goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

 天皇家残酷物語

2021年10月28日 | 未分類
 以下は、宮内庁が公表している天皇系図
 https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html

 BC660年~2021年までの2680年にわたる天皇系図で、浩宮(徳仁)君は、第126代となっている。すべて万世一系の血統としたのが、勝山平泉寺神主にして東大史学部教授、平泉澄だが、この人物が「皇国史観」といわれる万世一系の虚構をでっちあげた張本人といってもいい。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%BE%84

 むろん、こんな長い歴史をもっている王家は世界中で天皇家だけだが、その信憑性は? といえば、ほぼゼロといえる。天皇家はウソに満ちている。
 そもそも、世界史的に見れば、2600年前には竹簡による記録もあり、かなり詳細な文化人類学、歴史学上の記録もある。
 それなのに、神武が、突然、宮崎県日向の高千穂に降り立ったと、まるで宇宙人か、ターミネータのように登場するのだ。前後の記録もあったもんじゃない。

 つまり、神武登場までは、日本には歴史を記録できる言語も人も存在しなかった。神武が突然ターミネータのように日向に降り立って、はじめて日本史が出発するのである。
 それ以前は、年代は不明だが、イザナミ・イザナギが天照大神をうちの近所の恵那山血洗池で産み落として、数世代後に神武になったと日本書紀に書かれている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

 だが、中国史では、ちょうど、この時期(50~100年程度の誤差はあるが)、史記に呉越戦争が記録され、BC470年頃に呉が越に敗北し、滅んだことになっている。
 当時、敗戦国民は坑刑といって、大きな穴に投げ込まれて生き埋めで皆殺しにされる習慣があったので、上海近郊長江下流域の広大な蘇州水郷地帯で、船とともに生活していた呉国民は、船に乗って台湾・朝鮮南岸・九州などに逃げ出して移住したという推理が成り立つ。

 だが、史記の解釈家によれば、BC585年頃、周王朝の太伯が、次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国が呉(蘇州)と記録されていて、太伯の末子、李歴が日本に渡って神武天皇になったとするのが、中国史学の定説になっている。
 これなら、神武の記録と年代がぴったり一致するのだが、渡来が呉の開国時なのか敗戦消滅時なのか、どちらかで神武天皇のヤマト建国が関係しているようだ。
 彼らは、「弥生文化」と呼ばれる米作農耕とともに、文字による記録の文化をもってきたから、そこから本当の意味での日本史が始まる。(文字記録はほとんど発見されていないが)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2

 神武以来の天皇家の変遷については、最大の問題は、江上波夫による騎馬民族征服王朝説に描かれた、AD200~400年代に、朝鮮半島を経由して騎馬民族が渡来し、ヤマト王朝を乗っ取ったという歴史の解釈で、このとき、神武天皇が作り出した「弥生文化」が、突如、騎馬民族文化に激変するのである。

 例えば、それまでの円墳が方墳に変わり、出土品に騎馬文化が大量に登場する。銅鐸が失われ、直剣刃物類になる。(米作農耕には曲刃物が使われる)
 方墳には、馬具(あぶみ、鞍)やズボン(内股を乗馬のこすれから守る)、みずら(乗馬風圧から髪を守る)が登場するなどだ。
 弥生文化に馬との関わりはないから、それらの馬文化は不要なのだ。

 天皇家の記録も、ずいぶん怪しい記述がたくさん現れるが、肝心要の騎馬民族乗っ取り王朝についての記録が、日本書紀からも古事記からもすべて失われているのは、おそらく天武天皇と藤原不比等による焚書、記録抹消によるものと考えられている。
 ここでは、百済王朝の武寧王が深く関わっているのだが、焚書による歴史抹殺の効果によりはっきりしたことは分からない。

 ただし、日本書紀にはAD300年前後に、弓月氏(秦氏)が百済から120県(数十万)の民を引き連れて日本に移住したことが記録されている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
 おそらく、これが百済からの騎馬民族征服王朝の移民記録であろう。

 天皇という呼称も、騎馬民族王の天武天皇か聖徳太子が使い始めたもので、これは中国における「北斗の帝」の思想が元になっている。
 このあたりは、もの凄く複雑なので、いずれまとめたい。

 あとは、建武の新政から南北朝時代に、どちらの血統が正統なのか、とか相当に長い対立の歴史があり、これも複雑で簡単に書くわけにはいかない。
 我々がある程度真相を知りうるのは、明治維新において、北朝系譜の孝明天皇が、維新元老たちの思惑により暗殺され、天皇家が南朝正統系譜を自称するようになったことで、以降は近代史のなかで、ある程度資料もある。

 孝明天皇が、松下村塾系の伊藤博文や井上馨によって厠で肛門を槍で突かれ、暗殺されたことは、比較的知られている。
 理由は、明治維新の思想的根拠となった平田国学による南朝回帰を実現するため、北朝系譜の孝明天皇を暗殺し、自称南朝系譜の長州奇兵隊、大室寅之佑を明治天皇に即位させるためであった。
 https://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/1061c49654b5d76c4b57238af71f95f0

 孝明天皇は妾だった岩倉具視の姉の屋敷に通っていた。そこに岩倉の手配で、伊藤博文らが忍者のように厠に忍び込み、下から肛門を槍で突いた。孝明は三日三晩苦しんだ末に苦悶死した。
 これにはオチがあって、後に明治天皇に即位した大室の寝床に、毎晩孝明天皇が現れ、恐怖のあまり泣きわめいたと、侍従である中山忠能の日記に書かれている。

 ちなみに、中山忠能は、孝明天皇の本当の子、祐宮を生んだ中山慶子の実父だったが、事情を知りすぎているので、明治政権が京都から遷都皇居に侍従として連れ出していたのだ。
 忠能は、秘密裏に、明治天皇=大室寅之佑がニセモノであることを示唆する日記をたくさん残していて、近代史を解く鍵にもなっている。

 明治帝=大室寅之佑を、新政府が調査してゆくと、自称南朝系譜も怪しくなってきた。南朝の子孫と認める証拠がないため、明治帝大室は、正室、側室ともに、自分の子種を与えることができなかったようだ。
 しかし、表向きは、侍女の柳原愛子との間に大正天皇嘉人が生まれたことになっているが、明治帝が六尺豊かな大男だったのに、生まれた嘉人は、5尺と小柄で、しかも知的障害者であり、受精能力さえなかった。

 もしも、本当に大室の子だったなら、山岡鉄舟と互角に相撲を取るほど優れた力士だった大室の資質を受け継ぎ、遺伝的に優れた子が誕生していたはずだが、大室の遺伝的資質は生かされず、新政府の用意した公家(もしかしたら本物の祐宮?)の子種が入ったことで、大正帝に近親交配による遺伝障害が現れたと考えられる。
 明治帝大室は、生涯、我が子であるはずの大正帝嘉人と会わなかったと伝えられている。本当の我が子なら、ありえないことだ。

 大正帝嘉人、明宮は生来虚弱で、周囲からは「暗愚=白痴」とさえ呼ばれた。以下に、どういう人物だったか記録がある。

https://president.jp/articles/-/28371?page=1

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49332

 今、調べていても、数十年前にたくさんあった大正天皇の素行問題(周囲の女性の誰彼となく手をつける)などの文章が、ほとんど消え失せていて、大正天皇を美化する歴史の捏造を含む、天皇制維持のための情報操作が行われている印象がある。

 受精能力のなかった大正天皇の子たちは、いったい誰の子なのか? といえば鬼塚英明氏が、西園寺八郎を挙げている。
 https://ameblo.jp/souldenight/entry-12220360047.html

 昭和天皇、裕仁氏は、いろいろな意味で優秀な人物であったといわれる。生物学者としての力量も高い評価を受けている。だから、我が子、明仁の配偶者については、極めて慎重な思慮を重ねた。
 天皇家や皇族と近縁のない聡明な女性を探して、とうとう正田美智子を発見し、明仁の嫁にした。
 これによって、天皇家に浩宮をはじめ優秀な人材を揃えることができた。

 だが、だが、ここに日本国民の一部にあった、明仁・美智子カップルへの深刻すぎる不審が登場する。
 長男の浩宮と、次男の秋篠宮が、あまりにも似ていないのだ。同じ兄弟でありながら、浩宮の身長は165センチと小さく、秋篠宮は180センチと大きすぎる。身長差が15センチ近い実の兄弟など、私の人生でも天皇家以外にお目にかかったことはない。
 明仁氏が163センチ、美智子氏が162センチだから、浩宮には蓋然性があるが、180センチの秋篠宮は、いったい誰の子なのだ? 

 人相風貌もまったく別人で、兄弟を示す特徴が少なすぎる。スケートの高木菜那と高木美帆は、姉妹でありながら、ずいぶん違うが、母親は同じでも、たぶん父親が違うと誰でも感じる。世間には、片親違いの兄弟など掃いて捨てるほどいる。
 しかし、顔の輪郭は美智子氏に似ているので、たぶん母親は同じなのだろう。

 だが、父親が違う。よりによって皇后様が浮気して他人の子を産んでいたなどとなったら、史上最大級のスキャンダルであり、マスコミは驚喜して興奮のあまり頓死する者まで出そうだ。
 だが、秋篠宮に極めて似た、遺伝上の父である疑いが十分すぎるほどある人物が身近にいた。

 それは美智子氏の妹の旦那で、安西孝之という。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A5%BF%E5%AD%9D%E4%B9%8B

 この人の写真を見ると、どうみても間違いなく秋篠宮の実父といえる風貌なのだ。
 嫁が美智子氏の妹なら、密かに美智子氏と会うチャンスも多かろう。男女の仲になったとしても不思議はなく、十分すぎる条件に恵まれている。
 https://reomizukawa.com/archives/3048

 私は、当時の宮内庁が、密かに浩宮トラブルの受け皿として、安西に種付けさせたかもしれないと考えるが、真相はまるで分からない。Aが秘密裏に美智子氏を強姦したのかもしれない。皇族のトラブルは、絶対に外部に出ないし、法的範疇ではないのだ。

 美智子氏については、愛情深い淑女であるとの評判で、大和撫子を代表する女性ということになっているが、実は、友人の某芸能人から、美智子氏について、奇妙な噂を聞いたことがある。
 それは、皇后という役職の凄まじいストレスから逃れるため、秘密裏にとてつもない暴走をすることがあるという噂だ。

 現在の発達したDNA技術なら、天皇家のこうした噂を払拭できる遺伝子検査が容易に実現できるはずで、宮内庁は文句があるなら、DNA情報を公開すれば簡単に問題が解決する。
 たぶん、明治天皇以来の皇族の遺髪などDNA情報を保存しているはずなので、宮内庁は、正式に情報を公開し、こうした疑念を払拭するべきだろう。やれるもんなら……。

 以上、小室・真子問題に限らず、天皇家には国家権力の虚像を無理矢理維持するための、残酷な人権侵害が数千年にわたって繰り返されてきたと考えてよい。
 だが、天皇や皇族といえど、中身は我々と何一つ変わらない「タダの人」にすぎない。
 本当は空想、妄想にすぎない虚構の権威を維持するために、合理性など存在しない儀式をいっぱい作って、「先例」という虚構の価値観をでっちあげて、なにごとも先例に倣ってという馬鹿馬鹿しい、おままごとに明け暮れるのが天皇制というものだ。

 我々の時代に、こうした愚かしい制度が消えることを願っている。
 
 追記
 その後、重要なことを思い出した。美智子氏は、60年近く前だが胞状奇胎という奇形児を死産したことがある。これで浩宮の弟が生まれる可能性が絶望的になった可能性がある
 http://blog.livedoor.jp/royalfamily_picture/archives/1042936036.html
 それゆえに、美智子氏の実の妹が、安西との子を、養子として天皇家美智子・明仁夫妻に与えた可能性を思い立った。
 天皇家は、この種の養子縁組の法的な裏付けがないので、まず公表されることはないはずだ。
 
 胞状奇胎出産が1963年、秋篠宮誕生が1965年。時間的に整合性がある。
 その後、安西は、昭和電工の一重役にしては異例の出世を遂げ、重要な名誉職を歴任する。状況証拠から、秋篠宮の実父は安西だと断定できるのではないか。
 
 ついでについでに、美智子氏が胞状奇胎を出産した1963年とは、どのような年だったのか?
 それは、史上最悪の大気圏核実験の年だった。
 https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-02-05-14.html
 美智子氏だけではなく、北半球の妊婦の非常に多くが核実験放射能由来の胞状奇胎を出産したのだ。フクイチ事故の年でも同じ事が起きたが、日本政府は情報を統制し、隠蔽した。
 秋篠宮は、大気圏核実験の産物だったのだ。