夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

一菜の葉っぱの屑にも神、佛の生命が輝いている。

2016年04月05日 17時46分47秒 | 日本の食文化
一菜の葉っぱの屑にも神、佛の生命が輝いている。

ある高級料亭で、見習いの者が一切れの豆腐をゴミ箱に捨てたのを調理長から、
その豆腐を捨てたゴミ箱に頭を入れられたそうであります。
君の実家は農業ではないか、
豆腐が出来上がるまでにはどれだけの大豆が必要であるか君は知っているか、
君のお父さん達の苦労で大豆が収穫さているではないかと諭されたそうであります。



またある寺の台所で、夜な夜な、ある僧が何かを美味しそうに食べているのを見当たり、
翌朝、己は皆が寝静まった夜中に隠れて旨いもの食べているのはけしからんと抗議をされ。
その僧は答えて曰、昼間典座係が切り捨てた野菜の屑を煮て食べているのである。




一人の老婆が米のとぎ汁を捨てようとして家の外に出た時に、釈尊に出会い、思わず信心を起し、
なにもさし上げるものは無いですが、この粗末なとぎ汁でも召し上がって下さいと言って、
捨てようとしていた米のとぎ汁を釈尊に供養した。
釈尊は喜んでこれをうけとり、老婆はこの功徳により、生前にはこの上もない福楽をうけ、
来世にはきっと悟りを成就するであろうと云う予言を受けたと云う。




醍醐味の御馳走を作るときにも、それを必ずしも上等とはしてはならない、
また菜っ葉の汁を調理するときにも下となさず、誠実な心、浄心、潔らかな心で、
醍醐味を作るときと同じ心で調理すること。
上等な物、粗末な物と区別して差別してはならない、与えられたものを好き嫌いせず、一味にして食べないとならない。
                                    典座教訓 道元

食事は自分自身の内に宿る神に供え物を献ずる最も尊い儀式である。
食事をとる時にもすべての隣人と仲直りし、自己が過ちておかした罪が神によって許されんがための供え物と思い、
またすべての人の罪が心から許されんがための食事として食べよ。



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