敏翁のシルバー談義

敏翁の興味のスパンは広いのですが、最近は健康談義から大型TVを含むITと「カラオケ」「珈琲」にシフトしています。

仏教の私的考察(2)明恵上人と北条泰時

2016-05-26 19:39:54 | 真面目な話
皆さん
 またややこしい話が続きますが、お暇ならお付き合い願います。

 前報で『梅尾明恵上人伝記』(以下『伝記』と略記)が中世から江戸時代まで
 伝わってきた事を記したが、その理由について更に考えてみた。
 明恵の生まれた年(1173)には親鸞も生まれている。
 現代の思想家により、親鸞は高く評価されているが、明恵は忘れ去られた感がある。
 しかし、江戸時代までは明恵も高く評価されていたようである。
 それは、江戸時代まで生活の規範とされてきた、北条泰時によって制定された
 『御成敗式目』(貞永式目)の基本思想が明恵の考えに強く影響を受けていて
 それが、『伝記』に記されていたからである。
 因みに式目が発布されたのは明恵が没した1232年(貞永元年)である。

 以下、下記の参考資料に基づいて話を進めたい。
 
 参考資料(番号は考察(1)からの通し番号)
 ② 久保田淳・山口明穂校注「明恵上人集」岩波文庫 1981年発行
 ④ 白洲正子著『明恵上人』愛蔵版 新潮社 1999年発行
    原典は『栂尾高山寺 明恵上人』講談社 1967
 ⑤ 山本七平著『日本人を動かす原理 日本的革命の哲学』
    PHP研究所 1982年発行
 ⑥ 平泉洸 全訳注『明恵上人伝記』講談社学術文庫 1980年発行
 ⑦ 高山寺典籍文書総合調査団編『明恵上人資料第一』
    東京大学出版会 1971年発行

  著者について蛇足を加えるとすると、山本七平氏は「空気の研究」で有名、
  白洲正子女史は白洲次郎氏の夫人、平泉洸(あきら)氏の父は戦前「平泉皇国史観」で
  一世を風靡した平泉澄(きよし)氏である。

 この事情の戦後の再発見ともいえる著作は④の原典で有ろうと思うが、
 より精密に論証したのは⑤である。
 ⑤によると、江戸時代「式目」の出版は極めて多様性に富み、「ルビつき」、絵入りなど多彩であつた。
 これは、式目が庶民教育の教科書として極めて重要な位置を占めていた事を示していた事を示している。
 そして、それに伴って泰時と明恵の関係が重要視され、『伝記』も好まれて読まれていったものと考えられる。
 『伝記』は⑦、②でも読めるが、以下全文現代語訳の⑥により、少し長いが泰時の明恵観を記す事にしたい。
 『秋田城介景盛から聞いたところであるが、北条泰時が いつも人にあって語られるには、
 「自分は不出来な人間でありながら、辞退せずして執権となり、政務を執って天下を治めることの
  できたのは、もっばら明惠上人のお蔭である。 なぜかといえば承久の大騒擾の後、京都にいた時は
  いつも上人にお目にかかった。 ある時、仏法のお話のついでに、『どのような手段で天下を治め
  たらよいか』とお尋ね申したところ、上人が仰せられるには、
  『七転八倒して苦しみぬいている病人でも、名医はその患者を見てこれは寒が原因である、
  この病人は熱が原因であると、それぞれその病気のおこった根本を知つて、薬を与え、灸を据えれば、
  たちまち冷熱去って病気が全快するように、国家が乱れて平穏でないのは、何が原因かとまず根本の
  原因をつきとめなくてはならぬ。
  そうでなくその場その場にぶつかって賞罰を与えるのでは、ますます人の心ねじけて世の中騒がしく
  なるだけで、恥を知るということもなく、前を治めれば後が乱れ、内を穏かにしたかと思えば外から
  恨むといった具合、これはちょうど藪医者が寒熱の原因をつきとめもせずに、その場で病人の痛がる
  所に灸を据え、患者の希望どおりにやたらに薬を与えるようなものである。
  真心を尽くして患者を治療するとはいうものの、病気発生の原因を知らないために、根本からの治療が
  なされず、かえっていよいよ病気は重くなって直らないようなものである。
  世の中の乱れの根本原因は、何から起るかとぃえば、ただ欲が原因である。 この欲がすべて禍となり、
  天下の大病となるので、これを治療したいというのであれば、まず第一にこの欲をなくするがよい。
  そうすれば、天下はおのずと泰平となりましょう』と言われた。
  泰時が申すには、『このお教えは大切でありますから、私自身は全力を尽くしてこのお教えを守りま
  しょう。しかし他人がこのお教えを守るとなるとなかなかむつかしいかと存じますが、どのようにしたら
  よろしいでしょうか」。
  上人が答えられるには、『それは容易でしょう。 ただ為政者としての貴方お一人の心次第でしょう。』
  (以下略)
 
  では人は無欲で無為であればよいのか。明恵上人は決して無為を説かなかった。
  『伝記』より抽出して下記をご覧頂きたい。
あるべきようは

 また、当時承久の変の戦後処理で六波羅探題だった北条泰時と明恵上人の出会いは、『伝記』の
  ハイライトと言うべきところだが、これも『伝記』より抽出した下記をご覧頂きたい。
出会い

  以上二つのpdfファイルは何れも⑤より作成したものである。
これらのpdfファイルは、"CTRL"+"SHIFT"+"-"を同時に押すことになり、90度回転して見易く
  なる筈なので試されたし。

  尚、「御成敗式目」については、⑤に明恵の考えとの関係を含めて詳細に説かれているが、
  「御成敗式目」の現代語訳はウェブでも読むことができる。 「御成敗式目」で検索されたし。
  
  『伝記』の内、泰時 明恵関係は⑤より抽出の二つのファイルの様にルビ付きで読むことが出来るが、
  『伝記』全体は、⑥で総ルビ付き、及び現代語訳(一部は上記に示した)で読むことができるので
  ご希望の向きにはお勧めしたい。
  ここでは参考のために、両者出会いの場面を「総ルビ付き」と「現代語訳」でご覧に入れる事にしたい。

出会い総ルビ付き
出会い現代語訳

   尚、横浜市立図書館に⑦の存在を知り、現在借用中であるが、これは翻刻版で、私の学力では
   読み切れない。参考までに上記出会いの初めのところの翻刻版をご覧に入れたい。
出会い翻刻版


   付け加えると、⑦には、『高山寺明恵上人行状』も入っているがこれは更に漢文調(1/3は完全な漢文)
   で読み切れず、もう少し読み易いものを探したが、これは世の中に存在しないようである。
   (そこまでのニーズは無いという事か)
  ---------------------------------------------------
  要 約
  1.江戸時代には、庶民の生活の規範として『御成敗式目』が広く読まれていた。
  2.これを纏めた北条泰時が尊敬していて、思想的にも大きな影響を受けた明恵上人の
    物語(『伝記』)も庶民に共感されていた。
  3.この明恵上人は「捨身」の願望が強く、実行しかけたこともあった。(考察(1)参照)
  4.以上より、庶民までも親鸞の教えは、念仏を唱えれば極楽往生という易行であり誠に有難いが、
    難行ではあるが、利他を第一とする明恵の教えこそ真の仏教ではなかろうかとの思いが心の底に
    生き続けてきたように思われる。

    これが、日本民族の心の深層に「捨身」の教えが生き続けてきた大きな要因ではなかろうか。
    
                           以上


 





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1 コメント

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ひふみよ (明恵上人生誕地)
2022-01-10 18:24:55
≪…欲をなくするがよい…≫で、真四角を泰平と眺望できるのは自然比矩形と黄金比矩形の関係から。
 
 真四角の泰平すがた成り立ちに
         (絵本「もろはのつるぎ」)
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