夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

永遠のテーマである — 人生は何のためにあるか? 何のために生まれたのだろうか?

2019年01月06日 18時00分12秒 | 真理の言葉
病院は365日、毎日24時間動いています。
屠蘇気分も覚めて、

新しい年号である今年が動き出しました。

日も段々と長くはなりましたが

空風が吹き今日は寒の入りの『小寒』です。

フロントガラスも凍り付き

これから南国も本格的に寒くなりそうです。



今年初めての講話をさせて頂きました。



『人生は何のためにあるか』をお話しました。

何のために人生はあるのだろうか?

何のために生まれたのだろうか?

これを知ることが人間の切実な問いである。

自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。

自己が自己を知ることは、『眼』が自分の『眼』を見ることが出来ないように

そのままでは出来ないのである。



『人生は何のためにあるか』?

眼が眼を見るには、眼は鏡を用いて

仮に自己の外に『自己の影』を見なければならない。

神が人間をつくったのは、神が自己自身の生命の歓喜を見るために、

神自身の歓喜の姿を、神自身の外に『神自身の影』を創造したのである。

此の神の創造を『此の世』に持ち来し、薔薇がバラの花を咲かせるように、

カンバス(canvas)に絵を描くように、

『人生と云う画題』を無限に描き、表現することが人生である。



『何のために生まれたのだろうか』?


神の無限の知恵、神の無限の愛、神の無限の生命、神の無限の供給、神の無限の歓び、

神の無限の調和等の『善なる神の無限の御徳』を此の世に実現する為に生まれたのである。



人間は神そのままの『写し』である。

神は完全で円満であるから

人間も完全で円満であるのが真実である。

しかしながら本来は完全円満なる天国(エデンの園)の世界に住していたのにもかかわらず、

蛇の誘惑に負けて『知恵の木の実(分析の心)』を食べて

『善』も『悪』も存在すると云うことを知り、

また男と女との区別を知り、恥じらい、イチジクの葉を腰に覆うようになった。



そして悪も存在すると云う考えが具体化して、

自ら『悪』と云う現象を造り上げ

此の世に悪と云う世界を構築することになったのである。

そして人間は自らの心で描いた『悪の世界』を見て

悲しみ、恐れ、心配し、自ら不愉快になり心が痛むことになったのである。

此のままでは永遠に『エデンの楽園(天国の世界)』に還ることが出来ないのです。


では如何にしたら良いであろうか?


それは思いを変えることです。

自己の環境も肉体も自己の念(こころ)の反映であるから、

思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。

・・・・・・・続く






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