【白土三平論】四方田犬彦 作品社
昭和30年代の頃だった。それぞれの町に一軒の貸し本屋ができた。その多くは駄菓子屋であったりそれを改良した家であったような気がする。 漫画、劇画がズラリと並んで、小銭で借りることができた。ちょうど、紙芝居時代が終わり街頭テレビがそれに替わって人気になっていた頃だった。 何回か忍者武芸帳を借りた記憶がある。それが白土三平との出会いだった。 [ 「カムイ伝」を愛読していて、この構想のスケールの大きさ、叙事詩のような自然の描き方と人々との営みに圧倒された。 こうしたものを生んだ白土漫画の原風土とはなんなのだろう。
それを知りたくてこの本を読んだ。
●本名は渡辺崋山にあやかって
1932年、2月15日かくて天才は生まれた。 白土三平の本名は岡本登。絵師でもあった渡辺崋山の名前は渡辺登。
この「登」という名前にあやかって、長男の 名前としたのが画家であった父親の岡本唐貴。
登が生まれた年の夏、父は日本プロレタリア文化連盟(コップ)のことで検挙され入獄。
この昭和7年という同じ年に私の叔父も赤旗の全国配布責任者としてやはり逮捕投獄された。
白土にとって、唐貴という父の存在、その影響力が滋養分になっている。
武芸帳の無風道人や影丸などにその父の匂いがするようだ。
●十二歳 信州信濃の山村に
昭和十九年。
岡本一家は長野県真田村横尾に疎開。
この夏、白土は十二歳。
真田は真田幸村の郷で、猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者話もきわめて間近にある。
山村の暮らしの中で差別集落のあれこれも見聞きした。
● 拍子木に呼ばれ 水飴をなめて絵に魅入り
昭和30年代、紙芝居自転車は子どもたちの人気の的だった。
そのなかに私もいた。
割り箸に水飴を塗ったものを買い、それをしゃぶりながら木枠の絵物語にみんなが熱中した。
白土は十六歳から紙芝居の作画に関わっていく。
この世界から貸本漫画を経て人気になった人に水木しげるや小島剛夕もいる。
● 殺された首は不適に笑ってた
本能寺の変の時代に設定した「忍者武芸帳 影丸伝」を町の貸本屋から借りて読んだことがある。
信長の検分にあった首が不適に笑うことも驚かされたが、続編ではその影丸が首に縫い目を残しながら生きて登場したのにはさらに驚いた。
「死ねばその後を継ぐものが必ず出る」がテーマになっていたそうだが、この本、年中借りて読み続けたわけではなかった。
ただ忍者軍団と一揆や野鼠の異常発生などの自然の猛威も描かれた劇画集として眼を見張った覚えがある。
漫画では「ポスト君」「イガグリくん」「赤胴 鈴之助」などが人気だったが、柔らかな線が多い漫画と違って劇画の骨太な烈しい作画は強烈だった。
この武芸帳は60年代はじめにかけてあしかけ3年間、全十六巻、3797頁の長編となったそうだ。
●マッコリを酌み交わしての仲であり
父親の唐貴と作家の村山知義とは心を許しあえる飲み友達であった。
朝鮮の酒を酌み交わす話の傍に少年白土もいたはずだ。
あれこれの薀蓄話に耳を澄ましていたかもしれない。
村山は後に「忍びの者」を書いたがこれがのちの忍者ブームに火をつけた。忍者武芸帳の直前の頃だったらしい。
よけいなことだが、この村山さんはどの時代にも酒豪であったようだ。
「森繁自伝」 森繁久弥 (中公文庫)によれば
「演出家村山知義も新京にいたが、別に私たちを手伝う気もなく、たまにわが家に来ていては、わが家のなけなしの酒にただれて、文化座の佐々木隆氏と朝まで口論に余念がなかったが、明日を語る話でもなく、くだらない演出、演技の抽象論であったことを記憶している。」
異国の新京で終戦を迎えた森繁自伝の記録だ。
● 家康の出自の謎も大テーマ
「カムイ伝」は、見ごたえが十分にあった作品だった。
日置藩、花巻村、夙谷という舞台に武士、農民、がそれぞれに絡み合いながらドラマは進む。
大自然を背景にしながら、被差別社会の根底に徳川家康の出自の謎も絡む。
家康「ささら者」の伝承伝聞を真っ先に劇画の世界に取り入れたのも「カムイ伝」であった。
あの風鳴りの谷。
手風とカムイの忍びの者の秘術をつくしながらの闘いの中で見てはならない家康出自の謎を見た。
そして、二人は抜け忍とならざるを得ない。
この場面を見たとき、ああ、これはあの本にもという連想が生まれた。
あの本とは南條範夫「三百年のベール―異伝 徳川家康」。
南條の本は、静岡県庁吏だった村岡素一郎が独自に調べた「史疑徳川家康事蹟」を下敷きにしているが、実に面白い本だった。
「史疑」は明治35年(1902年)4月、徳富蘇峰がやっていた民友社から500部が出版されたが、重版されず各方面から圧力もあり絶版となったそうだ。
● 「カムイ」以後 街に一揆もなくなった
「カムイ伝」のすべてを読んだわけではない。
ただ魅力のあるキャラは多かった。
とくに一揆の指導者苔丸や農民との離間を謀る子頭の横目、カムイの師匠赤目、夢屋、大男ゴンら。
「カムイ伝を読んだ?」「読んだ」で通じ解りあえるのがわれわれの世代でもあった。
後に酒友となったIは浦和支局県政キャップだった頃の机に「カムイ伝」がずらっと並べていたそうだ。
「カムイ伝」一部は71年に完結したが、「あしたのジョー」「巨人の星」 「空手地獄編」などの漫画や着流し仁侠映画もこの頃、一斉に姿を消した。
街角から学生のデモや、うたごえ喫茶、シュプレヒコールが聞こえなくなり、階級という言葉も消え、コミックは「同棲時代」(上村一夫)などのけだるさをともなったものが現れた。
公麿ではないが、あれから40年。
いま空前の経済危機に立ち向かう軍団も、反抗の一揆も街にも政治の場にもない。
大変な時代なのに社会はなぜか騒然としない。
逃散はあっても連帯の一揆はない。
「この歳月、私たちは何を手にし何をなくしたのだろう」(2009年 3月17日 「編集手帳」から)のことばを想う。
昭和30年代の頃だった。それぞれの町に一軒の貸し本屋ができた。その多くは駄菓子屋であったりそれを改良した家であったような気がする。 漫画、劇画がズラリと並んで、小銭で借りることができた。ちょうど、紙芝居時代が終わり街頭テレビがそれに替わって人気になっていた頃だった。 何回か忍者武芸帳を借りた記憶がある。それが白土三平との出会いだった。 [ 「カムイ伝」を愛読していて、この構想のスケールの大きさ、叙事詩のような自然の描き方と人々との営みに圧倒された。 こうしたものを生んだ白土漫画の原風土とはなんなのだろう。
それを知りたくてこの本を読んだ。
●本名は渡辺崋山にあやかって
1932年、2月15日かくて天才は生まれた。 白土三平の本名は岡本登。絵師でもあった渡辺崋山の名前は渡辺登。
この「登」という名前にあやかって、長男の 名前としたのが画家であった父親の岡本唐貴。
登が生まれた年の夏、父は日本プロレタリア文化連盟(コップ)のことで検挙され入獄。
この昭和7年という同じ年に私の叔父も赤旗の全国配布責任者としてやはり逮捕投獄された。
白土にとって、唐貴という父の存在、その影響力が滋養分になっている。
武芸帳の無風道人や影丸などにその父の匂いがするようだ。
●十二歳 信州信濃の山村に
昭和十九年。
岡本一家は長野県真田村横尾に疎開。
この夏、白土は十二歳。
真田は真田幸村の郷で、猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者話もきわめて間近にある。
山村の暮らしの中で差別集落のあれこれも見聞きした。
● 拍子木に呼ばれ 水飴をなめて絵に魅入り
昭和30年代、紙芝居自転車は子どもたちの人気の的だった。
そのなかに私もいた。
割り箸に水飴を塗ったものを買い、それをしゃぶりながら木枠の絵物語にみんなが熱中した。
白土は十六歳から紙芝居の作画に関わっていく。
この世界から貸本漫画を経て人気になった人に水木しげるや小島剛夕もいる。
● 殺された首は不適に笑ってた
本能寺の変の時代に設定した「忍者武芸帳 影丸伝」を町の貸本屋から借りて読んだことがある。
信長の検分にあった首が不適に笑うことも驚かされたが、続編ではその影丸が首に縫い目を残しながら生きて登場したのにはさらに驚いた。
「死ねばその後を継ぐものが必ず出る」がテーマになっていたそうだが、この本、年中借りて読み続けたわけではなかった。
ただ忍者軍団と一揆や野鼠の異常発生などの自然の猛威も描かれた劇画集として眼を見張った覚えがある。
漫画では「ポスト君」「イガグリくん」「赤胴 鈴之助」などが人気だったが、柔らかな線が多い漫画と違って劇画の骨太な烈しい作画は強烈だった。
この武芸帳は60年代はじめにかけてあしかけ3年間、全十六巻、3797頁の長編となったそうだ。
●マッコリを酌み交わしての仲であり
父親の唐貴と作家の村山知義とは心を許しあえる飲み友達であった。
朝鮮の酒を酌み交わす話の傍に少年白土もいたはずだ。
あれこれの薀蓄話に耳を澄ましていたかもしれない。
村山は後に「忍びの者」を書いたがこれがのちの忍者ブームに火をつけた。忍者武芸帳の直前の頃だったらしい。
よけいなことだが、この村山さんはどの時代にも酒豪であったようだ。
「森繁自伝」 森繁久弥 (中公文庫)によれば
「演出家村山知義も新京にいたが、別に私たちを手伝う気もなく、たまにわが家に来ていては、わが家のなけなしの酒にただれて、文化座の佐々木隆氏と朝まで口論に余念がなかったが、明日を語る話でもなく、くだらない演出、演技の抽象論であったことを記憶している。」
異国の新京で終戦を迎えた森繁自伝の記録だ。
● 家康の出自の謎も大テーマ
「カムイ伝」は、見ごたえが十分にあった作品だった。
日置藩、花巻村、夙谷という舞台に武士、農民、がそれぞれに絡み合いながらドラマは進む。
大自然を背景にしながら、被差別社会の根底に徳川家康の出自の謎も絡む。
家康「ささら者」の伝承伝聞を真っ先に劇画の世界に取り入れたのも「カムイ伝」であった。
あの風鳴りの谷。
手風とカムイの忍びの者の秘術をつくしながらの闘いの中で見てはならない家康出自の謎を見た。
そして、二人は抜け忍とならざるを得ない。
この場面を見たとき、ああ、これはあの本にもという連想が生まれた。
あの本とは南條範夫「三百年のベール―異伝 徳川家康」。
南條の本は、静岡県庁吏だった村岡素一郎が独自に調べた「史疑徳川家康事蹟」を下敷きにしているが、実に面白い本だった。
「史疑」は明治35年(1902年)4月、徳富蘇峰がやっていた民友社から500部が出版されたが、重版されず各方面から圧力もあり絶版となったそうだ。
● 「カムイ」以後 街に一揆もなくなった
「カムイ伝」のすべてを読んだわけではない。
ただ魅力のあるキャラは多かった。
とくに一揆の指導者苔丸や農民との離間を謀る子頭の横目、カムイの師匠赤目、夢屋、大男ゴンら。
「カムイ伝を読んだ?」「読んだ」で通じ解りあえるのがわれわれの世代でもあった。
後に酒友となったIは浦和支局県政キャップだった頃の机に「カムイ伝」がずらっと並べていたそうだ。
「カムイ伝」一部は71年に完結したが、「あしたのジョー」「巨人の星」 「空手地獄編」などの漫画や着流し仁侠映画もこの頃、一斉に姿を消した。
街角から学生のデモや、うたごえ喫茶、シュプレヒコールが聞こえなくなり、階級という言葉も消え、コミックは「同棲時代」(上村一夫)などのけだるさをともなったものが現れた。
公麿ではないが、あれから40年。
いま空前の経済危機に立ち向かう軍団も、反抗の一揆も街にも政治の場にもない。
大変な時代なのに社会はなぜか騒然としない。
逃散はあっても連帯の一揆はない。
「この歳月、私たちは何を手にし何をなくしたのだろう」(2009年 3月17日 「編集手帳」から)のことばを想う。
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