ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

北畠公園

2012-06-12 05:00:00 | 大阪にて

姫松の交差点を左折して東へと向かい、あべの筋に戻って北へと帰途につきます。途中住吉市民病院が無くなっていて、広い更地になっているのに驚きながら、ゆっくり走って10分ほどで北畠公園にやってきました。12時を相当回っていたので昼食をとりたかったのですが、まぁ我慢して散策します。

             

対面から全体を撮ると、公園と名のつく割には遊具が全く無く、樹が多いのに気が付きます。

             

公園入口には『史跡 北畠公園』と書いた碑が建っており、信号の傍にも北畠顕家云々と書いた碑も建っていて、ここがいくらでもある普通の公園ではないことが窺えます。

             

通りに面して北畠顕家の戦績が由緒として書かれていて、武士ではない公卿の顕家が、弱冠16歳で従二位に叙せられて新田義貞や楠木正成と共に足利尊氏の叛乱を鎮圧する活躍を見せるが、再度の尊氏の反撃に高師直と激戦の末、21歳で堺の石津で戦死したというもの。

             

公園内に入ると矢鱈とハトが多いのが目につきましたが、そんな写真は撮っていません。

                       

北畠顕家卿墓という碑、下には“北畠停留所ヨリ東北三丁”とバカ丁寧に刻んでありました。この場にいる人にはそんな説明は不要なわけで、逆に北畠停留所へは南西約300mと読めばいいのでしょうか。

             

この案内板で分かったのですが、この墓所は大阪府指定の史跡だそうです。絵は住吉名勝図絵、“顕家卿 安倍野合戦の図”と書かれています。

ここに顕家が最後の決戦に臨んだ際に後醍醐天皇への上奏文が簡略した形で紹介されています。目を惹くのは“戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること”“官爵 登用は慎重に行うこと”“貴族 僧侶への恩賞は、働きに応じて与えること”“臨時の行幸や酒宴は控えること”“法令に尊厳を持たせること”“貴族・官女・僧侶のうちに政治に介入して政務を害する者あり 益のないものは退けること”等があり、今で言えば当然のことですが、当時後醍醐が如何に出鱈目な政治をしていたかが窺えます。

             

これはそう伝えられているだけですが北畠顕家の墓です。昨日の摂津名所図会の大名塚がこの北畠顕家の墓にあたると言われています。

                       

“別当鎮守府将軍従二位行権中納言×”“右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓”とあり、残念ながら×のところが読めないし、想像も出来ないのです。

この写真でも僅かに判ると思いますが、誰かが将軍の上に“大”の字を小さく刻んでありました。いたずらではなく本気なのかも知れません。

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