と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「もう」なのか、「やっと」なのか

2008年08月27日 10時02分47秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 もうすぐ二学期。
 もう夏休みが終わったと思う人と、やっと夏休みが終わった思い切って勉強できるぞと思う人とその差は大きいと思います。

 わたくしも高校時代に運動部をやっていたので余計そうでした。やっと普通の生活が送れると喜んでいました。なにしろ同級生はよく勉強していましたから、家庭学習をさぼったらついていけなくなるという焦りで怖かったのです。運動部をやらない同級生より圧倒的に家庭学習時間が3時間は不足していましたから、それは焦ります。真剣に焦っていました。

 これからの人生、もう20歳になってしまった、もう手遅れだと思うのと、やっと20歳になった、まだまだこれからだと思うのとどちらが進歩するか。晩夏の叙情的な寂しさばかりではなく、意欲的な生き方もしっかり考えてください。ちなみにわたくしはこうやって人に言うくらいですから、まだまだやることがいっぱいあってこれからの人生まことに楽しみであります。まだ内容を言うわけにはいきませんが。

 また、一学期反省材料の多かった在校生諸君も、まだまだこれからですよ。傲慢にならず、絶望せず、自己限定せず、努力していただきたい。一度の失敗でめげることはありませんよ。

 ただし、失敗の原因を分析していただきたいのですけれども。やったらやりっぱなしでは進歩がないのです。少なくともノートをとってみましょうね。わたくしは、リレーショナル・データベースのアクセスというソフトで失敗の事例を集めているくらいです。自分も他人も含めて。並び替えも、検索も可能ですから大変勉強になります。畑山先生という大学の先生が失敗学というジャンルでいろいろ書いているのに刺激されましたから。それに、こうやってデータベースを作っていると実に冷静になることができます。人間観察にも実にいい。世間智を磨くこともできる。


 よく言われることですが、花は根っこがしっかりしていないと咲きません。根っこに十分肥料を与え、水をやり、面倒を見てやることです。それはあなたがた自身の成長にも結びつきます。

 もっとも、「自得の念」というものがなければ、花も育ちません。与えられることばかり考えていると、大きくならない。しかも、他人の責任にしてしまいがちになります。

 自得の念といえば、学生時代北千住の町道場でも柔道の稽古をしました。先生がまた自由自在にやらせてくれました。型にはめようとされなかった。もっとも、われわれの才能に絶望していたのかもしれませんが。教え子という言葉を極端に嫌い、絶対に恩師とか教え子という言葉を使うなと厳命されました。一理あります。「俺は教えたつもりはない、お前たちが勝手に俺から技を盗んでいったのだ」とよく言われました。武道は確かに盗むしかないのです。

 今のこの年齢になってはじめてわかります。そのときの先生の気持ちが。

 1学期の終業式に福沢諭吉の福翁自伝の資料を配布しました。

 あの中に、適塾の緒方洪庵先生が出てきます。医学の大家です。福沢諭吉を育てたくらいの先生ですから、どんなにスパルタをされたのだろうか?と思って調べたことがあります。しかし、緒方先生もまた自学自習を主張されました。自分で勉強せよというわけす。自分の型にはめない教育をされておったのです。何度も何度も勉強してどうしてもわからぬ時だけ、塾頭の福沢諭吉あたりのベテランが先生にお願いして、塾生一同正座して先生に講義を願った。それでやっとわかったと喜んでおったわけです。緒方先生の、人材育成法が見えてきた気がしました。

 二学期にどういう生活を送るか。
 わたくしも含めて、今日は考える日にしましょう。
 しみじみと。
 

 
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/