夢から慈しみの世界へ

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名島弁財天を尋ねて

2007年12月09日 20時15分33秒 | 歴史

Tourou_019 先日諫早より、マリンメッセでの講習会の帰りに永年の念願でありました、名島弁財天へ尋ねようと思い地下鉄、西鉄と乗り継ぎ神功皇后の御縁であられる名島神社、宗栄寺に祀られている名島弁財天へと、心弾み尋ねました。

名島弁財天は祖母が40年ほど前、私達家族の繁栄と幸福の為に御印を受けて頂いたご縁です。

当時は交通が不便な時節に足を運ばれたご苦労を思い、有りがたく胸詰まる思いでした。着いて参拝を済ませご住職にお会いしたいと思いましたが、不在のようで、すぐ近くの名島神社へ足を運び宮司さんにお話を伺いましたところ、宮司さんは以前は長崎の諏訪神社に奉仕されていたそうです。

名島神社と名島弁財天のご縁を話して頂きました。

それに因りますと以前は同じ場所に祀られていたそうです、豊臣秀吉時代に今のように別々に祀られたようです。

宮司さんのお蔭で宗栄寺の方に連絡していただきお坊さんとお会し、当時のことを伺いましたら現在は当時の御印を造る職人さんがいないとのことでした。又お札も受けることが出来ました。ありがとうございました。

名島弁財天社

今の東いと高き山を神宮が峯云。此山則いにしへ社ありし所なり。一説、神功皇后ののぼらせせ給う峯なる故に、神功が峯と云。小早川隆景、名島を築れし時、今の所うつさる。神功峯の南を鳥居峯といふ。是鳥居を建たりし所也。城ありし時は南の丸といふ。元禄中、国君より社を又むかしのごとく山上に移され、神殿をも綺麗に改め作りて、石の鳥居を立給ふ。其鳥居の額は、元禄年中、篤信が乞に依て、花山院前内府定誠公書給ふ。むかしは大社なりしが、中ごろより衰けるにや。此神も宗像三神の内を勧請せしなるべし。天正十四年、秀吉公筑紫に下り給いし時、此社に詣で、社の衰へたるを見て、弁財天は福神なるに、荒てさびしき貧神なりとて笑いたまふと也。六月二十日祭あり。参詣の人多し。社僧の寺は、名島村にあり。神宮寺と云。名島山と號す。天台宗なり。国君より社領二十石餘寄附せらる。又其西北弁財天社の社に近き所に寺あり。宗栄寺と云ふ、向春山と號す。社の側なる海際に、砧板瀬(まないたせ)とて岩あり。民俗傳へて云、神功皇后三韓より凱旋の時、此所に於て祝饗有し故、砧板瀬の名ありと云。 

                                     筑前風土記より


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