綾瀬市議・上田博之のあやせタウンWebニュース【ブログ版】

神奈川県綾瀬市政の動きを縦軸にしつつ、
横軸は四方八方に広がります。
綾瀬市会議員 上田博之(日本共産党)です。

◆6月議会一般質問で使った資料~南京虐殺の証拠など

2015年06月23日 | 綾瀬市議会あれこれ

●ポツダム宣言で日本は「世界征服の暴挙に出る過ちを犯させた者の権力と勢力は永久に除去されなければならない」となぜ言われたのか?

  世界征服の野望をはっきりと示しているのが日独伊3国軍事同盟です。この同盟は1940年9月に結ばれていますが、その中身は、ヨーロッパとアフリカはドイツとイタリアのもの、東アジアと西太平洋地域は日本のもの、という内容でした。ソ連とアメリカ大陸を除いた地域は3ケ国で分け取りしようという軍事同盟だったのです。まさに「世界征服」をめざしたものだったのです。

 

●1937年12月 南京で皆殺しにされた14777人

 1937年12月、南京攻略戦に参加した第13師団、山田支隊長の日記

12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり。
15日 捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。
16日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の始末その他にて打ち合わせをなさしむ。捕虜の監視、まことに山田大隊大役なり。
17日 (記述なし)
18日 捕虜の始末にて隊は精一杯なり。江岸(注:揚子江の岸)にてこれを視察す。
19日 捕虜の始末のため出発を延期。午前総出にて努力せしむ。

 この日記によると、三日間かけて14777人を皆殺しにしたということがわかります。日本軍の南京攻略は物資の補給を考えずに行ったものでしたので、日本兵の食糧もままならない。捕虜の面倒まで見られないので殺してしまえ、ということだったようです。
 南京を攻略した師団はこの山田隊以外にも5師団もありました。それぞれの師団が同じようなことをしていたら、と思うと恐ろしくなります。

 

●司馬遼太郎が自身の体験を書いた“日本人をひき殺そうとした”日本軍

司馬遼太郎さんの「歴史の中の日本」より

 昭和20年の初夏、私は、満州から移駐してきて、関東平野を守るべく栃木県佐野にいた。当時、数少ない戦車隊として、大本営が虎の子のように大事にしていた戦車第一連隊に所属していた。
ある日、大本営の少佐参謀が来た。おそらく常人として生まれついているのであろうが、陸軍の正規将校なるが故に、20世紀文明のなかで異常人に属していた。
 連隊のある将校が、このひとに質問した。
「我々の連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるだろう、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。
「轢き殺してゆく」

私は、その現場にいた。私も四輌の中戦車の長だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるを得ない立場にあった。(やめた)と思った。そのときは故障さ、と決意し、故障した場所で敵と戦おうと思った。日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか。

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