皆さま、明けましておめでとうございます!
久しぶりすぎて何をどうすればいいのやら・・・。
この冬、一つ確かに言えることは「コタツはやはり魔物だった」ということだけですw
えー、前回の更新から間が空きすぎているのですが、その間にあった大きな出来事と言えばうちの母親がまた骨折して入院したことでしょうかね。
もう片手で数えられないような回数の出来事ですが、酔っ払って自宅で転倒したわけでして。
手術も無事に済んで今は退院してリハビリに励んでいるようです。
外でよそ様に迷惑をかけたわけではないだけ今回はマシでしょうか。
もうあれですね。驚きや呆れる気持ちすら沸かないという。だって別にあれですもんね。前にそうして酔って骨折してから酒を控えるとかしてたわけじゃないですからね。いつかはやるし、いつでもやるわけで。
で、私は弟から母親がそうして入院したと連絡を受けたのですが、そうした時に本気で思っているわけではないのですがふっと頭に浮かぶ台詞がありました。「信心が足らないにも程がある」と。
重ねて言いますが本気でそのようなことを思っているわけではありませんし、もちろん口に出しても言いませんよ。
でも皮肉のように、ふっと思い浮かんでしまうんですよねー。
しかしそう考えた後、これまたふっと思ったんですよね。「いや、信心が足らないかどうかは分からないんじゃ?」と。
つまり信心は足りているが、怪我をした。
これは学会的に考えると、信心をしているから本来もっと酷い怪我をするはずだったがこの程度(骨折)で済んだ。或いは、一見不幸な出来事だが骨折&入院することでより大きな幸福を今後手に入れられる。というような可能性が在るという理論でしょうか。
そう思い至ったとき、今更ですが頭を抱えるような気持ちでしたね。
そうだった~!と。
どのような場面に遭遇しようと、全ての(都合のいい)答えが用意されている。それが創価学会だった、と。
・信心が足らずに怪我をした→信心頑張ろう!
・信心していたのでこの程度で済んだ→これからも信心頑張ろう!
・信心していたのでもっと大きな幸せが来る→引き続き信心頑張ろう!
となるわけですよね~。知ってたw
親戚にちょっと厄介な学会員さんがいる友人と話していたのですが、どうして(私の母親やその親戚のような)学会員さんは同じ失敗を繰り返すのか、と友人が本気で疑問に思っていたのです。
で、私は「そりゃあ原因の根本を反省しないからじゃない?」と答えました。
友人は「え?何で反省しないの?」と普通に分からないようだったので私は考えるよりも早く「思想教育の賜物」と口をついて出ましたねw
「あ~(納得)」と友人はそれだけで分かってくれました。さすが。
でも母親のこの怪我の件からも明らかですよね。母親は病院の主治医の先生に「もう次はありませんよ!」と叱られたそうです。
母親はそれに対して「私も好きで転んだわけじゃないわ!」とほざいていました。
そりゃあそうでしょうが、お医者さんが言っているのはそんなことではありません。「自分の体をコントロールできなくなるまで酔っ払うな」という当たり前のことです。
母親にとっては、その根本が見えません。
それは創価学会の用意した答えの中にはないものだからです。ですから何度でも同じ失敗を繰り返すのです。一事が万事この調子。
学会員ではない人でも、酒癖の悪い人、お酒好きなために失敗を重ねる人というのはいるでしょう。
母親もその要因を持っているのでしょうが、まあそういう人はたぶん飲酒による失敗というリスクよりも酒を飲みたいという自分の欲望が勝ってしまうのだと思います。私は一切飲まないので想像ですけど。
でもそこに原因が在ると自覚していれば、私の母親のように責任を他に擦り付けたりはしません。
間違ってもお医者さんに反論などしないでしょう。飲み過ぎた自分の責任だと思っていれば。
こうして思考を紐解いていけばいくほど絶望的になるという、創価学会に関わった者の悲劇が昨年のブログ休止の間にあった思い出ですかね~。まあほんと、今更ですが。
お休みしている間にシニフィエさんの「対話を求めて」では800万アクセスを達成しているし!おめでとうございます!!
ブログの更新もたまに思い出してはこんなこと書こう、あんなこと書こうと頭の中では文章を考えるのですが、一旦不定期更新にしてしまうとなかなか実行できず・・・。
また次の更新がいつになるかはお約束できませんが、私もにゃんこらも元気に過ごしている証拠ですので気長に気軽にお付き合いくださいませ。
あまり明るい話題ではありませんでしたが、こんな感じの新年一発目ですw
皆さまにとって2019年が笑顔の溢れる幸多き一年でありますように。
本年もよろしくお願いいたします。
(1月も半ば過ぎですが、とりあえず)
クロさん、お久しぶりです。お元気そうでなによりです。色々あったとの事、こちらも同じ様な事で去年は大変でした。大変と言えば日本も世界も、大きな渦の中に入った様ですね。お花畑の日本人も少しは目が覚めつつある様な。学会員さん達は、どうでしょうか?未だまだ、夢の中かな?
老母が朝夕仏壇に向かうのは、複雑な気持ちで見ていますが。これも、亡き人への供養と生きたあかしだと思って見守っています。私は、正直あまり手を合わせたくないけど、老いたる母の手前そこは、水を替えたり、写真に手を合わせる様にしています。題目でなく、感謝と母の守りの願いを心で語ってます。
ともかく、クロさん、にゃんこ達が元気で幸多き年であります様に。福よ来い来い。
招き猫
お久しぶりです。お元気でしたでしょうか。
実は私は先週インフルエンザでダウンしてしまい、あまり元気ではありませんでした。
今は全快していますよ~。
とても流行しているようなので、招き猫さんとご家族もくれぐれもお気をつけください。
日本はもうずっと昔から既に国際社会の一員として組み込まれており、もっとその果たすべき責任について一人ひとりが考えなければいけないのでしょうね。
けれど日本が平和であるが故に、自分たちが当事者とならなければなかなか問題の認識すらできないのが、お花畑に拍車をかけているのでしょうか。
平和であるに越したことはありませんが、そのためにはどうすればいいのかをもっと真剣に考えなければならない時代なのだと思います。
感謝の気持ちはすばらしいですね。誰も悲しまず損をせず、幸せな気持ちになれます。
きっと招き猫さんたちをこれからもお守りくださると思います。
招き猫さん、ご家族の方たちが元気に過ごされますよう、明るい一年になることを願っています!
思えばうちの母も非常に酒癖の悪い人でして、国語のテストで99点獲ったときに、酒瓶で頭を小突かれたことがありました。しかし記事にも書かれている通り、学会には常に都合の良い言い分が用意されています。そしてその都合の良い言い分を、あたかもゲームの攻略本であるかのように説き伏せ、その通りに考えることを強要するんですよね。人間の人生や悩みなんてそれこそ人それぞれで、言われた通りにすればクリアー出来るなどという性質のものなんかではないのですが。ある「患部」、もとい「幹部」はこう言いました。
「戸田先生が言っている。親を愛せないやつに、他人を愛せるはずがない、と」
まあなんてご立派なご指導ですこと。自分に無理心中を迫ったことのある相手を愛せるほど、僕はドMじゃありません。その攻略本通りの言い分でいったいどれだけ傷ついたことか。その「患部」は、さらにたて続けにこう言いました。
「宮本輝が芥川賞を受賞した後、池田先生から無視された話は知ってるか?」
僕ぐらいの熱心な読書家が、その話を知らないわけがないのに、あくまでも上から目線で物を言いたいのでしょう。そのためには、「知らない」という前提で話を進めた方が都合がいいからそういう話し方をしているのは見え見えでした。あー気持ち悪い。
元来僕は宮本輝の熱心な読者ではありませんでした。学会員で文芸ファンなら、宮本輝は尊敬しなくてはならないという空気に、本能的な嫌悪感を感じていたからです。また、学会員だった当時からすでに、池田大作が宮本輝を無視したという話にはなんとも言えない違和感をも感じていました。今となっては当然のこと。ガン細胞、すなわち最大の「患部」は、偽田代作そのものなのですから。
ある人から、宮本輝の「草原の椅子」という小説を勧められ読んだのですが、これがまたひどい内容の本でした。虐待されている子どもが登場するのですが、児童虐待の本質をまるっきり理解していないのです。そのことを、読んだ人になら分かるように説明した上で、
「一言で言うと勉強不足ですね」と切り捨て本を突っ返しました。相手は、「お前ごときが輝さんのことを勉強不足だなんて何様のつもりだ」と憤慨していましたが、僕には自説を曲げるつもりは全くありませんでした。
そもそも社会は、親にとって都合がいいように出来ているんです。「親を尊敬しない。親に感謝しなさい。親に間違いはない。親には子どものことなんてなんでも分かる」という誤った常識に、ほとんどの人が洗脳されているんです。そうして誤った常識に洗脳された人が親になり、再び親と同じ過ちを繰り返すのです。親になったことがない人まで、「20歳を過ぎたら全部自分の責任だ」と、親に都合がいいことを言うのは、それが原因だからなのです。本質はまるきり逆で、幼少の頃に親から受けた心の傷は、その人の人生を左右するほど深刻なものになるのに。しかし親はそのことを認めようとはしません。「不都合な真実」に、気づかないように気づかないように子どもを育てるのです。創価学会の折伏や「患部」の指導と、なんだかとてもよく似てますね。
一人でも多くの人が、「不都合な真実」から目覚めて欲しいと強く思います。
クロ様のブログが更新されたので、安心しました。
定期的に、ブログの記事を更新することは、とても難儀なことです。私自身、公務と雑事に追われて、なかなか更新できません。
それだけに、クロ様のブログが更新されたことを嬉しく感じています。
立春は、もうすぐです。精進しようと決意しています。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
お返事がなかなか書けなくて申し訳ありません。
週末にここのところ予定が詰まっておりまして、なかなか時間が取れません。
来週も怪しい・・・。
きちんとしたお返事は、もう少しお待ちください。
ずいぶん気長なブログになってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。
頭の中では返事の内容は考えていたものの、パソコンに向き合う時間がなかなか取れなくて。
もう3月ですね~(汗)
トニーさんのコメントを頂いてから、ふと思ったんですよね。
もし創価学会が新しい教義として「禁酒」を打ち出したらどうなるだろう?とw
理由は何でもいいですよ、池田氏が言ったでも日蓮の教えにあったとかでも。そして創価学会として、正式に会員に禁酒を求めるものとすると発表したら、いったいどうなるんでしょうね。
トニーさんのお母さんもそうだと思いますが、うちの母親も絶対に守らないと思うんですよ。
何らかの理由をつけて、おおっぴらにではないにしても家でこそこそ飲み続けると思うんですよね。
モルモン教も禁酒を強いていたと思うんですが、会社の人の知り合いのモルモン教徒男性(日本人)は厳格に禁酒を守っているそうで、飲み会でも宗教を理由に絶対飲まないらしいです。
そういう意味で考えると、うちの母親だけでなく多くの学会員さんは、そこまで厳格に宗教の教義を捉えていないな・・・と思います。
学会では今現在でも表向きは会員での金銭のやり取りなど禁止しているはずですが、実際に横行しているのは中にいた人ならば誰でも知っているでしょう。
そもそも団体としての学会自身が、宗教団体としてのルールや規則を建前としてしか扱っていないですからね。
創価学会員の人たちは、本当に信仰というものをしているんだろうか?と改めて思ってしまいました。
小説って、書き手の意図というか「読者にこう思って欲しい」という意図が透けて見える時がありますよね。
そういう時って単なる文才の問題でだけでなく、作者自身のリアリティの欠如だと思うんです。
頭の中で貧弱な想像しただけで書いているんだな~って感じ取ってしまうと、一気に冷めてしまいますよね。
私は宮本某の著書は拝読したことはありませんが、トニーさんの感想からそんな感じなのかと思ってしまいました。
親にとって都合のいい社会、というのはそうですね。性善説的というか。
まず、私も自分が親に対して好感情を抱けないのはとんでもない人間なのではないかと自身を恐ろしく思う時期もありました。
子供の頃ですがね。
でも親が夜に子供を置いて飲みに出かけるのを引き止めて、それを無視して出て行かれて、風呂で泣いていた時に思ったんですよね。
何故私はこんな悲しい気持ちになるのだろう。ならなければならないのだろう、と。
その理由を深く自分の心に探っていくと、自分は心の底では親に愛して欲しいと、子供が一番大事だと思ってもらいたいと願っているからだと気づき、そしてそれが叶っていないのだとはっきり自覚したんですよね。
小学校高学年の頃でした。
そしてこちらを向いてくれない親のためにこんな惨めで悲しい気持ちになるのは、とても理不尽で不公平だと思い、親に愛されたいという気持ちを手放せば楽になるのだと考えました。
すぐに割り切れるものではありませんでしたが、次第に親に対する気持ちも冷めて「好きにすればいい」と思うようになり、親の喧嘩も無視するようになりました。
そうやってだんだん、親も不完全な人間であり「(子供に)愛されるのが当たり前」の存在などではそもそもなかった、ということに思い至りました。
そういうことに気づかないのはある意味幸福な人生なのでしょう。
そういうことを考えずにすむことは、得がたい幸福です。だからこそ、無自覚にそれを得ることのできなかった人間を傷つけてしまうのだと思います。
問題は、それを言えば分かる人と言っても分からない人がいるっていうことでしょうかね。
週一で更新していた日が懐かしいですw
一度手放してしまうと、結局その時間他にすることができてしまってなかなかブログにかかれないんですよね。
希望さんはそういったことに関わらず、実生活が多忙なことと思います。
どうか無理はされず、マイペースで更新されてください。
以前、宮本輝のことを厳しく批判しました。ネットの性質上、まだ学会を信じているかわいそうな方も何人かは読んでいたのではと考えます。「輝さんを勉強不足だと。そういうトニーの方こそ、お前は一体何モンなんじゃい」と考えた方も少なくないのでは?と。
少なくとも僕は文学をキチンと理解した上で宮本輝を「草原の椅子」を批判しました。また、宮本輝の何もかもを悪く言ってはおりません。学会員の文芸ファンのように、「他の作家は批判するくせに、宮本輝だけは無条件に評価する」かのごとき偏った読み方や評価をする偏狭な人間ではないという自負があるのです。
クロさんに一つお願いがあります。おそらく最後のお願いです。お返事を待っている間に、自分なりに「家庭問題」について考えて書いたオリジナル小説があります。読んで頂けたらと思っています。
お嫌でしたら構いません。どうぞこのコメントは棄却してください。このコメントが公開されていない、ということそれ自体をお返事と考えます。それはまた承認制ブログの利点でもあります。
拙著「忘れ花火」を読んで頂いた感謝の気持ちは決して忘れていません。あのときは「あれでいい」と突っぱねたこともありましたが、後から自身の傲慢さはまるで学会の幹部みたいだったなと反省しました。「むしろクロさんの言う通りだった」と。あれ以降、短いものはいくつか書きました。しかし今回の新作は自分の持てる引き出しのほとんど全て使い切りました。今後も趣味的に短編は書くでしょう。しかし本気のチャレンジは恐らくこれが人生最期だと思って書きました。
宮本輝の話題が出た後、以前から温めていた構想が今回のような形に相成りました。また、書いた以上、読んでもらいたい虫が治らないのです。
河童さん始め、僕をご存知の方がいましたら、ぜひお願いします。
「文学を理解した上で」書いたものです。学会をやめても、こんなに充実した創造的な生活をしている人間もいるのだ、という証明にもなればと考えています。
タイトルは、「あの日の二人はもう居ない」です。
https://ncode.syosetu.com/n1740fj/
どうぞよろしくお願いいたします。
コメント、ありがとうございました。
ブログの更新を続けることは、本当に難しいものだと存じます。私も、多忙な日々が続き、3月のブログは、今日16日に、やっと更新できました。
ゆっくりと、しかし、着実に更新できるようにしようとの決意を新たに致しました。
今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。
今年も宜しくお願い申し上げますw
春ですねー。
「冬は必ず春となる」
長い人生における苦しい瞬間では、大変励まされる言葉です。でも現実には、また冬は来るんですよね。
人生がずっと冬でも最後に春になればいいや。今は修行中。何なら春は来世でもいいかな。
不幸が好転しない多くの学会員の心理です。「信心で捉える」なら、今世は信濃町に献上です。
非活になれば、直ぐに来る春も沢山あると思いますけどねー。
非活になれば、真冬でも美しい花を掴むチャンスはそこら中にあると思いますけどねー。
「信心で捉える」……
多くの人が理不尽さを感じながらも、脱会しない以上は選択肢を放棄する、悪魔の言葉。
自乗力を奪い、人を騙し、自分をも騙す、ゾンビの合言葉 ……「信心で捉える」
ワタシが非活なのは「常識で捉えて」くれたまえw
ちょっとスッキリしたところで……
クロさん、お母様の骨折の件、え、また? って感はありますが、お酒の他に「骨粗しょう症」もありませんか?ころび方にもよりますが、飲んでなくても躓いただけで折れる人もいますから。
テレビで見ましたが、温州みかんを1日に4個ずつ食べ続けるのが骨粗しょう症の改善・予防に良いらしいです。
みかんを食べる時には
「こつそしょうしょう」 噛まずに言えても よく噛んで
クロさん、場をお借りします。
♪トニーさん、お声がけ有難うございます。
読ませて頂きましたよ。本当に素晴らしい作品ですね。
実は前作も読ませて頂き、感想をコメントしようかとも思ったのですが、理系で文学ド素人のワタシが書評などと言うのはおこがましいと自制してました。最近、物書きの友人から、励みになるからコメント入れてと言われました。なので少しだけ。
前作の『忘れ花火』
ラスト章での巻きが入ったような急展開に戸惑いつつも、推理ドラマ最後の断崖絶壁の解説風でスッキリしましたw
難解な部分はありましたが、このラストシーンこそが京美にとって、それまで花火どころではなかった心持ちが友人たちの取り計らいによって大きく動き、祭典会場の現実感に戻ると同時にキャンプファイヤーで消去された「あの人」が花火の閃光によって「白井さん」に上書きされていくのだろうな、という未来が想像出来ました。
FCですか、懐かしい。13Bのタコ振り切らせてエンブレでバックファイヤー出したことあります。
脇役の車がラブストーリーに登場する人々のオタク度を表していて、ワタシにはとても心地よかったです。
『あの日の二人はもう居ない』
こういうのは特に好きです。告白シーンでは涙が出そうでした。
地の文における基本情報の開示が遅いのと、時系列が混在している部分が少し分かりにくいのですが、読み進めていくと全貌が分かるようになっているので、好みの問題かとは思います。
コスモ家は普通に考えたら優等生が係ってはいけない家庭なのでしょうが、優太の優しさ、純粋さがいいですね。
キーパーソンの一人であるコスモの父親本人が殆ど登場しないにも係らず、その描写は極めてネガティブで、死をもってしても母娘には同情されないこれまでの闇とは何だったのか、酒以外で少し気になるところです。
タイトルもいいですね。過去の自分すらもう居ないと感じ始めているワタシにはグッと来ます。
改段落の♪も ス・テ・キ w
ワタシおっさんなのに恋愛小説が好きなんですよw 特に(爽やかな頃の)村山由佳作品が。
リタイヤしたらワタシも何か書きたいなぁ。
『サルでもできる 地区部長』 とかね。
トニーさん、本気のチャレンジは最後とか言わずにもっと書いてね。
河童さんの豊かな表現力が以前から僕は好きでした。「真冬でも美しい花を掴むチャンス」というリズミカルな文章。「信心で捉えろ」を「常識で捉えろ」にすり替えるウィット。文学的センスがなければ出来ないことだと思います。河童さんの方こそ、リタイアしたらなんて言わずすぐにでもトライしてもらいたいぐらいです。
かくいう僕は数学が苦手です。国語で99点を取ると酔った母に酒瓶で頭を小突かれ、数学で低い点を取ると、これまたやはり酔った勢いで人格を否定するような暴言を言われ、「だったら俺はどうしたらいいんだ」とそれはそれは深く傷ついた少年時代。こういった経験が、四十代になってもまだなお若い感覚を保っていられる原点になっているのかも知れないと、最近突然思うようになりました。思考や視点って、ある日突然変化することがままありますよね。中一の時、母から言われたことがありました。
「親には子どものことなんてみんな分かるのよ、アンタ数学苦手だもんね、全然やってないんでしょ?」
そのときもっとも励んでいたのは、何を隠そう数学でした。頭に来たので「自習用・数学」と書いたノートを床に叩きつけました。「拾ってよく見ろ!」と。学校から帰って来たら、ノートはそのままになってました。それが故に、僕はある時まで、「きっとノートは見てないのだろう」と思っていたのですが、ある日突然、考えがまるきり逆の方向へと変わったのです。「あのストーカー気質の母親がノートを見ていないなんて考えにくい」と。・・・ノートを見たらそこには、今さっきの自分の発言とはまるきり逆の不都合な真実が載っていた。認めたくなくて認めたくなくて仕方がない。よし、ここは一つノートをそのまま放置することで、あたかも見ていないかのように演出しよう。・・・きっと母のはそう考えたに違いない、今ではそう思っています。世間には、「親が子どもに頭を下げる必要はない」と考えている親御さんの存在が少なくない様です。しかしこの母を例に考え、本当の正解を追求し、「考え方を変えてみては?」と世に問いたいのです。
「さっきは悪かった。まさかアンタがあんなに数学をやっていたなんて知らなかった。親には分かるなんて言ってごめん」
ただでさえ生まれつき天邪鬼な上に、年頃で反抗期だった僕も、こう言われたら素直に勉強したことでしょう。頭ごなしに「勉強しなさい」と言う前に、親が勉強するべきなんです。
風の噂に伝え聞いた話によると、母は酒の飲み過ぎでアルコール病棟へ入り死んだそうです。それを聞いても心が一ミリも動きませんでした。「子どもが目の届かないところにいないと何をするか分からない」と、在宅で手書きの原稿をワープロにて活字に書き換えるという仕事をしているのをよいことに昼間から酒を飲み、夜には酔い潰れ、家の仕事は長男の僕任せ。そう、家事と文章を書く能力は母の「英才教育」のおかげなんです。「おいしいコーヒーの淹れ方」に出てくる勝利くん並みの家事&料理の腕前が身につき(村山由佳なんて言われるまで完全に忘れてました。懐かしいですね)、中学に上がる頃には、「家庭科の先生より俺の方が料理が上手い」と豪語できるほどの実力者に相成っていました。
父も父でした。僕が高校受験に失敗し、「本当ならもっといい学校へ行けてたはずなのに行けなかった」のは、父の浮気のせいなんです。またそれが近因的な理由で左腕にもう二度とギターが弾けなくなるような大怪我をしました。あまり詳しいことは書けませんが、当時付き合っていた彼女に自殺されたのも、元を辿れば父の浮気に端があるのです。むろんコスモのモデルになった人物です。けれども、父の口から謝罪の言葉はついぞありませんでした。最期は生活保護をもらいながら肺がんで孤独死。・・・伝え聞いても、やはり一ミリも心が動きませんでした。むしろ相応しい最期だと
思いました。
宮本輝。初期の作品である「錦繍」や「道頓堀川」は素直に面白かったですね。しかし「草原の椅子」はあまりにも酷すぎました。つい最近、それが映画化され、近くのTSUTAYAでレンタルされてるのを見ました。そんなことになっていたなんて夢にも思ってなかったんです。これが前回のようなコメントを書いた理由でした。
中年オヤジどもの、若者に対する説教じみた批判はまだ許せました。しかし、虐待児の面倒を見ていたおばさんの一言が許せませんでした。「こんなけったいな子の面倒見られへん」。その一言に深く傷ついた虐待児のふさぎ込んだときの描写が、まあ胡散臭いこと胡散臭いこと。極めつけは主人公の台詞。「そんなことで傷つく子どもの方が悪い」。非人道的としか言い様のない発言をした主人公が、挙げ句の果てには、虐待児の親代わりになるというなんともご都合主義的なラスト。信心で捉えたら感動的なのかも知れません。しかし常識で捉えたら偽善的なことこの上なし。当時すでに学会に疑問を持ち始めていた僕には、違う意味で刺激が強すぎました。それ以降、宮本輝の本は一冊も読んでいません。
「告白のシーンで泣きそうになった」なんて大げさですよ。原作者としては、コスモのお別れの手紙だけが泣き所のつもりだったので少し恥ずかしかったです。しかし喜んでくれたことは素直に感謝します。
FC乗ってたんですね。僕は中古のRX- 8とFDに試乗したことがあるのみです。8のスイスイ走る感じは好感持てました。またFDのときは、店が環状線沿いだったためけっこうアクセル踏めたんです。狂ったような加速が気持ちよかったですね。シートに座るとボンネットが見えないというのも新感覚でした。ロータリーならでは、低くて薄いんですね。ハンドリングも切れ切れ。メンテナンスの不便さえなければ欲しい一台です。
ところで河童さんに質問です。原作者の勘で気になった点があるんです。「忘れ花火」なんですが、あの後更に書き直して修正しているんですよ。今回の感想を書くにあたり、もしかして書き直された最新のマイナーチェンジ版を再読していませんか?
いずれにせよ、読んで頂いたこと、最後になりますが感謝します。もしかしたらもう少しだけ頑張ってみようと思うかも知れません。感想は確かに励みになりますね。今、バレンタインデーの日のちょっとした失敗を端に起きた、ほろ苦くも可愛らしい男女すれ違いの物語を書いています。「ビタースイート・ラプソディー」というタイトルです。あと二週間くらいかかるかなぁ。短編です。もし良かったらまたお願いします。
長文失礼しました。
iPhoneから送信
学会と文学について、まるで「都市伝説」のような話を思い出しました。
宮本輝が書いた「青が散る」という小説についての、笑い話のような話です。
この小説の中にフォークギターの弾き語りのシーンがあります。まだ活動していた頃、その歌の歌詞に疑問を感じたことがあったんです。
「これは歌詞として成立していない。メロディーに乗せるという前提で書かれていない」と。
演奏の描写それ自体も、音楽の経験がある僕から見ると非常に浅はかでした。また登場する不良少年たちも、世代が違いすぎるせいか、あるいは僕と宮本輝の人種が違いすぎるせいか、まるきりリアリティが感じられず、途中で読む気をなくしてしまったのです。
「青が散る」を貸してくれた壮年部の方には、「ごめんなさい」と正直な感想を申し出て返却しました。「まあでもこれはあくまでも文学であって音楽ではないからな」。その壮年部の方はそう言いました。この言い分は理解できます。しかし理解不能な言い分を口にする婦人部の方がいました。僕の「詩と歌詞は全くの別物だ」という主張に異議を唱えたのです。
「でもミュージャンの誰々(名前は失念しました)の書く歌詞も、字余り字足らずが多いじゃない」と。
「いや、そういう問題じゃないんです」。僕は反論しました。
「知っての通り僕はロックバンドでボーカルと作詞を担当しています。だから分かるんですけど、よほどひどい字余り字足らずじゃない限り、ちゃんとメロディーには乗るんですよ。シンコペーションを利用したり、一つの音符を細かく割ったり、あるいは二つの音符をスラーでつないだり、つまり字余り字足らずなんて要は工夫の問題なんです。
そういうことではなくて、あれはメロディーに乗せるという前提で書かれていないんです。知っての通り今の音楽って、ある程度同じメロディーの繰り返しですよね。メロディーの出てくる順番通りに、それぞれをAメロ、Bメロ、Cメロと呼ぶんです。イントロでいきなりサビが出る場合、C、A、B、と呼ぶ順番が変わったり、似たようなメロディーを繰り返す場合、Aメロ、Aダッシュと呼ぶ場合もあります。それに準じて歌詞もそれぞれのメロディーのブロックごとに区切られ、語呂合わせや文字数にある程度の法則性が生まれるんですよ。でも「青が散る」に出てくる詩には、そういった法則性がまるでない。メロディーに乗せるという前提で書かれていないとはそういう意味なんです」
僕の言っていることの意味が、宮本輝の文学を「信心で捉えている」婦人部の方にはまるで理解できなかったご様子でした。僕の言い分が一通り終わると、この婦人部の方はこう言ったのです。
「でもミュージャンの誰々が書く歌詞にも、字余り字足らずが多いじゃない」
・・・この話、いたってリアルに実話です。信じるか信じないかは、あなた次第。
お久しぶりです。時折覗かせて頂いております。
便りがないのは元気な証拠、ですね。
こちらは私の原点とも言える場所。どうぞ無理のない更新で末永く続けて頂ければ、と思っております。
お陰様で、私も色々と折り合いをつけながら、楽しくやっております。
身内に活動者がいると、スパッと割り切れない心の葛藤を繰り返しながら、思えば随分遠くまで来れた気がします。
少し時間はかかりましたけど。
トニーさん
お久しぶりです。
作品、読ませていただきました。
私、この作品、とても好きです。
文学的な事は解りませんが、凄く自然に心にスーッと入ってきました。
プロローグから、おかしな表現ですが(オッ、小説っぽい)と思ってしまって。
後はどんどん引き込まれていきました。
きっと、トニーさんの経験が活きているのでしょうね。
言い方を変えれば、過去の経験は全てこの作品を書く為のものだった。
それくらい響いてきました。
伝えたいことは、変に飾らなくても伝わるのだとおもいました。
楽器を奏でる方の文章は、なんといいましょうか、リズムがありますね。
とても心地よい響きがあります。
ですが、私、恋愛小説は殆ど読んでないことに気づきました。
本当に参考にならなくてごめんなさい。
恋愛はマンガからです。
恋愛小説ではないですが、ずっと以前、桜庭一樹の「私の男」を読んだ時は衝撃的でした。
ついでに宮本繋がりで、最近ハマったエレファントカシマシの宮本さんが歌ってる「冬の花」
ドラマの最後に流れてたんですが、昭和歌謡のような、懐しさと切なさにキュンときました。
宮本節は炸裂してましたが。
PVでしょうか、フェアレディZですよね、あの顔で走っているのは。
河童さんのユーモア溢れる「サルでもなれる地区部長」
読んでみたいですね。
相棒に、普通じゃやれない地区婦人部長、セコイ、セイコさんはどうでしょう?
クロさん、ありがとうございます。
でも偉そうに弁解すると二乗不作仏って学会員に言われるんですw
こんにちは。
クロさんが過去何度も引用されているマインドコントロール(MC)について少々。
アンチ界隈ではMCと言う言葉が溢れていますが、MC理論って確立してないようですね。
これを皆さん、それぞれの解釈で使うから行き違いが生じるのかも知れません。
考えてみれば世の中、MC的なものに満ちている気がします。教育、宗教、政治、企業理念……
MCの結果、その人や周囲が幸せになることもあれば、その逆もある。良いMCと悪いMCがあって、悪い方のMCを「マインドコントロール」と呼ぶのが一般的ですかね。良いことはそう言わない。
語感が悪いですね。コントロールなんかされてないって、誰しも思いますもん。
MCエセ説からすれば、「非科学的な議論で何を盛り上がっているのか」といったところでしょうが、ではMCは無いのか? と言えば、ワタシは絶対にある、との実感です。
確かに学会内でMCの「技法」をそれとわかるような教育で受けたことも指導したこともありません。
しかし現場では各種会合漬けにされた上、「自分で考えるな、我らこそ正義、疑うと地獄……」みたいなことを再三刷り込まれ、強力な相互監視システムがあれば、自分の居場所をそこに求める人たちにとっては同じ思考、行動になっても不思議ではないです。理不尽なことは「信心で捉える」「その先に真理がある」として目を背ける教義なんです。そこへ入信した以上は取り敢えず従うのが当たり前。嫌なら脱会するのが筋というモンです。文句を言えるのは主にブロック幹部以下。地区幹部以上の正役職者で覚醒してしまうと、そのポジションでは絶対に疑問を口にすることが許されません。しがらみで直ぐに脱会出来ない人達は、心を偽りながら行動することで多くが心を病むのかも知れません。
もう少しMCの研究が進むことを望みますが、言いたいことは、「自分で断れたはずなんだから人のせいにするな」「選択したのは自己責任だ」は、ちょっと違うんです。求道心があるうちは断るなんてもっての外なんです。
再び場をお借りします。
トニーさん、そんな背景があったのですか。
ワタシには想像も及ばないし、きっとズレた共感が精一杯なのだろうと思います。
良いことも悪いことも創作等のエネルギーに変えて行けるのがトニーさんのポテンシャルですね。
ワタシは近年の仕事柄、契約書、業務基準、特許明細書……を扱うことが多く、文学とは正反対の感情の無い無機質な文章に埋もれています。なのでプライベートでは息抜き?に駄文で遊んでます。元々は電子技術系です。
『おいコー』は2ndも読んでます。きもいw
事象を言葉で表す時にチョイスする単語には、書き手と読み手の感性が一致しない限り正確に伝えることが困難な側面がありますよね。業務文書はこれでは困るので曖昧さを徹底排除しますが、文学では逆に読み手の解釈に委ねる余地を与えたものが多いですよね。こんなことを考え出したらワタシなんか筆が1mmも進みませんw
なので素の自分が思いつくままに書く方が楽なので、その程度のレベルなんです。後で 読み返すと冷汗モンですが。
『あの日の二人はもう居ない』の感想文ですが、2年ぐらい前ですか、トニーさんが発表した直後に読んで書いてあったのですが、今回、そこから抜粋するにあたってもう一度サイトに行って本文をざっと読みました。ごめんなさい、何処がどう修正されたのか認識が無いままに書いたので新旧混在しているかも知れません。
あ、FCは友人の古いヤツです。ワタシはDOHC派でした。今でこそ猫も杓子もツインカムですが。
河童さん、セイコさん、ありがとうございます。
クルマもバイクもDOHCなら、まんま趣味が百目鬼京美ですね。僕の小説に登場するヒロインにはいつも凝った名前をつけるのがルーティンワークなのです。もし次回作があるなら、「海桜」で「みお」にしようと思っています、いつになることやら。ホンダが一番輝いていた時代が懐かしいですね。
クロさんから受けた指摘を考慮し、エピソードを付け加えました。曰く、「ただ文通しているだけでなく、直接会って影響を受けているはず。「あの人」のことが好きだった、という部分に感情移入出来ないのが勿体ない。手紙もただ燃やしているだけで、手離すときの感情が描かれていない。もっと具体的に書くべきだ」。河童さんが、「読み直したけどどこが変わっているのか分からない」ということは、それだけクロさんの指摘が真っ当なものだったということでしょう。
「冬の花」のPV見ました。古い日産車はチョット分からないのですが、確かサンマルのエンジンが違うタイプでしょうか。なかなかよい曲ですね。「悲しいから泣くのではなく、生きているから涙が出る」と言った意味の歌詞に共感しました。
自分の経験から生まれた物語ではありますが、ユータのような真面目クンでは決してありませんでした。またこんなにモテたこともありません。小学4・5・6
年の時に、匿名の人物からバレンタインチョコをもらったくらいがせいぜいです。「ナイショだけど好きです」と書いてありました。懐かしいやら甘酸っぱいやら。
「あのふた」を書き上げた二週間後、ツレと二人であの小説に登場する神社、森戸大明神へ参拝して来ました。学会時代なら恐らくあり得なかった中距離ドライブの旅。非常に美しい神社でしたね。すぐ近くの飲食店で聞いたのですが、全国的にも珍しい造りの神社なのだとか。曰く「海に近い神社は、普通海に面して鳥居がある。しかし森戸神社は山に対して鳥居がある」のだとか。ファーストキスのシーンに相応しい、最高のロケーション。比較的お近くにお住まいの方にはぜひ足を伸ばして頂きたい観光スポットですね。
ツレが、「私も小説を書いてみたい。でも行間をどう描いたらよいか分からない」と言っていました。神社での会話です。「行間なんて後から勝手についてくるよ。ファーストキスのシーンだって、ファーストキスとは一言も書いてないんだぜ」と僕は言いました。「ところでいい機会だから今ここでキスをしないか?」と言ったら「嫌だ」と言われました。やれやれ。学会辞めたバチが出ましたね。
ご報告しようかしばらく悩んでいたのですが、やはり、ご報告させて頂こうかと思いこれを書きました。
以前ご紹介させて頂いた拙著「あの日の二人はもう居ない」なんですが、二週間ほど前、とある出版社の方から「読みました」と連絡がありました。
「よく構成されているし、キャラクター同士の会話も自然でテンポがよい。しかしタイトルの時点ですでにもう別れていることを示唆しているのに、この二人の仲つまじさが描かれ切れていない。もっと書きこむことがあるはず。この内容で原稿用紙120枚は少なすぎます」
概ねこの様な内容の指摘を受けました。それに従い、エピソードを増やし、各キャラクターの心理をもう少し深く描き上げ、120枚を170枚にまで増やしました。好きな小説の一つに、中河与一の「天の夕顔」という物語があります。その小説の文字数をざっと計算したところ、約175枚くらいでした。それ故に、「まあ、これぐらいでいいだろう」と目処をつけることにしました。現在、原作者でしか分からないような、日本語の微妙なニュアンスを微調整している最中です。例を挙げるなら、
「二人目は"女の子"が良かった」
↓
「二人目は "妹" が良かった」
といったところです。
これでいきなりプロデビューなんて、まさか世の中そんなに甘くないことぐらい解っています。しかし納得いくまでいじったら、今度はこちらから出版社に連絡をするという約束になっています。
・学会を辞めても不幸にはならない。
・きちんと文学を理解している人間が宮本輝を批判した。
この二点について、すでにもうじゅうぶん証明できたと自負しています。
先のことは分かりませんが、あともう少しだけ、夢を追いかけてみようかと思います。よろしければ是非、準・完成版の「あのふた」をお楽しみ頂けたら幸いです。
https://ncode.syosetu.com/n1740fj/
以上です。