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 トランスジェンダーが生まれる理由

2018年07月27日 | 未分類
 トランスジェンダーが激増しはじめたのは十数年前からだと思う。

 テレビではるな愛やマツコが大きな地位を占めて社会的に容認される雰囲気が急拡大したのも大きいだろう。



 街を歩けば、たくさんの女装男性が歩いているのが分かる。またひげを生やした男装女性もたくさんいる。

 なぜ性をトランスしたいのか、その理由を我々は、きちんと考えていないが、やがて復活しようとしているファッシズム同調社会=「日本凄い」価値観の時代に、再び異邦人として無意味で残酷な性弾圧が繰り返されないよう、ちゃんと理由を明らかにしておく必要があるだろう。



 私の子供のころは、人と違う=「異邦人」に対する排斥が、とても大きな時代で、社会全体の「同調性圧力」が非常に強く、「権力に従順に従う一般人」と同じようにしないで主体性や個性を主張する者は、ひどく圧迫され弾圧される時代だった。



 これは、戦前のファッシズムが、民衆の心の底を束縛していたからだろう。

 「他人様と同じようにしなければならない」

 この価値観こそがファッシズムの本質である。



 戦前の「非同調者」の多くが、異民族であり、関東大震災のときには、警視庁警備局長だった正力松太郎が、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」というデマを流したことで、それを本気にした下町の人々が、在日者6000名以上を虐殺したのである。

 ファッシズム=同調圧力が、もっとも残酷な姿を見せた瞬間であった。



 私の子供時代も、まだ異民族や部落出身者への差別観が強い時代で、銀行など、まともな企業や営利組織に気持ちよく受け入れてもらうことは不可能であり、それゆえに、彼らは、芸能界、スポーツ界、土建業界、水商売、賭博業界などでしか働くことしか許されず、だから、都はるみ、五木ひろし、力道山、金田正一、張本勲、王貞治らは、必死になって努力し、その道のトップを張ることができた。



 当時も、トランスジェンダーは決して少なくはなく、「オカマ」などと称され、夜の街で仕事する以外になかったのだが、一般社会の目は冷たく、いつでも白い目で見られる「日陰者」のイメージがついてまわった。

 しかし、今は違う。はるな愛もマツコも、堂々と生まれながらの芸能人のように大らかにふるまっている。

 もう日陰者ではない。



 同調圧力による社会的束縛が薄らいだのが、やっと今世紀に入ってからで、外国における性差別解放運動の影響や、「非同調者」のメディアへの露出が激増したことが大きな理由になっていると思う。

 それまでは、在日者や部落民は「非同調者」として敵視され、トランスジェンダーも、表通りを昼間、堂々と闊歩するなら、悪意ある罵倒を飛ばされたりするので、みんな夜になって、ネオン輝く街のなかでしか、自由闊達に人間性を主張しながら、感情を解放することが許されなかったのだ。

 

 街を歩く女性のうちで、違和感を抱くような頭や体の大きめの人の多くがトランスジェンダーのようだ。

 胎内のテストステロンの影響により性分化のプロセスで、男になることが定まった胎児は、全般に作りが大きくなり、骨盤が小さくなり、中指が長くなる。



 だから、どんなに上手に女装してみても、頭蓋骨と骨盤の作りに紛れようのない性差が現れ、鼻が大きいので違和感を抱かれるし、男装女性が、テストステロンを服用して、ひげを生やしてみても、小さめの頭蓋骨と、大きめの骨盤を隠すことはできない。手足も小さい。



 見る人が見れば、トランス者は一目で分かる。それでも性を変えたい断固とした理由がある。



 最大のものは、過去生の記憶ではないかと私は思う。過去生の多くを、この人生と異なる性で過ごしてしまうと、意識に染みついた習慣から、現在の性に強い違和感を感じ続ける。

 幼児期のうちは前世の意識が大きく残っているので、生活習慣にもそれが現れて、内股で歩いていたり、もの凄く気持ちが優しくて、性差における同調圧力の圧迫を受けることになる。



 しかし、与えられた性における訓練を経て、同化してゆくわけだが、それでも、心の奥底に染みついた性への違和感が消えることがない。

 とりわけ、女性的な心の優しさは、前世の習慣や気質であって、男性として生まれ変わっても、強い違和感をもたらす最大の理由になるのだろうと思う。



 学校で、女性であった前世から持ち越した心優しさのゆえに、同調圧力を要求する同級生から激しくイジメを受けて、男子が自分の肉体から逃避したくなるのは、自然な流れだろう。

 そうして、大人になってトランスジェンダーの道が開かれたときに、自然に移行してゆくと考えられる。

 男としての攻撃性を、どうしても容認できないのである。自分の性、自分の本質ではない人生を装う苦痛が耐えられないのである。



 私自身は、前立腺癌の治療のため、アンドロキュアという男性ホルモン抑制剤を服用することで、性的な意味での積極性、攻撃性が強く抑制されるようになり、別の言い方をすれば、性欲が皆無となったことで、初めて男性である自分の特性を客観的に見ることができるようになった。



 都会から遠い、山の中の家に住んでいると、性欲から解放されるのは、とてもありがたいことで、今では、目の前に若い魅力的な女性が全裸で立っていても、何一つ性欲を感じず、エロに対する興味が完全に失せたことで、金のかかる無駄な努力を必要としなくなり助かっている。

 若い頃は、エロに対する興味が大きく、エロ小説を書いてみたり、風俗産業に通ってみたり、自分の中の性欲を制御するのに苦労していたが、今では、そんな自分があったことすら忘れてしまっている。



 一方で、大好きだった格闘技にも興味を失ってしまった。また激しい筋肉作業に、ひどく忌避感を抱くようになり、全身の筋力が衰えてしまった。

 同時にテストステロンのもたらす、激しい好奇心や達成感なども失われ、とても穏やかな日常になってしまったことが、良かったのか悪かったのか、若干の後悔もある。



 私の場合は、たぶん過去生で女性だった期間が長かったような気がするが、前世療法を受けていないので、詳しくは分からない。

 でも、子供の頃から非女性的な冒険が好きだったから、たぶん過去生の性癖を持ち越したトランス者と同じではないだろう。男性だったことも多かったと思う。



 トランスジェンダーの区別は、この意味で、多様であって、厳密な論理的区分があるわけでもなく、主観的要素が強くなると思うが、あとは、本人の思い込みや強迫観念、うつ病による逃避行動からのトランスもあるだろう。



 うつ病など、精神的疾患になると精神的に追い詰められ、現実逃避の動機が非常に強まることがある。

 現実に明確な回答が出せないで、何をどうしたらいいか分からないときは、人は、別の部屋に逃げ込んでゆく性質がある。

 このとき、トランスジェンダーも有力な逃避先になるという仕組みである。



 こんなとき、現実逃避としてトランスジェンダーを選び、肉体改造までしてしまってから、やがて自分を取り戻したとき、ますます追い詰められることになる。

 「他人と違う」 という違和感からの攻撃は、相当に深刻なもので、今でも、女装者、男装者に対する「同調圧力」の価値観からの非難は軽視できない。

 そんな自分がうつ病などの逃避から来ていたことに気づいても、社会的非難のなかで、もう元に戻れない。

 だから、こうして道の選択を誤った、現実逃避の結果としてのトランスジェンダーである人が、電車に飛び込み自殺することだって珍しくない。

 おそらく自殺者のかなりを占めるのではないだろうか?



 こんなとき、この狂った社会に生きていて、自分も狂うのが当たり前であって「狂って何が悪い」と開き直れるような精神的強さと、社会全体が道を間違えた人に対する寛容、容認の気風が必要であるが、今我々が向かわされているファッシズム社会では、そうした人々を、ますます死に追いやるシステムに変化しているように思う。



 まずは、せめて我々が、人は必ず失敗するものであり、失敗も含めて人生であるとの包容力、寛容性の高い価値観を持つことが必要であって、その基本は、他人に対する思いやり、優しさではないだろうか?

 

 どんな失敗をしても、それが人生である。

 アングリマーラを殺さない社会が、我々の目指す社会と考える必要があるのだ。



******************************

明日は、日本列島をすっぽり覆う皆既月食満月であって、巨大地震のトリガーとなる可能性がある

まだ明瞭な黒点が見えていないので、断言はできないが、どこで巨大地震が起きても何の不思議もない



https://mainichi.jp/articles/20180726/k00/00e/040/313000c

 



2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (秀丸)
2018-07-28 13:34:55
過ぎた不正脈とかいう不細工な糞ババアがなにかいってるが
子孫を残し食うだけの生産性ならミミズやゴキブリと大差あるまい
他を支えることのできるやさしさとimagination
これこそが人が人である価値であり証しなのだ
多様性などという言葉を敢えて持ち出す必要は無い
誰かが誰かを支えている、それが幸せなのだ
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Unknown (きこ)
2018-07-29 21:29:49
杉田氏の暴言は、自民党代議士と自民党の本当のオーナーが私たち一般国民を、自分たちの欲を満足させるための道具としてしか見ていないことを、とても分かりやすく表現していると思う。
ところで、トランスジェンダーと言うよりホモ?ゲイ?と言われるようなカップルを電車の中で見たことが有る。
随分とくたびれたオーバーコートとジャンパー姿のその二人は、はた目にもお互いがいたわり合っている事が分かる、そんな二人だった。
地位も金もなく、社会から偏見と迫害を受けても貫く、愛情をその二人から感じ取った。
親の子どもへの愛情は何物にも代えがたいと言われるが、命を賭して子供を守るにしても、いくばくかの我欲を垣間見ることに成る。(自分の命をつなげていきたい・・・わが子だけが・・・みたいな。)
しかし、この二人の愛情には、一切の我欲を感じられず、
一種の崇高さ高貴さの高みまで上った愛と、思えた。
排斥されがちな性的嗜好の二人でしたが、他者を、自分の欲得のための道具として扱う「過労死法推進者」とは、違うと、冬に見た二人を思い出していました。
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