Lucky☆Sardonyx

ばるご☆の戯言ブログです(^^)

回避☆関ヶ原

2006-12-13 01:02:31 | 歴史
最近モデルさんネタばっかりで…ちょっと「変なヤツ」と化してますので今晩は歴史ネタで人間性を中和してみます。

大河ドラマ「功名が辻」も終了してしまい、ちょっとさとちゃん似の仲間由紀江さんを観ることが出来ずに落胆しております。。じゃなくって今晩は山内家躍進の舞台となった「関ヶ原の戦い」これが果たして回避出来なかったのかを検証してみます。

まず、合戦そのものが本当に必要だったのか?客観的に観ると答えは「NO」です元凶である家康は高齢であり、寿命もそうは長くない…確かに、豊臣家の防波堤的存在であった前田利家が死去し、パワーバランスが崩れかけた部分はありましたが、諸大名の多くは朝鮮出兵でのダメージが癒えておらず(完全終結から僅か2年)とてもまともに合戦に取り組める状態ではありませんでした。更に、これは西軍によく見られた傾向だったのですが戦国大名から豊臣政権下の大名へとモデルチェンジした面々は現状維持で手一杯、天下取りや領土拡張の野望など毛頭ありませんでした。むしろ、そういった野望は発展途上にあった豊臣政権中枢にあった譜代大名の面々にあり、それらの多くが東軍に属し徳川家に味方することにより豊臣家の栄光を傾けたことは歴史の皮肉であります。
石田三成始めとする忠義心厚い急進派が暴発せず、政治力による駆け引きで時間を稼いでいたならその後の歴史は随分と違ったものとなっていたことでしょう。
ここで「キーマン」となるのが家康の次男で秀吉の養子にもなったことのある悲劇の武将・結城秀康です。彼を豊臣五奉行の宇喜田秀家のように豊臣家の藩屏として厚く遇していれば、彼が豊臣家と徳川家の緩衝的な立場となり平和的な二元政権が誕生したかも知れません。いや…上手くいけば、彼が250万石の徳川家を二つに割く役割を果たせたかも知れず…と、いうのも徳川家の世子・秀忠の当時の評価は必ずしも高いものではなく、同じく家康の血を引く秀康の存在は一枚岩を誇る徳川家臣団を分裂させられる数少ないチャンスのひとつでした。親・豊臣派として秀康を遇し、秀頼の後見の一人として君臨させ、あわよくば秀忠の勢力を討滅させる…結果、徳川家は100万石程度の大名として存続させるというシナリオです。
実際、この結城秀康を豊臣政権下で重用しようという動きはあったようです。所謂「幻の六大老制」です。この構想は、徳川家の政権下での勢力がそれによって徒に膨張し過ぎるのを回避するために実現しなかったそうなのですが、何とも残念な話ですあと10年、豊臣政権が主体性をもって存続していれば、重商主義的な貨幣による流通経済が主流となり、秀吉の目論見通り経済力をもって諸大名を統制する体制が実現したことでしょう。大航海時代や産業革命も欧米よりも早く到来したかも知れません。江戸時代のような、重農主義による「質素倹約、日本国民みな貧乏」な閉鎖的な社会は成立しなかっただろーと。。ただ、日本としての独自の体力は蓄えられなかったでしょうね、例えば各地の特産品というのは諸大名が石高以外での収入を得るために編み出したものです…鉱山収入は幕府に握られていましたからね貿易依存型の我が国が、その割に意外に腰が強いのは江戸時代に地道に国力を高めてきた賜物だといえるのではないでしょうか。

本題に戻ります…それでも歴史の流れは「対決」を選択、各々の大名は家運を賭けて双方に別れて戦い、結果日本はその後250年余の泰平を享受し得たわけです。

何が正しいのか、何が望ましいのかっていうことは誰にも分からない…その答えは時代と共に変遷していくから…でも、それが「悪くない」とは言えるんじゃないかな?