敏翁のシルバー談義

敏翁の興味のスパンは広いのですが、最近は健康談義から大型TVを含むITと「カラオケ」「珈琲」にシフトしています。

仏教の私的考察(1)明恵上人と捨身

2016-05-18 14:56:04 | 真面目な話
 皆さん
 これはだいぶややこしい話ですが、お暇ならお付き合い願います。

 拙論「仏説東亜戦争」以来、仏教について種々考えを巡らせています。
 論点は、拙論では「捨身」が日本民族に受け入れられた
 根拠として、「捨身飼虎」、「施身聞偈」の仏教説話や空海の若かりし
 時代の話を挙げたのですが、上記二つは「お経」の中のお話しで、空海のも伝説です。
 その為、実際に捨身を試みた実例探していました。
 そして、掲題の「明恵上人」にたどり着いたのです。

 参考資料
  ① 河合隼雄著 「明恵 夢を生きる」講談社α文庫 1995年発行
  ② 久保田淳・山口明穂校注「明恵上人集」岩波文庫 1981年発行
  ③ 奥田勲・平野多恵・前川健一編『明恵上人夢記 訳注』
    勉誠出版発行 2015年発行
 
 右図は、有名な樹上で座禅を組む明恵上人画像で、これはご覧になった事があるでしょう。
 「紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝)
  
 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。
 明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。
 現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。(ウィキペディア)


 明恵の全体像を知るには、我々一般人には①で充分ですが、明恵の人となりや「夢」
 についてより詳細に知りたいと思い、②、③も参照しました。
 何れも横浜市立図書館から借りて、連休中専ら読みふけったものです。
 (他にも数冊あり、それらについて 考察(2)で触れるかも知れない。構想はまだ固まっていませんが)

 ②には、『明恵上人夢記』、『梅尾明恵上人伝記』などが集められています。
 
 『明恵上人夢記』(『夢記』と略記)
 ③の頭書にある明恵の「夢」の研究第一人者である奥田勲による緒言より
 『『明恵上人夢記』は希有の書である。 鎌倉時代の華厳宗の僧、高山寺の開基として知られる
   明恵房高弁(1173~1232) は生涯にわたって、夢を見ることを願い、夢を見続け、夢を記録し、
   夢の示すところを考え続けた。 明恵は、夢を仏の世界からのメッセージと確信していたから、
   夢は選別されることなく、明恵自身がひとつひとつ丁寧に記録した。 それが『明恵上人夢記』
   と呼ばれる一 群の書として残されたのである。
    明恵の入寂時、弟子仁真は夢記を整理し詳細な目録を作成している。 それによれば、十九歳
   から入寂二年前の五十八歳までの「都合四十ヶ年」の自筆の「御夢御日記」が高山寺に残されていた。
   その内容は日記に夢の記事を添える体ではなく、日々の夢の記録にわずかに日常の記事を交えるもの
   で、文字通りりの夢日記であった。まさしく明恵は生涯を夢とともに生きたのである。
   しかし、爾来の長い歳月の間の夢日記の過半は高山寺を離れ、寺外の人々の手に渡ることになった。
   それは、時代を超えて、明恵の筆の跡を愛する人々がいかに広くまた多く存在したかの証明では
   あろうが。(以下略)』
  ②には、高山寺に保管されている『夢記』が、③にはそれ以外の場所に保管されている『夢記』
  が収められています。また③には現存するすべての『夢記』の目録も収められています。

  ①はユングの分析心理学者としても高名な河合隼雄氏がその学識も活用して『夢記』の深層心理学的
  解釈を試みたもので、第一回新潮文芸賞を受賞しています。
  尚、恥ずかしながら小生はユングの分析心理学のジレッタントを自称している者です。

 『梅尾明恵上人伝記』(以下『伝記』と略記)
  ②の解説より
  『明恵の伝記資料としては、弟子喜海の記した『高山寺明恵上人行状』(以下『行状』と略記)
   及びこれを仁和寺理智院の隆澄が漢文に改め、さらに高信が加筆した『高山寺明恵上人行状』
  (漢文行状)が根幹をなし、これらに加えて『明恵上人神現伝記』『高山寺縁起』その他を併せ
   読むことによって、ほぼその大体を知ることが可能である。
   それら諸資料の中で、『梅尾明恵上人伝記 』が資料とては必ずしも信の置きがたい記述を多く
   含んでいることは、田中久夫氏が人物叢書「明恵』の中で詳しく論じられているごとくである。
   それによれば、『伝記』は南北朝以後の禅林における、明恵に対する関心を反映しでいるもののよう
   であり、従って喜海の奥書が存するにもかかわらず、その成立は南北朝頃まで下るであろうと見られる。
   しかしながら、むしろそれゆえに本書は中世における明恵伝説を多く包摂しているものでもある。
   たとえば、西行の研究者がほとんど必ずといってよいほど言及する、 西行が明恵を訪れて和歌に
   ついて物語ったという条も、『行状』の類に見出されないものであり、承久の乱後の北条泰時との関り
   を語る三箇所の記述も同様である。(以下略)』

 本 論
  前置きが長くなりましたが、ここからが本論です。
  以下は①によります。
  十三歳になったとき、明恵は自殺を企図する。 このところを『行状』によってみると、
 「又十三歳ノ時心ニ思ハク、今ハ十三ニナリヌレバ、年スデニ老イタリ、 死ナムズル事モチカヅキヌ、
 何事ヲセムト思フトモイク程イキテ営ムベキニアラズ、同ジグ死ヌベクハ、仏ノ衆生ノ為ニ命ヲステ
 給ヒケムガ如ク、人ノ命ニモカハリ、トラ狼ニモクハレテ死ヌベシト思ヒテ」ただ一人で墓地に行き
 夜の間、そこに横たわっていた。
 当時は墓地といっても、死体をころがしておき、犬などの喰うにまかせる有様だったので、明恵も
 そのようにして犬や狼に喰われて死のうとしたのである。 そこで明恵は一心に仏を念じ死を待つたが、
『行状』によると、「別ノ事ナクテ夜モアケニシカバ、遺恨ナルヤウニ覚エテ還リニキ云々」 とある。
つまり、何のことも起こらず残念に思つで引きあげてきた、というのである。
 これは『伝記』の方の記述になると、少し色づけられていて、
 「夜深けて犬共多く来りて、傍なる死人なんどを食ふ音してからめけども、我をば能々嗅ぎて見て、
 食ひもせずして、犬共帰りぬ。 恐ろしさは限り無し。 此の様を見るに、さては何に身を捨てんと思ふ
 とも、定業ならずば死すまじき事にて有りけりと知りて、其の後は思ひ止まりぬ」と述べられている。

 参考までに『伝記』のこのところの全文を示します。下記をクリックされたい。
 伝記・捨身

『行状』によると、明恵は一度の失敗にも挫けず、再度、墓地に行ったと記されているが、
そこには「弓矢ヲトル輩、ケキタナキ死ニセジト云フガ如ク、我モ又法ノ為ニセバ、雪山童子ノ半偈
ノタメニ身ヲ羅刹ニナゲ、薩埵王子ノ餓虎ヲアハレムデ全身ヲホドコシ、・・・・」とあり、明恵が仏典
に記されてある捨身の例に従って、これを行なおうとしたことが明らかにされている。

明恵は文治四年(1188年)、十六歳のときに上覚上人について東大寺戒壇院で具足戒を受け、出家する。
 『行状』によると、その後もう二度捨身を試みたが果たさなかった。
しかし、あるときの夢に、「狼二疋来リテ傍ニソイイテ我ヲ食セムト思ベル気色アリ、心二思ハク、
 我コノム所ナリ、此ノ身ヲ施セムト思ヒテ汝来リテ食スベシト云フ、狼来リテ食ス、苦痛タヘガタケレドモ、
 我ガナスベキ所ノ所作ナリト思ヒテ是ヲタへ忍ビテ、ミナ食シヲハリヌ、然而シナズト思ヒテ不思議ノ思ヒニ
 住シテ遍身二汗流レテ覚メ了ンヌ」(「狼に喰われる夢」) というのを見る。
 なんとも凄まじい体験である。 二匹の狼に自分が食べられ、苦痛は耐えがたいものがあったが、なすべき
 ことだと思って耐え、全部食べられてしまったのである。

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 以上より、明恵上人は疑いも無く捨身を願って実際に行おうとし、また夢の中では実現(?)しているのです。
 そして、この話は『伝記』の形で中世以降も伝わってきたのです。
 『伝記』は江戸時代にも何回か出版されているほど良く読まれていたようで、これが
 私が探していた「捨身」の実例であり、その話が世の中に受け入れられていた有力な証拠となる
 と思う次第です。




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