戦後70年を迎えたこの夏は、安倍談話など賑やかでしたね。
それに促せられる様に私も及ばずながら最近以下に記すような事を空想しています。
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私は、先の大東亜戦争は日本又は大和民族と言っても良いと思うが、
それが「東亜の解放」を願って行った捨身布施だったと思っている。
どう考えても勝ち目の無い戦争にのめり込んでいった深層心理としては、
そう考えるのが最も妥当の様に思えるのである。
「東亜の解法」の文言は、当時東亜諸民族共通の願望だったのであり、
それは終戦時の玉音放送にも含まれている。
『朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス』
日本に渡ってきた仏教は大乗仏教で、そこで大切とされた「六波羅蜜」の中でも
最も尊重されたのが「檀波羅蜜」で、檀は「布施」である。
尚、波羅蜜とは、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す言葉である。
以下は江口孝夫校注「三宝絵詞」現代思潮社発行(☆) による。
『檀波羅蜜は大乗仏教での修行の大きな特色である。 釈迦時代、つまり原始仏教時代にも
説かれたのであったが、それにつづく部派仏教(小乗仏教)となるとほとんど願みられなく
なってしまった。
ところが大乗仏教が起ると、実践すべきもっとも重要なものと説かれるようになった。
この布施には三種あった。 財施・法施・無畏施の三つである。
財施は金銭・財物などの布施、法施は精神的な教法を施し与えることで、教え説きしめすこと、
無畏施は人びとに安堵感を持たせることである。
この三施のほかに身施があった。 釈迦が修行時代に自分の身を投げ出して他の生命を救ったり、
身体の一 部を割き与えて飢えた者を助けたりすることである。 身施は財力や仏法を持たなくても
できる。また無畏施を施すような力量がなくてもできる。
だからだれにも出来うるものであるが、またもっともむつかしいものでその犠牲的行為は崇高な
ものとされた。』
この釈迦の修業時代(前世)の話で良く知られているのは、法隆寺にある国宝「玉虫逗子」に描かれている
薩埵王子の「捨身飼虎図」(出典は『金光明経』「捨身品」)と雪山童子の「施身聞偈図」(出典は『涅槃経』
「聖行品」)であり、そのいずれの説話も、上記「三宝絵詞」に載っている。
尚、この『仏説大東亜戦争』の詳細版を私(敏翁)のホームページに掲載する予定なので、この二つの説話も
「三宝絵詞」の初めにある「檀波羅蜜」(出典は『智度論』)説話(いずれも現代語訳を含む)と共に収める積りである。
敏翁のホームページ (今月末までには纏めるつもりです)
また、四国八十八ヶ所の内第73番「出釈迦寺」に、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起
がある。
『それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教え
を広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を
捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣
をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。』
今、そこが「出釈迦寺」奥ノ院「捨身ヶ嶽」となっている。
これらの説話、伝説、美術などにより、我が民族の心の奥に温められた大義・真理追及の為には捨身布施も
辞せずとの共同幻想が大東亜戦争に突き進んだ霊的要因と思われるのである。
そして、この捨身行為を宇宙の最高意思である仏は称え、結果として東亜の開放を実現せしめ、また
敗戦に打ちひしがれた日本に、その後の繁栄という幸運を恵み与えたのだと思うのである。
東亜解放については、戦後70年安倍談話に関する有識者会議の報告で、『大東亜戦争が東亜解放に繋がったとの
主張は正確ではない』としているが、これはやむを得ない政治的配慮によるものだと思う。
日本人の心の奥底にある東亜解放への願いがあったればこそ、敗戦後日本兵がベトナムで対仏、インドネシア
で対蘭独立戦争に飛び込んで行き、それ無しでは独立は勝ち得なかったし、この日本兵達の行為も捨身布施
としても良いものだと思う。
以上の私論はそれなりのオリジナリティを持っていると思うが、実はヒントを得たものがある。
佐渡両津の若宮神社にある北一輝と弟・吉の彰徳碑で、これは昭和44年に「北両先生彰徳碑建設会」が
建てたものである。
裏に各々の先生についての碑文が彫って有るのだが、北一輝のは「安岡正篤」の撰文である。
その大意は、
『佐渡はかってから幾多の革命的人物が流謫されているが、特に順徳上皇と日蓮上人 の英魂が先生の心霊に
強く力を及ぼした。
そして、天皇と法華経により天地震裂し、無量の菩薩や優れた衆生が現れる革命を期して殺身供養したと察
することが出来る。』
この文は、短い文章の中に北一輝の本質と佐渡との関わりを簡潔に表現仕切っていると思えるものだが、
これが上述の私論構築にヒントを与えたのである。
私の北一輝探訪記は、下記でご覧頂ける。
佐渡編
東京編
最後に、以上の私論は、集団の捨身という概念が仏教教理上成立するかという問題を含んでいるのだが、
私のこの方面の学識には至らぬ点が多すぎ整合性のある論理構築の見通しは全く立っていない。
☆:源為憲撰 江口孝夫校注 三宝絵詞 上・下 現代思潮社 1982
三宝絵詞(さんぼうえことば)は、平安中期の仏教説話集。
円融天皇の永観2年(984年)11月に成立。二品尊子内親王(966年 - 985年)のために学者源為憲
(? - 1011年)が撰進。
それに促せられる様に私も及ばずながら最近以下に記すような事を空想しています。
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私は、先の大東亜戦争は日本又は大和民族と言っても良いと思うが、
それが「東亜の解放」を願って行った捨身布施だったと思っている。
どう考えても勝ち目の無い戦争にのめり込んでいった深層心理としては、
そう考えるのが最も妥当の様に思えるのである。
「東亜の解法」の文言は、当時東亜諸民族共通の願望だったのであり、
それは終戦時の玉音放送にも含まれている。
『朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス』
日本に渡ってきた仏教は大乗仏教で、そこで大切とされた「六波羅蜜」の中でも
最も尊重されたのが「檀波羅蜜」で、檀は「布施」である。
尚、波羅蜜とは、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す言葉である。
以下は江口孝夫校注「三宝絵詞」現代思潮社発行(☆) による。
『檀波羅蜜は大乗仏教での修行の大きな特色である。 釈迦時代、つまり原始仏教時代にも
説かれたのであったが、それにつづく部派仏教(小乗仏教)となるとほとんど願みられなく
なってしまった。
ところが大乗仏教が起ると、実践すべきもっとも重要なものと説かれるようになった。
この布施には三種あった。 財施・法施・無畏施の三つである。
財施は金銭・財物などの布施、法施は精神的な教法を施し与えることで、教え説きしめすこと、
無畏施は人びとに安堵感を持たせることである。
この三施のほかに身施があった。 釈迦が修行時代に自分の身を投げ出して他の生命を救ったり、
身体の一 部を割き与えて飢えた者を助けたりすることである。 身施は財力や仏法を持たなくても
できる。また無畏施を施すような力量がなくてもできる。
だからだれにも出来うるものであるが、またもっともむつかしいものでその犠牲的行為は崇高な
ものとされた。』
この釈迦の修業時代(前世)の話で良く知られているのは、法隆寺にある国宝「玉虫逗子」に描かれている
薩埵王子の「捨身飼虎図」(出典は『金光明経』「捨身品」)と雪山童子の「施身聞偈図」(出典は『涅槃経』
「聖行品」)であり、そのいずれの説話も、上記「三宝絵詞」に載っている。
尚、この『仏説大東亜戦争』の詳細版を私(敏翁)のホームページに掲載する予定なので、この二つの説話も
「三宝絵詞」の初めにある「檀波羅蜜」(出典は『智度論』)説話(いずれも現代語訳を含む)と共に収める積りである。
敏翁のホームページ (今月末までには纏めるつもりです)
また、四国八十八ヶ所の内第73番「出釈迦寺」に、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起
がある。
『それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教え
を広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を
捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣
をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。』
今、そこが「出釈迦寺」奥ノ院「捨身ヶ嶽」となっている。
これらの説話、伝説、美術などにより、我が民族の心の奥に温められた大義・真理追及の為には捨身布施も
辞せずとの共同幻想が大東亜戦争に突き進んだ霊的要因と思われるのである。
そして、この捨身行為を宇宙の最高意思である仏は称え、結果として東亜の開放を実現せしめ、また
敗戦に打ちひしがれた日本に、その後の繁栄という幸運を恵み与えたのだと思うのである。
東亜解放については、戦後70年安倍談話に関する有識者会議の報告で、『大東亜戦争が東亜解放に繋がったとの
主張は正確ではない』としているが、これはやむを得ない政治的配慮によるものだと思う。
日本人の心の奥底にある東亜解放への願いがあったればこそ、敗戦後日本兵がベトナムで対仏、インドネシア
で対蘭独立戦争に飛び込んで行き、それ無しでは独立は勝ち得なかったし、この日本兵達の行為も捨身布施
としても良いものだと思う。
以上の私論はそれなりのオリジナリティを持っていると思うが、実はヒントを得たものがある。
佐渡両津の若宮神社にある北一輝と弟・吉の彰徳碑で、これは昭和44年に「北両先生彰徳碑建設会」が
建てたものである。
裏に各々の先生についての碑文が彫って有るのだが、北一輝のは「安岡正篤」の撰文である。
その大意は、
『佐渡はかってから幾多の革命的人物が流謫されているが、特に順徳上皇と日蓮上人 の英魂が先生の心霊に
強く力を及ぼした。
そして、天皇と法華経により天地震裂し、無量の菩薩や優れた衆生が現れる革命を期して殺身供養したと察
することが出来る。』
この文は、短い文章の中に北一輝の本質と佐渡との関わりを簡潔に表現仕切っていると思えるものだが、
これが上述の私論構築にヒントを与えたのである。
私の北一輝探訪記は、下記でご覧頂ける。
佐渡編
東京編
最後に、以上の私論は、集団の捨身という概念が仏教教理上成立するかという問題を含んでいるのだが、
私のこの方面の学識には至らぬ点が多すぎ整合性のある論理構築の見通しは全く立っていない。
☆:源為憲撰 江口孝夫校注 三宝絵詞 上・下 現代思潮社 1982
三宝絵詞(さんぼうえことば)は、平安中期の仏教説話集。
円融天皇の永観2年(984年)11月に成立。二品尊子内親王(966年 - 985年)のために学者源為憲
(? - 1011年)が撰進。