平成23年3月29日(火) 天気に誘われて、皇居へ行ってきました。
本来は26日から韓国好きな主人と昔の都、百済や任那の中心地へ行くはずだったんだけど、この地震でそんな気分になれず、それににこまる観光さんのご好意により払った旅行費は全額戻してくれるということでもあり、今回は中止にした。それで、この天気に誘われもし、今読みはじめた「のぼうの城」から乱世を生き抜いた武士に興味が湧いてきて、まずは江戸時代の象徴でもある、江戸城なるものの痕跡を見てみたいと思ったので、こういう運びとなったわけである。
まずは皇居の江戸城の本丸跡がある東御苑は無料で入れるということをインターネットで知る。それに大手門・平川門・北はね橋門の三つの門から出入りができ、近くの駅は千代田線の大手町が近いということである。意外と開放的であり、都心の中にあって自然が多い所だとホームページを見て感心する。
私たちはまず大手町駅から大手門まで歩く。広い道路を隔てて、あちらにもこちらにも高いビルが連立し、上を見上げると何かこちらに迫ってくるような感覚を覚えた。中には古いビルが取り壊されているのも、2・3あった。あまりの都会的な景色にシャッターを押していると、見知らぬおじいさんに「田舎から来ると、すごいね」と声をかけられてしまい、困った。
お堀の水は濁っていたが、大きな鯉が優雅に泳いでいた。お堀の内側はきれいに整列した石垣が皇居をぐるっと囲み、あーここが皇居なんだなーと一目で分かる。幅7~8m位の橋を渡って、大手門をくぐる。入り際に門の横の建物の白壁が剥がれ落ちていた。守衛さんに聞くとやはりこの地震で剥がれ落ちたらしい。こんなところにも被害が出ていた。直径1メートルはあろうか太い柱で囲まれ、黒光りした分厚い鉄板の門が荘厳と威圧感を醸し出しながら存在していた。どの門にもいえることだが、この門を閉めることにより、より閉鎖的な社会を作り出し、身内(味方)は厚遇するが、敵は一匹たるもの入れるものかと教示しているようだった。
東御苑の中はほんときれいに整備されていた。舗装された幅の広い道路の両側を高低の木々が植えられ、その下には芝生のように地面をはわせて、季節の花や草を所々にちりばめて見栄え良く植えていた。穏やかにされる景色に、人々の心も和ませてくれる。そんな中をしばらく歩くと、同心番所や百人詰所があり、江戸城を警備した武士たちの集まり場所であったようだ。
その次はいよいよ江戸城の本丸があった場所に行った。今は一面広い芝生になっていて、ここの部分に昔江戸城がそびえたっていたんだなーと、考えると感慨ひとしおであった。本丸御殿は、表・中奥・大奥と三つからなっていて、表の方には浅野内匠頭が刃傷に及んだという松の廊下があった場所に碑が建っていた。本丸の北側には男は将軍だけ入れる大奥の場所があり、その跡を見ると本丸跡の3分の1は占めているようで、意外と広い範囲が大奥に使われていたんだなーと分かった。そのもっと北の方に、天守台という小高い丘になっている見張り場所があった。そこは都心にあって憩いを感じさせられるところだ。景色は日本武道館の屋根が見えたりビルの連立が見えたりと都会の真ん中に居るんだなーと分からせてくれるが、巷の喧騒をよそにベンチに座って静かに本を読んでいる人たちもいた。
次に不浄門とも言われている平川門に行く。江戸城の北東で鬼門にあたるため、こう呼ばれていた。城内の死者や罪人を出す特殊な門であり、大奥の女中たちの通用門でもあったという。1701(元禄14)刃傷(にんじょう)におよんだ浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)(1667~1701)が出されて切腹したのも、1714(正徳 4)風紀を乱したとして大奥の御年寄(と言っても30ウン歳)・江島(えじま)(1681~1741)が出されて信州高遠(たかとお)(長野県)に流刑(るけい)となったのも、この門からというこだ。この門に来る途中、梅林坂というこの江戸城を築城した太田道灌が紅梅と白梅を道を隔てて植えたとされる坂があった。2月頃には見事な紅白の梅が咲き誇るらしい。もしかしたらこの人たちもこの梅を見て、江戸城を後にしたのかもしれない。また、春日局(かすがのつぼね)が門限に遅れて門前で一夜を明かしたという門でもある。その日の門衛旗本小栗又一郎は、御役目を守ったとしてお褒(ほ)めにあずかり500石の加増を受けたそうです。その時代の女はいかに春日局といえどもこういう待遇を受けるのですね。
余談ですが、その梅林坂に行く途中、一面ふきのとうの花がさいているところがありました。ふきみそ(ふきのとうを6つ位に切って油でいためそれにシラスと味噌を入れてからめたもの)が大好きな主人は「もったいない」を連発していました。やはり皇居で働く人でもこれを採ってはいけないのでしょうね。これくらいはどんどん活用すればいいのに・・・
またこの天気に誘われてさくら(そめいよしの)もつぼみを膨らませていました。もう一つ二つは咲いていました。確実に春は近づいて来ていますね。
平川門を出て、お堀の周りを歩いていたら、江戸城築城550年の碑が建立されていた。太田道灌がこの千代田区の地に江戸城を築城してから丁度550年にあたるそうです。太田道灌は室町時代中期の武将であり、歌人でもある文武両道の人で、30数戦して負け知らずの名将だった。関東管領職にあった上杉家の重臣で、1457年上杉家がこの地に住むために江戸城を築城した。こんなに主君に仕えたのに、最後は、陰謀により主君に暗殺されたそうである。悲しい結末だ。
また、大手町の駅に向かって歩いていると、「将門首塚」という文字が目に入る。この近くに平将門の首を祀ってあるところがあるらしい。早速行って、手を合わせてきた。お線香が焚かれ、墓の周りは掃き清められていて、世話をしている人が近くに居るんだなーと思った。将門は兵を起してこの辺の坂東八ヶ国を平定した。しかし奇襲にあい38歳の若さで亡くなる。そのとき切られた首が京からこの東国に飛び去り奉られたという。いろいろな所に将門伝説があり、将門を奉ってある神社があるということだが、ここもそのひとつであろう。
最後に、この文の最初に「のぼうの城」を読み始めて、興味が湧いたと書いたが、この本を読み進めていくうちに登場人物に何と太田道灌の血筋がいたことに驚いた。忍城を城とする成田家当主成田氏長の後妻珠がそれである。珠の父太田三楽斎は太田道灌の曾孫で、道灌と同様に和歌に精通し、合戦でも一番槍を何度も獲得した文武両道で御人であった。豊臣秀吉はこの高名な武将を招き、城攻めの術を問うたという。この部分を読むのは、皇居に行ってからであり、歴史は繋がっていることに不思議な感覚を得た。
突然思い立った皇居見学だったが、日本の至る所に歴史ありを実感した面白いウオーキングであった。
本来は26日から韓国好きな主人と昔の都、百済や任那の中心地へ行くはずだったんだけど、この地震でそんな気分になれず、それににこまる観光さんのご好意により払った旅行費は全額戻してくれるということでもあり、今回は中止にした。それで、この天気に誘われもし、今読みはじめた「のぼうの城」から乱世を生き抜いた武士に興味が湧いてきて、まずは江戸時代の象徴でもある、江戸城なるものの痕跡を見てみたいと思ったので、こういう運びとなったわけである。
まずは皇居の江戸城の本丸跡がある東御苑は無料で入れるということをインターネットで知る。それに大手門・平川門・北はね橋門の三つの門から出入りができ、近くの駅は千代田線の大手町が近いということである。意外と開放的であり、都心の中にあって自然が多い所だとホームページを見て感心する。
私たちはまず大手町駅から大手門まで歩く。広い道路を隔てて、あちらにもこちらにも高いビルが連立し、上を見上げると何かこちらに迫ってくるような感覚を覚えた。中には古いビルが取り壊されているのも、2・3あった。あまりの都会的な景色にシャッターを押していると、見知らぬおじいさんに「田舎から来ると、すごいね」と声をかけられてしまい、困った。
お堀の水は濁っていたが、大きな鯉が優雅に泳いでいた。お堀の内側はきれいに整列した石垣が皇居をぐるっと囲み、あーここが皇居なんだなーと一目で分かる。幅7~8m位の橋を渡って、大手門をくぐる。入り際に門の横の建物の白壁が剥がれ落ちていた。守衛さんに聞くとやはりこの地震で剥がれ落ちたらしい。こんなところにも被害が出ていた。直径1メートルはあろうか太い柱で囲まれ、黒光りした分厚い鉄板の門が荘厳と威圧感を醸し出しながら存在していた。どの門にもいえることだが、この門を閉めることにより、より閉鎖的な社会を作り出し、身内(味方)は厚遇するが、敵は一匹たるもの入れるものかと教示しているようだった。
東御苑の中はほんときれいに整備されていた。舗装された幅の広い道路の両側を高低の木々が植えられ、その下には芝生のように地面をはわせて、季節の花や草を所々にちりばめて見栄え良く植えていた。穏やかにされる景色に、人々の心も和ませてくれる。そんな中をしばらく歩くと、同心番所や百人詰所があり、江戸城を警備した武士たちの集まり場所であったようだ。
その次はいよいよ江戸城の本丸があった場所に行った。今は一面広い芝生になっていて、ここの部分に昔江戸城がそびえたっていたんだなーと、考えると感慨ひとしおであった。本丸御殿は、表・中奥・大奥と三つからなっていて、表の方には浅野内匠頭が刃傷に及んだという松の廊下があった場所に碑が建っていた。本丸の北側には男は将軍だけ入れる大奥の場所があり、その跡を見ると本丸跡の3分の1は占めているようで、意外と広い範囲が大奥に使われていたんだなーと分かった。そのもっと北の方に、天守台という小高い丘になっている見張り場所があった。そこは都心にあって憩いを感じさせられるところだ。景色は日本武道館の屋根が見えたりビルの連立が見えたりと都会の真ん中に居るんだなーと分からせてくれるが、巷の喧騒をよそにベンチに座って静かに本を読んでいる人たちもいた。
次に不浄門とも言われている平川門に行く。江戸城の北東で鬼門にあたるため、こう呼ばれていた。城内の死者や罪人を出す特殊な門であり、大奥の女中たちの通用門でもあったという。1701(元禄14)刃傷(にんじょう)におよんだ浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)(1667~1701)が出されて切腹したのも、1714(正徳 4)風紀を乱したとして大奥の御年寄(と言っても30ウン歳)・江島(えじま)(1681~1741)が出されて信州高遠(たかとお)(長野県)に流刑(るけい)となったのも、この門からというこだ。この門に来る途中、梅林坂というこの江戸城を築城した太田道灌が紅梅と白梅を道を隔てて植えたとされる坂があった。2月頃には見事な紅白の梅が咲き誇るらしい。もしかしたらこの人たちもこの梅を見て、江戸城を後にしたのかもしれない。また、春日局(かすがのつぼね)が門限に遅れて門前で一夜を明かしたという門でもある。その日の門衛旗本小栗又一郎は、御役目を守ったとしてお褒(ほ)めにあずかり500石の加増を受けたそうです。その時代の女はいかに春日局といえどもこういう待遇を受けるのですね。
余談ですが、その梅林坂に行く途中、一面ふきのとうの花がさいているところがありました。ふきみそ(ふきのとうを6つ位に切って油でいためそれにシラスと味噌を入れてからめたもの)が大好きな主人は「もったいない」を連発していました。やはり皇居で働く人でもこれを採ってはいけないのでしょうね。これくらいはどんどん活用すればいいのに・・・
またこの天気に誘われてさくら(そめいよしの)もつぼみを膨らませていました。もう一つ二つは咲いていました。確実に春は近づいて来ていますね。
平川門を出て、お堀の周りを歩いていたら、江戸城築城550年の碑が建立されていた。太田道灌がこの千代田区の地に江戸城を築城してから丁度550年にあたるそうです。太田道灌は室町時代中期の武将であり、歌人でもある文武両道の人で、30数戦して負け知らずの名将だった。関東管領職にあった上杉家の重臣で、1457年上杉家がこの地に住むために江戸城を築城した。こんなに主君に仕えたのに、最後は、陰謀により主君に暗殺されたそうである。悲しい結末だ。
また、大手町の駅に向かって歩いていると、「将門首塚」という文字が目に入る。この近くに平将門の首を祀ってあるところがあるらしい。早速行って、手を合わせてきた。お線香が焚かれ、墓の周りは掃き清められていて、世話をしている人が近くに居るんだなーと思った。将門は兵を起してこの辺の坂東八ヶ国を平定した。しかし奇襲にあい38歳の若さで亡くなる。そのとき切られた首が京からこの東国に飛び去り奉られたという。いろいろな所に将門伝説があり、将門を奉ってある神社があるということだが、ここもそのひとつであろう。
最後に、この文の最初に「のぼうの城」を読み始めて、興味が湧いたと書いたが、この本を読み進めていくうちに登場人物に何と太田道灌の血筋がいたことに驚いた。忍城を城とする成田家当主成田氏長の後妻珠がそれである。珠の父太田三楽斎は太田道灌の曾孫で、道灌と同様に和歌に精通し、合戦でも一番槍を何度も獲得した文武両道で御人であった。豊臣秀吉はこの高名な武将を招き、城攻めの術を問うたという。この部分を読むのは、皇居に行ってからであり、歴史は繋がっていることに不思議な感覚を得た。
突然思い立った皇居見学だったが、日本の至る所に歴史ありを実感した面白いウオーキングであった。