欲望のまにまに生きているのが人間というものなのだろうか。
ボキだって他人のことを批判できるような聖人君子では無い。無いが、あまりにも社会常識を逸脱している輩には、あきれてしまう。自分がなにをしたいのかということが、明確では無いからだ。オメェはなにをしたいのかと聞いても答えられないのがいるからである。
メチャクチャな人生を送っても仕方ないのであろうか。情けないと思っても、愛欲まみれの人生を送ってしまうのも人生なのか。
だからこそ、そこに宗教が関連する。現実のオノレを見つめて、がっかりするからだ。ある意味、がっかりすることが人生のリセットになるからだ。オノレはどういう人間なのか、悪行三昧で良いのかと思うことが人生の再スタートでもある。
「愛欲の精神史」という本を読んでいた。大ファンの山折哲雄先生である。まだ途中なので感想は書かない。しかし、我々はまさに愛欲まみれで生きてきたのではないのか。
計算もなにもできないから、愛欲まみれになってしまう。浮気、不倫、道ならぬ恋とかは、まさに文学が担ってきたものでもある。
とりわけ、「源氏物語」なんてぇものはそのチャンピオンでもある。しかし、あれは苦学をしていたボキにとっては何の価値も無かった。一番最初の大学学部でゼミにも所属していた。高校までは、あの雅な世界は憧れであったから。
しかし、いざ苦学生活を始めたら、そんなもんは吹っ飛んでしまった。社会は甘くなかったからである。なにしろ新聞を配らないとメシが食えない。学部への通学もできない。ゼミにも行けない。
そこから自分を見つめる作業が始まった。それでドストエフスキーに魅了されたのであった。世界は苦であるとしみじみ思ったからだ。ドストエフスキーは、まさにボキにとっては救済の文学であった。すくなくとも愛欲まみれの世界ではない。
さりとて、愛欲を捨てることもできない。禅では無を説くが、無になることはできない。不可能である。悟りは、ボキにはまったく無縁の世界であるし。
生きているから愛欲まみれの人生を送ってしまうのだろうか。生きているからこそ可能なことなのであろうか。
批判することはたやすい。
ヒトはいつでも、オノレを正当化できるからである。他人はダメで、オノレは優秀。オノレ以外は全部否定。そういうのが多い世界で生きてきたからだ。現役の時の仕事もそう。退職後の世界も研究のまねごとをしていたから、そういう世界であった。
こころ休まることがなかった。
だからこそ、西行や良寛のような生き方に憧れているのである。芭蕉もそうだ。一遍や空也もそうだ。特に一遍。捨て聖である。なんでも捨てることができただろうかという疑問も実はあるのだが。
尾畠春夫氏が登場してきてから、この方の歩き聖のような生き方にかなり影響されている。
人生に安易な生き方というのはないのかも知れない。
しかし、リセットはできる。
人生の再スタートである。
前だけを見て生きていくしかないのかも知れない。
人生はそれの連続であろうから。そしてそれはいつまでも続くのであろうから。
捨て聖のように。
今日は、これから千葉市でのバイト。卒業式。ボキのようなもんでも、参列してよいと言われたので行ってくる。授業では無いので、手当はでない。それでも良し。
人生のスタートを切る若人たちを見送りたい。
人生に幸あれと願うだけである。
BYE-BYE