ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後のひとりごと〕【我、拗ね者として生涯を閉ず】本田 靖春 講談社

2006年07月04日 | 2006 読後のひとりごと
【我、拗ね者として生涯を閉ず】本田 靖春 講談社

 銀座時代の編集局では政治、経済部などは20人の届くかどうかの部であったのに、社会部は80人の大所帯。
社会部は本田記者も書いているように読売だけに「労働班」というのがあり、ここが派閥といえばいえなくもないとする部の拠点だった。

本田記者が退職するまでの新聞制作は活字組の紙型鉛版方式だった。
制作局も人海戦術で仕事をこなし、輪転や発送職場などは400人を超す大所帯だった。
正力社主ー務台社長とトップが交代しても運命共同体とされた企業内労働組合のヘゲモニーはこの社会部、地方部、印刷、発送という大職場から選ばれた人が握っていた。  
社会部では労働班に属していたり、属した経験者の多くが組合の委員長か書記長となっていてこの伝統はいまも続いているのかも知れない。  

 ジッタンは1960年代の後期はこの制作職場にいて、組合の青年婦人部部長を2期勤めたことがある。
社員が即組合員となるユニオンショップ制度で4000人超の組合員のなかの27歳までの世代は4分の1を占めた。
女性組合員といっしょに1000人の若い層が青年婦人部を構成していたわけだ。
親組合とは別に独自の大会を1日設け代議員の選挙によって若き執行部が選出される。
当時の青年労働者の置かれていた状況は工務局という現業ににあっては3連続の深夜勤務、重労働、劣悪な労働環境、低賃金とかなりきびしいものであった。
70年安保問題も時代の背景にあった。
ジッタンも青年労働者代表としての気負いもあって執行委員会では遠慮なく左派としての赤い気炎を開陳申し上げていた。  
だが、組合の場をおりて職場に戻っても、なぜか社会部の先輩たちとはその後30年有余年のつきあいが続いて、飲んだり、食べたりで今日まで懇意にさせていただいた。
 特に元社会部長のNさんにはあーちゃん(ジッタンの妻)が大病手術をした際、要職にあったにもかかわらず、病院の手配などを心配していただきたいへんにお世話になった。
ともに定年になったいまでも数人の仲間とお宅にお邪魔し、カラオケと酒でワイワイとやらせてもらっている。  
また本書のなかで出ている名コラムニストの細川、村尾さんのあとをついだNさんにも私淑を受けた。
執行委員会で1年間同席だったNさんはジッタンが青年部長の任を果たし職場に戻るとき記念本を用意してくれた。
池田弥三郎監修「性風俗史」全3巻で、総括編、生活編、社会編となっていた。日本風俗史の別巻3冊で出版社は雄山閣。学術的な希覯豪華本ではあったが、日々青年部長が読んでいた左翼本とは毛色の違っていた世界のため驚いた。
「たまには頭を冷やせ。左右の本もよかろうが、色ものの世界もアルノダゾ」という意味がこめられていたのだろうか。
Nさんの人柄があたたかく感じられた粋な計らいだった。
この本は大切に書棚中央にも鎮座している。
Nさんは、いまではおいそれとは近づきにくい雲上の最高幹部のポジションにある。  
ジッタンは1984年編集局に移るまで制作職場での組合畑が長かったから、政治部の記者とも社外でつきあうこともあった。
官邸詰めの記者が組合畑をやることが多かったからか、必ず”図式”があって、まず首相官邸に呼び出され、あの中を個人的に案内されてから、記者のいきつけのバー的なところで一杯飲むのだが、なにか権力を誇示された、こけ脅し的なやり方がどうも好きにはなれなかった。
社会部の人は、その点、ガード下の居酒屋でも意に介さず、酒があれば場はどうでもという人が多かったように思う。
社を離れても今でも懇意にさせていただいている人が多い。
それだけに、あの銀座旧社屋の中にあった朝日毎日に追いつけ、追い越せの各職場の熱気とインクの匂いは、いまでも懐かしい。

  本田記者が退社要因となったYランドの問題がある。
だが、まがりなりにも正力コーナーなどの問題をとりあげていたのは労働組合だった。
いや組合というよりも制作職場の左派の活動家たちだった。
新聞のありかたを問題視して論議を起こし組合の議論の場にもちこんでいた。編集局内からの提起ではなかったというならそれはその通りと言える。
 
いまや活字が消えた日からコンピューター制作システムになって日が長い。
 この本とともに遠い記憶が蘇ってくる。
銀座社屋の裏手に本書で再三でてくる「雀」があった。
もっと会社寄りには「加賀屋」という居酒屋もあった。
ここは「雀」に比べるとランクが一段と落ちたが社内に出前が利いて、頭に逆はちまきをした角刈りの兄いがカツドンやソバの木の箱をよく運んでくれ、月末になるとツケの催促に各職場にやってきた。
 1階が印刷と鉛版職場で100ホーンを超える輪転機の轟音が外にもれていた。
 2階は活版、紙型職場で整理記者と組版の連中がコンビになってピンセットを動かし活字ととりくんでいた。
 3階は編集局だった。
冷房装置もない暑い夜はここも蒸し風呂だった。
ランニング1枚で夜の仕事をしていた記者の姿は日常の姿でもあった。
 狭い社屋だから階段や小さなエレベータで社員同士がすれ違って顔見知りも多くなってくる。
 6階は食堂で、仕事の合間にやってくる夕食時間に組合の決起集会もよく開かれていた。
 新聞社は夜勤も多く「きつい」「きたない」「危険」の3K職場の労を慰めるとともに大きな風呂があった。
 本田記者が「黄色い血」追放キャンペーンに全力をあげた1964年は東京オリンピックの年で、このころの社内浴場は1階の表道路と扉一つ内側にあった。
五右衛門風呂をおおきくしたような大きな石の浴槽は座るところがないから立ったまま入ってしゃがんで直ぐ出る寸法で、仕事を終えた印刷工がワッとやってくると洗う場もない状態になる。
鼻の中までインクで真っ黒になる印刷工員は当時あたりまえの姿だった。
 あとに別館大浴場ができてこれは始終お湯が沸いているすぐれもので通称「読売温泉」とも呼ばれた。
仮眠室も旧社屋は百畳を越える木枠のベッド式でカーテンの仕切りもないから飯場のような状態だった。
よく眠れず起きてもしばらくは朦朧としているから寝室のことは「モーロー」と呼ばれていた。
外で飲んで終電車をやり過ごした各職場の人間が仮泊する場でもあった。
 理髪室もあって、社の幹部と並んで工員が散髪する光景は日常よく見られた。
 「薬屋」と呼ばれた男が大きなバックにビタミンアンプルをたくさん詰めこんで夏の各職場を巡回していたし、深深夜の外舗道では「すみません」とあだなされた男がワンカップ酒を売っていた。
最初は自転車でのちにはライトバンになってやってきて酒とツマミなどを売っていたが注文からカネのやりとりに必ず「すみません すみません」が口癖になっていて当時の職場から人気があった。
この本を読んでいると、走馬灯のように銀座社屋のあれこれが浮かんでくる。

 本田記者が憲法9条擁護の護憲派であることもはじめて知ったが、記者が活躍した68年から70年の日本もまた混沌としていた。
 68年にはベトナム全土でテト攻勢があり、日本ではベトナム反戦という声が大きくうねりとなっていた。
米原潜寄航問題や沖縄返還など市民運動、労働運動、学生運動もそれなりに盛り上がっていた。
この点での護憲派としての本田所感らしいものはこの本には見あたらなかった。
もっとも記者は69年から70年はニューヨーク特派員となって銀座社屋にはいない時期にもあたるのだが。

  本田記者が退社したのは71年。
Yの銀座社屋もこのときは終焉の時期で翌72年3月に社は全社あげて大手町に移転をしている。  
大手町に移って10年を経て活字印刷の新聞がCTSというコンピュータシステムとなり活字は完全に姿を消した。
そういう面では本田記者は活字全盛時代に活躍された社会部記者ともいえる。
 「正力コーナーに見る紙面の私物化」に嫌気がさしたのも退社の弁と本書にあるが、次の事実だけは記しておきたい。
 本田記者は正力「私物」を諫言できるものがだれもいないことへの嫌悪もあったとしているが正力コーナーの総本山である正力社主が亡くなったのは1969年10月9日。
務台社長が就任したのは1970年5月30日。
本田記者が退職したのはその翌年の71年。
社主が鬼籍入りして正力コーナーという「君主による紙面の私物化」の命運も尽き新たな新社屋時代の幕開けの予想もできた時期の記者の退社でもあったはずだ。
朝日の畏友深代記者からの勤めの誘いもあるなど退社の理由は一色ではなかったと想像もする。

 正力社主死去から8年後の1977年2月に朝毎読という業界の呼称は変った。
読売新聞の部数は720万1000部となって日本一となった。  

 「社会部の省庁担当記者は楽なものである。週に1本か2本の発表物をこなしていれば1人前の顔ができる。」
 「昭和30年代後半からサラリーマン記者が目立ちはじめた」
「サラリーマン化した社会部で私は単なる拗ねものである」
 退社あとの本田記者がルポライターになってさまざまな作品を手がけたことへの関心は少なかった。
 逆に1960年代から70年代初頭にかけての手狭なY旧社屋のなかで社会部記者としての生き様に興味があった。
社内ですれ違って重ね合わせた旧社屋の日常は、また私の青春の1頁でもあったし、一里塚でもあった。
その断片が蘇ってきたところが個人的には貴重な読後感となった。


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