「いま知って欲しいこと」 木内鶴彦の臨死体験(2012/11/09)
自分が子供だったときに千曲川に転落しそうになった。そのとき、「危ない!」という声が聞こえたことで助かった。いったい、誰が声をかけてくれたのか?
臨死体験中、声をかけてくれた人物を探しに過去に遡った。
すると、「危ない!」と言ったのは、未来から来た自分自身だった。(17分あたり)
https://www.youtube.com/watch?v=1r9CHef0S4Q&list=PLKD0nVFDiQb0ByakqqabJiH-jfWfwUhbM&index=8&app=desktop
私は、二十歳くらいのころ、「現実世界のリアリティは、実は茶番劇=シュミレーションにすぎないのではないか」と思っていた。
こんな想像を誰かに語っても、当時は「精神病院に行け」と言われるのがオチだったので、誰にも話すことはなかった。
なぜ、そんなことを考えたのか? といいうと、私の家は、ずいぶん心霊現象の活発な家で、頻繁にラップ現象は起きるし、夜中に誰かが勝手に扉を開ける音がして、見に行っても誰もいないわ、家に来た行者が「呪われた土地だ、すぐに立ち去れ」と警告するわで、神経の細い人には耐えられないような家だった。
私が、裏庭のイチジクの木を伐採して燃したときは、もの凄い霊障が起きて、大変な目に遭った。そこには、江戸時代からの小さな鎮霊祠があったらしい。
そんな心霊ハウスに育つと、自分自身にも、いろいろ変な能力が身について、例えば、ぼーっとしているとき(アルファー波が出ているとき)、未来に起きる事態が鮮明に見えることがある。
今の家に引っ越すときも、半年くらい前から、鮮明なビジョンが見えていて、その通りになった。
311の半年ほど前、車を運転中に凍結路面でスピンしてひどい事故を起こすビジョンも見えた。そして、それは311の半月前に、その通り実現した。
おかげで宏観地震予知に取り組んでいながら311の予知情報を出すことができなかった。
それから自動二輪車免許を再取得しているとき(17歳の二輪自爆事故で免許返納していた)、自分が青色のバイクに乗って、トラックの後輪に巻き込まれて轢き潰されるビジョンが見えた。
このときは、自分のビジョンが実現することが分かっていたので、ただちに免許取得を停止し、青いバイクも買わず、運命の日を待ったが、それは、なぜか起きなかった。
「自分には、未来を予知する能力がある」
それはなぜか? と考えてゆくと、降りかかってくる運命は、実は自分の心が作り出している茶番劇ではないか?
と、二十歳くらいのころ、毎日思っていたことの真実性が増してきた。
「やはり、現実のリアリティは、自分の心が創造しているものだった」
と、確信が深まった。
対象世界は自分の心のシュミレーションである。
とともに、もう一つの不可解な原理。時間の不可逆性についてだが、これは、おそらくエントロピーという宇宙の不可逆性原理の属性ではないかと若い頃からアタリをつけていた。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1079587.html
http://kamakura.ryoma.co.jp/aoki/paradigm/time.htm
バシャールは、「時間には向きがない、過去も未来も、今の中に存在する」と述べている。
https://ameblo.jp/yk-happy-days/entry-12420114292.html
そこで、冒頭に紹介した、木内鶴彦の臨死体験だが、ここに「未来が過去に関与した」 という事例がはっきりと述べられている。
つまり、我々は、実は時間の旅人でもあった。
バシャールは、我々は不可逆の絶対時間に生きているわけではない、過去も未来も自由に変えられると述べている。
これは、実に有り難い説である。
私が、自分の人生のなかで犯したたくさんの失敗も、これからの心の持ちようで、それを帳消しにし、なかったことにできるのだから、心の中の忸怩たるモヤモヤが晴れるというものだ。
ここでカルマ論を持ち出すと、我々が、自分の失敗体験をカルマとして背負うのは、それが「間違ったことだった」と自分の心が認識した瞬間であり、それは、カルマが完全に昇華されるまで、生涯どころか、次の未来生まで拘束してゆくのだ。
つまり、自分の心が納得して、カルマを消化できるまで、いくつもの人生にわたって、カルマを克服してゆく運命を、自分自身の罪の意識によって課せられるわけだ。
ところが、木内鶴彦が示した過去は、未来からの関与によって変化した。
千曲川に転落しそうになったとき、背後から「危ない!」と声をかけたのは、未来で臨死している自分自身だった……というわけだ。
つまり、未来が過去を変えた事例というわけで、これは、時間というものが、実は不可逆ではなく、現在のなかに同列に存在していることの証明である。
人は、いつでも、過去にも未来にも行けるのかもしれない。行って、現在の立場から関与し、変化を与えられるのかもしれない。
http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/?mode=m&no=2276
木内鶴彦は、臨死中に、千年前、造営中の土佐神社の柱に「つる」と落書きし、それが発見されたそうだ。
まあ、自分の動かしがたいカルマも、過去に遡って、未来から関与して、なかったことにできるなら、そんな有り難いことはない。
ナチス・ホローコストも、信長の比叡山大虐殺も、T4作戦も、障害者不妊化の優生保護も、いずれなかったことにできるかもしれない。
木内の臨死体験から学べるものがあるとすれば、「過去や未来は絶対ではない」ということであり、「時間は絶対ではない、過去にも未来にも、我々は関与する力を持っている」という真理に気づくことかもしれない。
そして、我々の向き合っている対象世界というものは、実は、その属性が我々なのではなく、逆に、我々の心の属性であり、心の持ち方次第で、自由に世界を変えることができるのだということ。
これを別の見方でいうと、釈迦は、「我々は無量大数の世界を次々に移動している」と語り、つまり、このことは、我々が、そのときの心のあり方で、無限に変化する世界を移動しているという「パラレルワールド」の世界にいることを意味している。
https://www.carry-ann.com/single-post/2018/05/03/E38391E383A9E383ACE383ABE383AFE383BCE383ABE38389E381A8E381AFEFBC9FE38390E382B7E383A3E383BCE383ABE3818CE8AA9EE3828BE3808CE5908CE69982E381ABE5AD98E59CA8E38199E3828BE4B8A6E8A18CE78FBEE5AE9FE4B896E7958CE3808DE291A2-1
我々は、自分の心が作り出した仮想現実の世界を、ときに毎秒、数千数万も移動している可能性がある。
我々が移動するパラレルワールドは、億や兆の単位を超えている。
なぜ、移動するかといえば、そのエネルギーの正体は「カルマ」である。
だから、ポジティブに、人の笑顔を求めて生きてゆこう。