちの菩提を弔うためにこの地に円成寺を建てたという。
   


最後に、北条時政が頼朝のために建てたという「願成就院」に行く。時政は伊豆の役人であり、頼朝の監視役として命ぜられていた。でも、政子と頼朝が結婚したあとは娘婿を助けて、執権となって鎌倉幕府を支える。しかしその後、政子と対立し、失脚する。墓はこの願成就院の中にある。
 


一日たっぷり韮山の歴史につかり、夕闇も近づいてきた。韮山から小田原まで、伊豆箱根鉄道で戻り、小田原で夕飯を食べて帰ることにした。昼に食べた弁当が意外と量が多く、また、一緒に買ったゆでたまごが4つも入っていて、一人2つも食べたものだから、少々お腹がもたれ気味。なので、軽目の食を探す。何と前回と同じセルフサービスで讃岐うどんを食べさせてくれる大衆レストランを発見。そこで ゆっくり今回の旅を振り返り、事の外たくさんの発見に二人とも大満足し、今回もこうやって旅ができることに感謝して食べ終えた。が、そもままスムーズには帰れなかった。

改札に入る前にトイレに行って、鏡を見ながら「帽子をかぶっていると毛が
薄いのが目立って嫌だわ。」と、私は独り言をつぶやきながら、トイレから出た。何気に、帽子を探した。てっきり帽子はバックに入っていると思い込んでいた。探せど探せどバックにない。何でも作るおばあちゃんが少々値段のはる糸で作ってくれた帽子。風が吹いても頭にフィットして飛ばされにくい気に入っている帽子。これは困った。千ちゃんに申し訳ないと思いながら、お茶をしたところに戻ってみたが、ない。そして讃岐うどんを食べたところに走って戻ってみたら、何と座っていた椅子の下に、椅子と壁に挟まるようにして、そのまま落ちていた。一見見えずらいのが幸いしたのだろう。ホッとして、安堵した。

電車に乗るまでに少し時間がかかったのが功を奏したのか、改札に入って乗るところに行ったら、丁度次の電車がロマンスカーで、600円出したら乗れるという。それでゆったりと帰ってきた。
          16722歩 約9.6キロ


コメント (5)
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