先日、早朝に突然、停電があった。私の住む中津川市では、年に数回の停電は普通に起きる。多くは落雷によるものだが、集中豪雨で、電線を巻き込んで木が倒壊するようなことは頻繁に起きる。
まだ夜が明けていなかったので、明かりを探したが、たくさんあるはずのライトも、そのときは、どこにあるのか分からなくて本当に困った。
スマホの明かりを頼りに灯油ランタンを点灯したが、これも長い間使わなかったので、火を点すのに本当に苦労した。
点灯に成功しても、普段が明るすぎるから、全然明るさを感じられなかった。
無意識に、水や空気のように、あたりまえに供給されるものと思い込んでいるから、いざ停電になると、びっくりするくらい不便だ。
井戸ポンプが使えないから蛇口から水が出ない、トイレも水が出ない、放射線観測機器は停電するとリセットされるので、キャリブレーションから全部やり直しだ。
猛暑の時期に、エアコンも扇風機も使えなければ、生理的にひどく苦痛を感じる。
もう長い間、電化されたライフスタイルがあたりまえのように思い込まされてきたから、停電というのは人間の原点の生活を、突然思い出させてくれるのだ。
私のように、1950年代に生まれて、1960年代まで子供青少年だった世代(アフター団塊世代)の特徴は、一教室に50名もの生徒が詰め込まれて、めったやたらに競争を強いられて、他人を蹴落として成り上がることが人生の目標のように教え込まれてきた。
時代は、たぶん人類の進化史上でも、もっとも激しい環境激変と道具の進化の時代だったかもしれない。人類は、無限に劇的進化を遂げてゆくのだと勘違いさせられる時代でもあった。
私の子供時代、まだ洗濯は、固形石鹸と洗濯板の時代だった。それからサンヨー電気が電気洗濯機を販売すると、瞬く間に洗濯という文化が激変していった。
私は今でも、洗濯槽の壁にスクリューがついたサンヨー洗濯機を思い出すと、懐かしさとともに、当時の衝撃、文明への憧れをかき立てずにはいられない。
女性にとって、たぶん最大の激務は洗濯だったはずだが、青天の霹靂のように、それが舞台芸術を見るような感動的なイベントへ変わったのだ。
母親の底なしの笑顔がそこにあった。
薪炊きのカマドや石油コンロで煮炊きしていたら、いつのまにかガスコンロに変わった。そして電気冷蔵庫とテレビが登場してきた。
うちのテレビは中古の白黒だったが、力道山や生放送の歌番組を見に毎晩、近所の人が集まってきた。
1960年代、それは日進月歩で、毎年のように、もの凄い性能持った新型機器が登場し、シリカ電球も、いつのまにか蛍光灯に変わっていた。
家にも中古だが、自家用車がやってきた。薪を買って風呂を焚く手間も消えた。炭火や練炭の代わりに石油ストーブがやってきた。家の前の砂利道は、アスファルト舗装に変わった。
そして皇太子の結婚があり、東京オリンピックがあった。みんな夢中になって話題にしていた。あの当時の「ミッチー」の人気ぶりは、芸能界を束にしても勝てないほどだった。
こんなもの凄いスピードでライフスタイルが変化した時代は、たぶん1960年代くらいだけだったような気がする。「世界は前を向いて進むだけ」のように大半の人は思い込まされていただろう。
それから、日本はバブル崩壊があって、世紀の愚策である消費税(消費罰金税)導入が行われてから景気は低迷して、再び変化に乏しい時代がやってきた。
80年代以降の意味のある文化的変容といえば、洗浄式トイレの導入くらいしか思い浮かばない。ただ、人々は浪費しなくなり、ゴミをポイ捨てしなくなり、都市空間全体がどんどん清潔になっていった。
商店や事業所、役場なども、以前のように横柄な上から目線で対応する者も減っていった。
これは「お客様は神様です」の思想的普及を行った船井幸雄らの活動が大きな役割を果たしたと、私は船井グループを高く評価している。
日本は温泉と観光で食べてゆくしかないのではと指摘されたのも、この頃、1980年代だ。
消費税による経済停滞が起きて、団塊世代の子供世代であるロストジェネレーション世代が登場してくると、もう人々は、この社会が前や上を見ることを放棄したことに気づかされた。
人々を貧しくし、景気を悪化させる効果しかない消費税を導入したのは経団連である。モノを作って、どんどん売って、景気を向上させることで儲けるという発想を経団連が放棄したのだ。
小泉純一郎は、「日本を金融国家に変えて、為替や投機で儲ける」と宣言した。これを実際に展開したのが竹中平蔵だ。
「良いモノを作って売る」という王道、正当な経済活動を放棄して、ゼロサムゲームの金転がしでボロ儲けできるという幻想が経団連トップの脳味噌を支配し、腐乱させていった。
だから、景気が悪くなっても、そのおかげで超低金利になるから、そのカネで世界を支配できると勘違いしたわけだ。
経団連トップは、若者たちを育て、良い商品を作るという王道を完全に捨てて、国家予算数年分の莫大な社内留保をため込むことだけに執着するようになった。
そうなれば、自分たち企業幹部の年収を巨額に設定することができたからだ。
このようにして、経団連、日本企業は、労働者の賃金を上げず、正社員を捨てて、派遣社員に切り替えてしまった結果、「モノ作り」の基本的能力を失ってしまったのだ。
そこには、戦後、世界一優れているといわれた日本経済イノベーションの死滅があった。
もう日本には、身分保障された正規雇用、学問界の大規模な基礎研究に裏付けられたイノベーションは存在できなくなった。
かつての、世界一素晴らしい共同体的日本企業は、竹中平蔵が持ち込んだ金融投機国家論の前に、あらゆる力を失い、死滅だけが約束されたのである。
もうイノベーションを失った日本社会なのに、竹中は、新たな電脳イノベーションの妄想を、スーパーシティ構想のなかに持ち込もうとしている。
それはビルゲイツのビジョンだ。コロナ禍でのワクチン強制接種を通じて、脱法的な強制力をもって、人類すべてをコンピュータ支配に組み込んで、思想、経済、日常活動のすべてを監視して、家畜のように利用する社会を作ると宣言しているのだ。
以下が、日本政府によるスーパーシティ(スマートシティ)の説明である。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/supercity/openlabo/supercitykaisetsu.html
ここに彼らのホンネがむき出しにされている。国連も、ダボス会議も、中国共産党支配体制こそ理想社会だと賞賛しているのだ。
だから、北京郊外に作られたスーパーシティ「雄安新区」と杭州における監視コンピュータ取り締まりの実例を強調している。
雄安新区では、すべての自動車がAI自動運転であり、コンビニも配送車も人間がいない。人々は与えられた生活を逸脱しないように生きなければならない。もし逸脱すれば、無数の監視カメラに捕捉され、ただちにスーパーポリスがやってきて、ときには命まで奪いさる。
実際に、抗議の声を上げた女性が人体標本にされて殺された事例もある。
この虚構空間については、小池都知事も興味をそそられているようで、竹中平蔵に迎合して、日本での実現に賛同している。
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo
だが、私のみるかぎり、電子機器だけに頼った街作りには、取り返しのつかない陥穽だけが待ち構えていると断言しておこう。
そもそも、電気的駆動システムの土台になるバッテリーの実用的技術が、まだ世界に存在しないのだ。
以下はテスラ乗用車の充電時間を示すブログだ。
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo
テスラの電池切れの場合、自宅で1時間充電して10Kmしか走れない。走行コストパフォーマンスは、ハイブリッド車の7割程度しかないという。
こんなに燃費が高くつく電気自動車が、社会の主役になれるわけがない。それに、電池式動力の耐久性は極めて短い。
大阪で導入された電気自動車タクシーは、今では見向きもされなくなっている。実用的耐久性能が数年しかないことが明らかにされたからだ。
だから、自民党や政府が、どんなに電気動力車の普及を呼びかけても、街を走る電気カーの割合は、実験的なレベルを超えられない。
それから、トヨタが一生懸命導入を焦っている全自動AI運転システムにしても、現在のレベルは、本当の安全運転に必要な情報量の1%にも満たない稚拙な情報処理能力しかない。
人間は、AIカーの数百倍の認識処理技術で運転していることを、トヨタは理解していないから、必ず致命的な情報処理欠陥事故によってシステムは崩壊してしまうだろう。原発と同じだ。AIカーは、認知症の某工業技術院院長と同レベルの運転しかできないのだ。
これは電池やコンピュータの本質に根ざした欠陥であって、現段階で改良改善が確実視できるものではない。
電気式AI車が内燃機関車やハイブリッド車を超える可能性など、あと30年後だって無理だろう。せいぜい補助的に使われることしかできない。
雄安新区では、日常的にシステムの欠陥による事故が頻発しているが、中国共産党は、これをすべて隠蔽して、うまくいってる部分しか見せようとしない。
中国新幹線が大事故を起こして、車両を埋めることで隠蔽を図ったのと同じだ。
https://courrier.jp/columns/184453/
そもそも竹中平蔵は、中国共産党の「特区事業」を見て、超法規的な特区なら、あらゆる不正を容易に実現できると思って、日本にも「竹中特区」を持ち込んだに違いない。
ここで冒頭の導入に戻るが、もしもスーパーシティで起きるはずのない「停電」が起きたなら、何が起きるのか?
考えただけでも恐ろしい。すべての車両に運転手がいなくてAIだけが情報処理を行っている。「絶対に止まってはならない条件」であっても、AIは止まることしかできない。
すべての経済活動は、デジタル通貨、すなわち虚構マネーによって流通しているが、停電が起きれば、自動的に電池式に切り替わって処理が続けられるシステムが、どれほどあるだろう?
もしも、スーパーシティ特区の上空でEMP爆弾が爆発したなら何が起きるのか?
一瞬にして街のすべての機能、交通、医療、経済活動のあらゆるシステムが、致命的打撃を受ける。
なかには原発運転のような超危険なシステムも動いているだろう。これらを安全に停止し、復旧させることができるのだろうか?
超危険な化学反応中のプラントが突然停電を起こしたなら、何が起きるだろう?
竹中平蔵のスーパーシティ特区は、人々を管理監視しているつもりで、実は、人々の安全フィードバックを受け入れるシステムを持たない。
一人一人を家畜のように管理し支配することだけを考えているから、人間の街を愛する創意工夫を嘲笑し、彼らにシステムを守ってもらうことができないのだ。
我々の生きる、この社会は、本質的に「持ちつ持たれつ」であり、相互に協力しあって、すべての人の街を愛する心によって支えられている。
だが、グレートリセット・スーパーシティ特区は、人々を家畜のように監視し、支配することしか考えていないから、監視対象の人々によってシステムが救済されることがないのだ。
こんな恐ろしく軽薄で誤った社会に、「持続可能な未来」があるとでもいうのか?
スーパーシティ特区など、最初から存在の合理性がひとかけらもない。
もし、未来に生きられる社会があるとすれば、それは人々を支配し監視する社会ではない。人々が街を愛し、自分の創意工夫で街を発展させてゆく柔軟性に満ちた社会しかありえない。
まだ夜が明けていなかったので、明かりを探したが、たくさんあるはずのライトも、そのときは、どこにあるのか分からなくて本当に困った。
スマホの明かりを頼りに灯油ランタンを点灯したが、これも長い間使わなかったので、火を点すのに本当に苦労した。
点灯に成功しても、普段が明るすぎるから、全然明るさを感じられなかった。
無意識に、水や空気のように、あたりまえに供給されるものと思い込んでいるから、いざ停電になると、びっくりするくらい不便だ。
井戸ポンプが使えないから蛇口から水が出ない、トイレも水が出ない、放射線観測機器は停電するとリセットされるので、キャリブレーションから全部やり直しだ。
猛暑の時期に、エアコンも扇風機も使えなければ、生理的にひどく苦痛を感じる。
もう長い間、電化されたライフスタイルがあたりまえのように思い込まされてきたから、停電というのは人間の原点の生活を、突然思い出させてくれるのだ。
私のように、1950年代に生まれて、1960年代まで子供青少年だった世代(アフター団塊世代)の特徴は、一教室に50名もの生徒が詰め込まれて、めったやたらに競争を強いられて、他人を蹴落として成り上がることが人生の目標のように教え込まれてきた。
時代は、たぶん人類の進化史上でも、もっとも激しい環境激変と道具の進化の時代だったかもしれない。人類は、無限に劇的進化を遂げてゆくのだと勘違いさせられる時代でもあった。
私の子供時代、まだ洗濯は、固形石鹸と洗濯板の時代だった。それからサンヨー電気が電気洗濯機を販売すると、瞬く間に洗濯という文化が激変していった。
私は今でも、洗濯槽の壁にスクリューがついたサンヨー洗濯機を思い出すと、懐かしさとともに、当時の衝撃、文明への憧れをかき立てずにはいられない。
女性にとって、たぶん最大の激務は洗濯だったはずだが、青天の霹靂のように、それが舞台芸術を見るような感動的なイベントへ変わったのだ。
母親の底なしの笑顔がそこにあった。
薪炊きのカマドや石油コンロで煮炊きしていたら、いつのまにかガスコンロに変わった。そして電気冷蔵庫とテレビが登場してきた。
うちのテレビは中古の白黒だったが、力道山や生放送の歌番組を見に毎晩、近所の人が集まってきた。
1960年代、それは日進月歩で、毎年のように、もの凄い性能持った新型機器が登場し、シリカ電球も、いつのまにか蛍光灯に変わっていた。
家にも中古だが、自家用車がやってきた。薪を買って風呂を焚く手間も消えた。炭火や練炭の代わりに石油ストーブがやってきた。家の前の砂利道は、アスファルト舗装に変わった。
そして皇太子の結婚があり、東京オリンピックがあった。みんな夢中になって話題にしていた。あの当時の「ミッチー」の人気ぶりは、芸能界を束にしても勝てないほどだった。
こんなもの凄いスピードでライフスタイルが変化した時代は、たぶん1960年代くらいだけだったような気がする。「世界は前を向いて進むだけ」のように大半の人は思い込まされていただろう。
それから、日本はバブル崩壊があって、世紀の愚策である消費税(消費罰金税)導入が行われてから景気は低迷して、再び変化に乏しい時代がやってきた。
80年代以降の意味のある文化的変容といえば、洗浄式トイレの導入くらいしか思い浮かばない。ただ、人々は浪費しなくなり、ゴミをポイ捨てしなくなり、都市空間全体がどんどん清潔になっていった。
商店や事業所、役場なども、以前のように横柄な上から目線で対応する者も減っていった。
これは「お客様は神様です」の思想的普及を行った船井幸雄らの活動が大きな役割を果たしたと、私は船井グループを高く評価している。
日本は温泉と観光で食べてゆくしかないのではと指摘されたのも、この頃、1980年代だ。
消費税による経済停滞が起きて、団塊世代の子供世代であるロストジェネレーション世代が登場してくると、もう人々は、この社会が前や上を見ることを放棄したことに気づかされた。
人々を貧しくし、景気を悪化させる効果しかない消費税を導入したのは経団連である。モノを作って、どんどん売って、景気を向上させることで儲けるという発想を経団連が放棄したのだ。
小泉純一郎は、「日本を金融国家に変えて、為替や投機で儲ける」と宣言した。これを実際に展開したのが竹中平蔵だ。
「良いモノを作って売る」という王道、正当な経済活動を放棄して、ゼロサムゲームの金転がしでボロ儲けできるという幻想が経団連トップの脳味噌を支配し、腐乱させていった。
だから、景気が悪くなっても、そのおかげで超低金利になるから、そのカネで世界を支配できると勘違いしたわけだ。
経団連トップは、若者たちを育て、良い商品を作るという王道を完全に捨てて、国家予算数年分の莫大な社内留保をため込むことだけに執着するようになった。
そうなれば、自分たち企業幹部の年収を巨額に設定することができたからだ。
このようにして、経団連、日本企業は、労働者の賃金を上げず、正社員を捨てて、派遣社員に切り替えてしまった結果、「モノ作り」の基本的能力を失ってしまったのだ。
そこには、戦後、世界一優れているといわれた日本経済イノベーションの死滅があった。
もう日本には、身分保障された正規雇用、学問界の大規模な基礎研究に裏付けられたイノベーションは存在できなくなった。
かつての、世界一素晴らしい共同体的日本企業は、竹中平蔵が持ち込んだ金融投機国家論の前に、あらゆる力を失い、死滅だけが約束されたのである。
もうイノベーションを失った日本社会なのに、竹中は、新たな電脳イノベーションの妄想を、スーパーシティ構想のなかに持ち込もうとしている。
それはビルゲイツのビジョンだ。コロナ禍でのワクチン強制接種を通じて、脱法的な強制力をもって、人類すべてをコンピュータ支配に組み込んで、思想、経済、日常活動のすべてを監視して、家畜のように利用する社会を作ると宣言しているのだ。
以下が、日本政府によるスーパーシティ(スマートシティ)の説明である。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/supercity/openlabo/supercitykaisetsu.html
ここに彼らのホンネがむき出しにされている。国連も、ダボス会議も、中国共産党支配体制こそ理想社会だと賞賛しているのだ。
だから、北京郊外に作られたスーパーシティ「雄安新区」と杭州における監視コンピュータ取り締まりの実例を強調している。
雄安新区では、すべての自動車がAI自動運転であり、コンビニも配送車も人間がいない。人々は与えられた生活を逸脱しないように生きなければならない。もし逸脱すれば、無数の監視カメラに捕捉され、ただちにスーパーポリスがやってきて、ときには命まで奪いさる。
実際に、抗議の声を上げた女性が人体標本にされて殺された事例もある。
この虚構空間については、小池都知事も興味をそそられているようで、竹中平蔵に迎合して、日本での実現に賛同している。
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo
だが、私のみるかぎり、電子機器だけに頼った街作りには、取り返しのつかない陥穽だけが待ち構えていると断言しておこう。
そもそも、電気的駆動システムの土台になるバッテリーの実用的技術が、まだ世界に存在しないのだ。
以下はテスラ乗用車の充電時間を示すブログだ。
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo
テスラの電池切れの場合、自宅で1時間充電して10Kmしか走れない。走行コストパフォーマンスは、ハイブリッド車の7割程度しかないという。
こんなに燃費が高くつく電気自動車が、社会の主役になれるわけがない。それに、電池式動力の耐久性は極めて短い。
大阪で導入された電気自動車タクシーは、今では見向きもされなくなっている。実用的耐久性能が数年しかないことが明らかにされたからだ。
だから、自民党や政府が、どんなに電気動力車の普及を呼びかけても、街を走る電気カーの割合は、実験的なレベルを超えられない。
それから、トヨタが一生懸命導入を焦っている全自動AI運転システムにしても、現在のレベルは、本当の安全運転に必要な情報量の1%にも満たない稚拙な情報処理能力しかない。
人間は、AIカーの数百倍の認識処理技術で運転していることを、トヨタは理解していないから、必ず致命的な情報処理欠陥事故によってシステムは崩壊してしまうだろう。原発と同じだ。AIカーは、認知症の某工業技術院院長と同レベルの運転しかできないのだ。
これは電池やコンピュータの本質に根ざした欠陥であって、現段階で改良改善が確実視できるものではない。
電気式AI車が内燃機関車やハイブリッド車を超える可能性など、あと30年後だって無理だろう。せいぜい補助的に使われることしかできない。
雄安新区では、日常的にシステムの欠陥による事故が頻発しているが、中国共産党は、これをすべて隠蔽して、うまくいってる部分しか見せようとしない。
中国新幹線が大事故を起こして、車両を埋めることで隠蔽を図ったのと同じだ。
https://courrier.jp/columns/184453/
そもそも竹中平蔵は、中国共産党の「特区事業」を見て、超法規的な特区なら、あらゆる不正を容易に実現できると思って、日本にも「竹中特区」を持ち込んだに違いない。
ここで冒頭の導入に戻るが、もしもスーパーシティで起きるはずのない「停電」が起きたなら、何が起きるのか?
考えただけでも恐ろしい。すべての車両に運転手がいなくてAIだけが情報処理を行っている。「絶対に止まってはならない条件」であっても、AIは止まることしかできない。
すべての経済活動は、デジタル通貨、すなわち虚構マネーによって流通しているが、停電が起きれば、自動的に電池式に切り替わって処理が続けられるシステムが、どれほどあるだろう?
もしも、スーパーシティ特区の上空でEMP爆弾が爆発したなら何が起きるのか?
一瞬にして街のすべての機能、交通、医療、経済活動のあらゆるシステムが、致命的打撃を受ける。
なかには原発運転のような超危険なシステムも動いているだろう。これらを安全に停止し、復旧させることができるのだろうか?
超危険な化学反応中のプラントが突然停電を起こしたなら、何が起きるだろう?
竹中平蔵のスーパーシティ特区は、人々を管理監視しているつもりで、実は、人々の安全フィードバックを受け入れるシステムを持たない。
一人一人を家畜のように管理し支配することだけを考えているから、人間の街を愛する創意工夫を嘲笑し、彼らにシステムを守ってもらうことができないのだ。
我々の生きる、この社会は、本質的に「持ちつ持たれつ」であり、相互に協力しあって、すべての人の街を愛する心によって支えられている。
だが、グレートリセット・スーパーシティ特区は、人々を家畜のように監視し、支配することしか考えていないから、監視対象の人々によってシステムが救済されることがないのだ。
こんな恐ろしく軽薄で誤った社会に、「持続可能な未来」があるとでもいうのか?
スーパーシティ特区など、最初から存在の合理性がひとかけらもない。
もし、未来に生きられる社会があるとすれば、それは人々を支配し監視する社会ではない。人々が街を愛し、自分の創意工夫で街を発展させてゆく柔軟性に満ちた社会しかありえない。