紙の博物館を1時間ほど見学して、目的の中津渓谷に向かいます。いの町から日高村、佐川町から越智町を経て仁淀川町に至るまで1時間程度、ずっと吾妻郡のほぼ仁淀川沿いにある町村です。途中越智町で『安徳帝の里』などと言う大看板が出ていましたが、壇ノ浦の戦いで海の藻屑と消えた幼少天皇が、この地に逃れていたとして、越智町に住む人にとって何の得があるのでしょう。それにしても私は今まで越智町というのは愛媛県にあるとばかり思っていました。愛媛県にあるのは越智郡なのですね、愛媛県に越智郡はあるけど越智町は無い、高知県には越智町が有るというのはややこしいことです。北方謙三の『絶海にあらず』にも伊予の国の豪族として越智一族が描かれていましたし、私より2年前に定年になった、私の後方の席にいた他労組の分会長も同じ名前の人でしたが、他労組の他の人はともかく、私はこの人は個人的には好きでしたね。
3時にはその日の宿泊所となる『ゆの森』という施設に到着、後はこの川沿いに渓谷を散策です。長男は前夜から「明日は高知は雨やで」と言っていましたが、ここでは晴れてはいませんが、雨が降るような気配は感じられません。でも川には雨の降った後のような濁りがありました。
仁淀川の支流になる中津川を遡ります。古座川などと違って大きな石が所狭しとゴロゴロしています。この散策コースには七福神が設置されているとか、そんなものには興味が無いのですが、歩いたからには全部写真に撮っておこうと思ったのです。最初に対岸に毘沙門天がありました。
今度は見つけ良い所に恵比寿様、何だか自然美を楽しみたいのに、こんなものがあると場違いな感じがします。でも無視できないのはどうしてなのでしょう。
岩を上ったり下ったりするのではなく道が付いており、橋や階段なども整備されているので歩き易くはなっています。きっと橋が無ければこれより先には行けなかったんだろうと思います。
こういう渓谷は南紀地方では殆ど見た覚えがありません。百間山渓谷ぐらいなものでしょうか。それでもこれほどごつごつした感じではありません。
所々河原に降りることが出来るポイントもあります。
休憩所の隣にあった福禄寿、これで3体目です。でもこの頃から雨がシトシト降り出しました。
でもみんな帰ろうとはしません。きっとすぐ止むと思っていたのでしょう。こんな狭苦しいところも通らなければなりません。
でもどうやら本降りになってきてしまいました。写真でも確認できるぐらいの雨脚です。七福神を探しているような余裕もありません。引き返してくる人とも狭い道で遭遇することも、でもあまり人は来ていませんから、ごった返すということはありません。
散策路の終点、雨竜の滝です。真っ暗だったので写ってるかどうか判らなかったのですが、何とか写っていたようです。晴れて天気が良ければ、もっときれいだったのでしょう。暗いので逆に神秘的にも見えます。
写真に真っ黒な中に赤い点が写っていたので、何かと思い、明るくしてみたら・・・どうやら布袋さんのようです。
屋根のある休憩所にすれ違った人たちが雨宿りをしていました。私も雨宿りをしようとしたのですが、先に行った孫たちは来た道とは違う方へ歩いていき、すぐに戻ってくるだろうと思っていたのに、戻ってこないので私も同じ方へ歩いて行ったら、そちらにも道がありました。鳥居を潜って行ったのではありません。
すると弁財天の像がありました。見つけられたのは5体のみ。大黒様と寿老人は分かりませんでした。雨が降り出して、ちょっとタイミングが悪かったですね。
宿に戻るともう服は雨水でぐっしょり濡れてしまっていました。4時を回ったところで食事まではなかり時間がありますが、何よりも濡れた服を着替えなければなりません。さっさと温泉に入って体を暖かくし、翌日着るわけではありませんが、濡れた衣服を乾かさねばなりません。
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