夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

癒しと赦しの本質

2016年01月30日 15時25分10秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
癒しと赦しの本質

今日は久々に温かくて天気に恵まれました。

癒す事とはどのようなものであろうか。
『癒す』、『癒される 』、とは主観(心)と客観(対象)との関係と同じようなものである。
その主観(心)と客観(対象)が互いに相合うことが必要である。
対象(客観)にどんな形、事情があっても、それを感ずる心(主観)がなければ、それを癒しと云う訳にはいかないのであります。
熊は花の美を感ずることは出来ない。熊の世界では花の美は無いと云わなければならない。
感じられないものは無いと同様である。
しかし人間の世界で美と感じる源泉は主観的感情や鑑賞作用ではなく、そのものの内在に美を感ずる本質というようなものがあります。
ものそのものに内在する美を感ずる心によって、意識の世界に浮かびあがらせたのが美である。
即ち美は客観に属し、主観に属し、主観と客観とが合一したところにその美の本質を心が認識して顕わしたものである。
この主観と客観が合一した美は神に属するものであります、
観る心と観られるものはとは相分かれているようであるが、本来それは一つであると云うことである。
是と同じように癒すと癒されることとは本来一つものであります。
自分の悩み、思いを相手が心より理解し行動するならば、眞に心が癒され相手との一体感が深くなり相手を心より愛することが出来ます。
心の癒しは表面的で義務的なものごとを理解するのではなく、自分自身でも気付かない深い心の願いを理解することにあります。
癒して上げたい心と癒されたい心が相寄って一つになるときにそこに癒しが成就するのです。


癒しは神より来る



精神的。霊的な領域はわたしたちの直感を通し、『聖なる瞬間』となって、その内側をかいま見せてくれます。
そのとき世界は突然静止、私たちは『偉大な精神・霊』と結びつき、愛によって、
人と人の間に魂の交流の橋がかけられるのを感じます。
私たちはこの領域を、夢として、神話という人類の魂の成長の記録の集まりとして、
あるいは個人の幻視や神秘体験としてかいま見ます。
宇宙のエネルギーとは愛であり、失敗とは人間失格の宣言ではなく、
むしろ学ぶ機会であり、人生の最も暗い夜は、愛を知るための機会となるうるのだという知覚が『自分の内側』起きるからです。

人間関係は、それが慈しみに基づいている時は、心理的であると同時に霊的な機会です。
そこでは『私』と『他人』という二元性にかわって、一つに結びついた『私たち』という存在を互いに共感し、理解し合う絆がつくられます。
そしてその結びつきは、それが『今』を中心にすえた『赦し』とよばれる生の中で行われるとき、
心理的に、または霊的に、かつてなく深い英知へと向います。
私たちはすでに赦されている。
あなたは独りで闘っているのでないし、かって独りだったこともない。
時の始まりから、人の心は愛のなかに自らの源を探し求めてきた。
罪悪感はその源え帰るためのたくさんの道案内の一つ、私たちはお互いに愛しあい、助け合える、自分自身を愛することができたその時にだけ。
目覚めるための旅とは、真の自分が誰であるかを思い出すこと。
そこでは恐怖が愛によって癒やされる。
そして、私たちが愛を購うために被った仮面は、心からの歓喜のなかに、
光のなかに、影のなかに、溶けて消える。
その時はじめて、私たちは自分の力で前に進み、いたわりの心
慈しみと愛とに結ばれる。
そこで、私たちは喜びと感謝をこめて自分の歌を歌うだろう、
神の子としての、自分の価値に歓喜しながら。

                      ジョージ・ポリセンコ


赦しは人生最大の大事であり、善業の最たるものである。

恨んでいると、相手から受けた失礼や不幸や障害をなかなか消し去ることが出来ない。
そこでどうしても相手の『神性・仏性』なる人間を心で観、
その人を愛し赦すことを実行する練習が大切な人生課題となる。
すべての人々は結局この一点にたどりつき、神の子らしい喜びと平安を得るものである。








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