白川氏はこういう研究を始めるにあたって考えていたのは、自らが住む日本国を含めた東洋への憧れのようなものだったと私は感じています。
そして中国最古の文学『詩経』と、日本最古の文学『万葉集』の研究を始めたのです。私の頭脳には『詩経』はちょっと高度すぎるようなので、今は読まず嫌いを決め込んでいますが、『初期万葉論』と『後期万葉論』は店頭には無かったので、取り寄せてもらって、その意欲の割には遅々として進まなかったのですが、一応読了しました。
その前に『孔子伝』、梅原猛氏も孔子について「決して高貴な身分の出自ではなく、おそらく卑賤な巫女の子であろう」と語っているように、白川氏もその説を採っています。
孔子と言えば『論語』なのですが、孔子の立場と共に、論語の読訳も書かれているのですが、孔子が意味したものまでは書き添えてなく、もう少し丁寧だったら嬉しかったのにと私は残念がっています。
一応昔の偉い方が書かれた『論語』も読んだのですが、眠たいばかりです。儒教は私には向いていないのだろうと思います。
白川氏の本では孔子は、アウトローであり、革命者であり、失敗者であることが聖者として輝かせたと解釈しています。55歳で祖国の魯から亡命し、諸国を遊歴しますが、なかなか受け入れられなかった。60歳を越えて論語に「邦に道あるときは即ち仕へ、道なきときは、即ち巻きてこれを懐むべし」と記し、この巻懐(けんたい)という熟語を見出しました。巻懐とは、むやみに才能をみせないことだそうです。
この巻懐という概念が儒家や墨家が一時は隆盛し、やがて堕落していくなかで、巻懐者の譜系は思想史的に大きな役割を持つと断言しています。
さて白川氏の万葉論ですが、初期の方は柿本人麻呂の安騎野の冬猟歌を取り上げる事から始まります。
軽皇子安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと
太敷かす 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を
石が根 禁樹(さえき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして
玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎の大野に
旗すすき 小竹をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古念ひて
短歌
阿騎の野に宿る旅人うち靡き 眠も寝らめやも古念ふに
ま草刈る荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し
東の野に炎の 立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ
日並皇子の命の馬めて 御猟立たしし時は来向ふ
この短歌の解釈として、私は斉藤茂吉の解釈を習ったと思います。例えば3首目の茂吉の解釈は「阿騎野に宿った翌朝、日の出前の東の空に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方を振り返ると、もう月が落ちかかっている」という平々凡々たるものですが、白川氏はこの歌が詠まれた状況を軽皇子を立太子させようとする持統天皇の計画のもとであり、軽皇子の天皇霊継承のために安騎野での『旅宿り』を必要として、人麻呂が派遣されたと見ています。
東京天文台による厳密な調査によると、東の空に曙光が輝き始めるときに、丁度西の空に傾く月がある光景は、西暦692年12月31日午前5時50分ごろだろうと調べられています。
つまり軽皇子と人麻呂一行は、わざわざその日を選んで安騎野へ冬猟・・・つまりは前天皇霊を呼び起こすという行為をしに安騎野へ行ったことを人麻呂は詠んでいるのというのです。白川氏の説は歴史のロマンに満ち溢れているなどと言ったら失礼かも知れませんが、こういう風に習うと私のような無骨者でも、万葉集をも興味深いものに感じさせてくれたと思います。
そして中国最古の文学『詩経』と、日本最古の文学『万葉集』の研究を始めたのです。私の頭脳には『詩経』はちょっと高度すぎるようなので、今は読まず嫌いを決め込んでいますが、『初期万葉論』と『後期万葉論』は店頭には無かったので、取り寄せてもらって、その意欲の割には遅々として進まなかったのですが、一応読了しました。
その前に『孔子伝』、梅原猛氏も孔子について「決して高貴な身分の出自ではなく、おそらく卑賤な巫女の子であろう」と語っているように、白川氏もその説を採っています。
孔子と言えば『論語』なのですが、孔子の立場と共に、論語の読訳も書かれているのですが、孔子が意味したものまでは書き添えてなく、もう少し丁寧だったら嬉しかったのにと私は残念がっています。
一応昔の偉い方が書かれた『論語』も読んだのですが、眠たいばかりです。儒教は私には向いていないのだろうと思います。
白川氏の本では孔子は、アウトローであり、革命者であり、失敗者であることが聖者として輝かせたと解釈しています。55歳で祖国の魯から亡命し、諸国を遊歴しますが、なかなか受け入れられなかった。60歳を越えて論語に「邦に道あるときは即ち仕へ、道なきときは、即ち巻きてこれを懐むべし」と記し、この巻懐(けんたい)という熟語を見出しました。巻懐とは、むやみに才能をみせないことだそうです。
この巻懐という概念が儒家や墨家が一時は隆盛し、やがて堕落していくなかで、巻懐者の譜系は思想史的に大きな役割を持つと断言しています。
さて白川氏の万葉論ですが、初期の方は柿本人麻呂の安騎野の冬猟歌を取り上げる事から始まります。
軽皇子安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと
太敷かす 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を
石が根 禁樹(さえき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして
玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎の大野に
旗すすき 小竹をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古念ひて
短歌
阿騎の野に宿る旅人うち靡き 眠も寝らめやも古念ふに
ま草刈る荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し
東の野に炎の 立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ
日並皇子の命の馬めて 御猟立たしし時は来向ふ
この短歌の解釈として、私は斉藤茂吉の解釈を習ったと思います。例えば3首目の茂吉の解釈は「阿騎野に宿った翌朝、日の出前の東の空に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方を振り返ると、もう月が落ちかかっている」という平々凡々たるものですが、白川氏はこの歌が詠まれた状況を軽皇子を立太子させようとする持統天皇の計画のもとであり、軽皇子の天皇霊継承のために安騎野での『旅宿り』を必要として、人麻呂が派遣されたと見ています。
東京天文台による厳密な調査によると、東の空に曙光が輝き始めるときに、丁度西の空に傾く月がある光景は、西暦692年12月31日午前5時50分ごろだろうと調べられています。
つまり軽皇子と人麻呂一行は、わざわざその日を選んで安騎野へ冬猟・・・つまりは前天皇霊を呼び起こすという行為をしに安騎野へ行ったことを人麻呂は詠んでいるのというのです。白川氏の説は歴史のロマンに満ち溢れているなどと言ったら失礼かも知れませんが、こういう風に習うと私のような無骨者でも、万葉集をも興味深いものに感じさせてくれたと思います。
それからせっかく友達申請してくださって≪あしあと≫の仕方も教えてくれましてありがとうございます。
さっそく壁にぶち当たりながら最終画面までいったところどうやら、有料みたいになっていたでしょ?アドバンスの人のみ・・みたいな。
それはできないなぁ~と戻ってまいりました。月料をケチっているのではないのですが、決済がイーバンクとかでしょ、あれはしてはいけませんって・・。すみません、楽しそうなあしあとだったけど・・・
ところで半分以下のコメントを読むと、どうやら何らかのメールがちのとさんに届いたようですね。仕組みがどうなっているのか解らないので、私はチンプンカンプン状態なのです。
<あしあと>の利用はアドバンスの人のみだったのですか。その辺はあまり考えてなかったのですが、ちのとさんもアドバンスを利用されてるのではなかったのですか?写真をあれだけ利用すると、アドバンス利用でなければ綴れないと思うのですが・・・
決済も私はイーバンクなんか利用してませんよ、銀行のキャッシュカードです。
質問:普段から読後の感想を書き残しているんですか?それとも読書のブログの時は読んだ本を横に置き、記事を書くのですか?メチャクチャ記憶力のある人だと感心しています。
そうです、goo事務局だったかな ぼんくらさん
が友達申請しています・・というメールでした
私もよくわからないながらも返事を書いたんですが それが届いたのですね。
この間の写真集みたいな?あれは一ヶ月の無料版だと・・この間もうすぐ期間終了ですってお知らせがきていたけど・・・
gooのお知らせは、書いていることがカタカナばっかりで読む気も失せるのだ!!
自分で言うのもなんですが、記憶力が悪い代わりに、理解力の方が優れていると思っていました。PCで言えばメモリーの容量が大きいのですね。でもその働きも翳りが見えてきたように思います。
読書の感想を綴るときは、本を横に置きます。そして記憶にあるところ、面白かったところは間違いが無いように、再度読んでいます。
goo事務局は何処にメールを送ってくるのですか?自分がgooに登録したアドレスでしょうか?gooメールの方でしょうか?とにかく私にはgoo事務局からのメールは来てないのですよ。
きょうの陰陽師・・・あ、このコメントは陰陽師のところに書かなくてはいけないのでしたね
正しくは gooホーム運営事務局から
≪ぼんくらさんから友達申請が届いています≫というのが、パソコンのメールで届いていました。それには、ぼんくらさんのコメントとプロフィールページのアドレス・・・・turijinというアドレスが載っていました。
なんかよくわかりませんね・・