第五世代通信規格の主導権を巡って、アメリカと中国の間で熾烈な駆け引きが続いていて、ニュースとしては面白いのだが、この新規格がもらたす意味について、わかっている人は少ないのではないだろうか?
簡単にいえば、通信速度が従来の100倍になる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC5%E4%B8%96%E4%BB%A3%E7%A7%BB%E5%8B%95%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
100倍になることで何が起きるのか? いろいろ、目出度い予想をする人が多く、なかには、スマホの持ち歩きが不要になると言う人がいる。
https://www.youtube.com/watch?v=Pwtnro2BR5Q
おいおい、オラは、スマホが不要になるどころか、一度も保有したこともない。1990年代に、外回りの仕事上、ポケベルから始まって、緊急時の対応に備えて、移動通信の携帯を購入してから、そのまま使っていて、IDOからKDDI・AUと変わっていったのだが、スマホについては、欲しいと思ったことも一度もない。
スマホで可能なネット上の仕事は、パソコンで可能だし、パソコンの方が、画面も大きくて、仕事の自由度も桁違いに大きくて、ずっと扱いやすいのだ。何より、Windowsの膨大なフリーソフト資産を自由に利用できるしな。
こんなブログを書いていても、スマホじゃ無理だ。一太郎も使えないし……。
持ってない、必要性を感じたこともないスマホが不要になると言われてもな……。
10年前くらいの携帯は結構便利で、ネットの接続も可能で、ツイッターなどにも対応していたので、出先から、しょっちゅう携帯でツイッターを更新したものだ。
ところが、スマホの普及に合わせて、ネットの接続が、まるで嫌がらせのように不自由になり、今では、事実上、WEB接続機能には何の意味もない。
これは、スマホにシフトさせるために、無理矢理、携帯WEBの性能を落としたものに違いない。今では、スマホ以外では移動しながらネットを参照できないのだ。
ちょうどIphonが、古い世代を使えなくして、新しいスマホを無理矢理購入させる工作をしているのと同じで、私のような懐古主義者にとっては、実に不愉快千万、やり口が汚い。
だから、意地になってガラゲーにこだわっていて、前のソニーは6年間使用して見るも無惨にボロボロになったものだ。バケツに落としたので保険で変えた京セラもレベルの低いワープロにうんざりしながら、すでに3年でボロボロになった。
携帯を30年近く使っていて、本当に必要な機能は、電話とメールだけなのだ。アプリもたくさんついてるが、ほとんど無意味な長物ばかりだ。
スマホに変えたとしても、それで革命的に便利になることはありえないし、帰宅して自宅のパソコンを見れば99%は間に合う。
そんなスマホが、必要なくなると言われてもな……。
通信速度が100倍になったって、個人が消化できる情報量など、たかがしれていて、今でさえ多すぎるくらいだ。
端末さえあれば、社会の至る所に高性能のコンピュータがちりばめられていると同じとはいうが、コンピュータは他人の作った情報であり、自分自身が作り出した情報世界ではない。
だから、自分に必要な情報は、自分で探すしかなく、他人のフィルターが加わったネット情報などより、自分の目、自分の足、自分の脳味噌で紡ぎ出した情報こそが、本当に自分に役立つ情報である。
むしろ、スマホ依存症になったりすると、自分で見いだす、生み出す情報が、どれほど大切なものか、忘れてしまうことになりかねない。
それに、大切なことを忘れている。
人生に本当に必要なものは何か? という視点である。
私が還暦を超えて生きてきて、人生の奥義、真価を無理矢理ひねり出すとすれば、それは、たぶん、心がワクワクする情報を手に入れることである。
自分が、どんなときにワクワクできるのか、普段から一生懸命考えていないと、本当のワクワク感→ 人生の喜びは得られないのだ。
果たして、スマホは、私にワクワクする情報を与えてくれるだろうか?
残念ながら安室ファンとは無縁な私にとって、安室ステージのチケットが手に入ることに何の関心も持てないし、ワクワクもしない。
いかなる意味でも、ネット上の情報で、私をワクワクさせるものは、ほとんどない。
私が本当にワクワクできたのは、一人で厳冬の日本アルプスに出かけたときだ。
このとき、外部からの情報を遮断された世界で、たった一人の孤独感に耐えながら、一歩一歩、厳寒の雪山に足を踏み入れ、雪洞を掘って寝泊まりし、マイナス20度の世界で、ろうそく一本の灯りに頼って夜を過ごす。
明日は、本当にルートを誤らずに予定通りのルートをこなせるだろうか? 雪のトラバースで滑落せずにすむだろうか? と怯えながら、緊張感に満ちた時を過ごす。
見るもの聞くもの、雪山での、あらゆる体験に新鮮さが満ちていて、日焼けと凍傷でボロボロになった顔になっても、人生最高の充実感、ワクワク感を堪能できたものだ。
なかなか、私と共通の趣味や感性を持つ人は少なくて、私はいつも孤独だったが、それでも、雪山の充実があったから、私は自分の人生に悔いはない。情けない話だが、この年になっても、結婚もしたこともないし、子供もいない。
この年になると、人生は未来よりも、過去の思い出にすがって生きていることが多いが、それでも百名山の完登や厳冬期アルプスの縦走の思い出は、過去を振り返っても懐かしく、満足感を与えてくれる。
今、スマホに夢中になって、アイドルを追いかけて、歓声をあげて、はしゃぐような喜びを共有している若者たちは、人生の黄昏を迎えるとき、何か忘れ物をした気分にならないだろうか?
何か、もっと大切な時を見落としていたのでは? と後悔しないだろうか?
そもそも、釈迦は、人生の本質を「因果応報」であると説いた。(スッタニパータ)
「あなたの人生は、あなたが与えたものが、あなたに還ってくる」
というわけで、私から見ても、人生にこれ以上の真理は存在しないように思える。
自分が与えたものが自分に還ってきたときのワクワク感は、とても楽しく充実したものだ。
私は、自分の人生で、他人に与えたものは本当に少なくて忸怩たる思いだが、誰かに操られるのではなく、自分の意思で、自分の人生を渡ってこれらたことには満足している。
今、思う後悔は、「どうして、あのとき、他人に優しくできなかったのだろう」という、我が身を大切にし、人に与えることをケチったことへの後悔である。
だから、私には還ってこないのだ……。
話が逸れてしまったが、今の百倍のスピードで情報通信が拡充したとしても、我々が、それによって何か新しい、意味のあることを得ることができるのだろうか?
私は、全然そうは思わない。
国家権力にとっては、民衆支配管理の機能が百倍になるのだから目出度いことだろう。しかし、我々にとっては、次から次へと猛烈なスピードで襲ってくる情報の洪水を、消化できるとは思えず、つまり「情報に溺れる」という、水難がやってくるとしか思えないのだ。
還暦まで生きていると、人生の情報量は、もの凄いが、本当に人生に役立つ情報というものは、実は数えるほどしかないことを思い知らされる。
ものごとには「本質」と呼ぶエッセンス=抽象があって、それは、もの凄い数の事象から共通点を抜き出したものだと考えればよいのだが、無限に無数に、(無量大数)あっても、それらの本質は、手に取れるほど、わずかなものであり、必要にして十分な本質を見抜けばよいだけのことだ。
そうした視点からは、情報がたくさんあればいいってもんじゃない。人生に本当に必要な情報だけあればいいのであって、今の百倍の情報を同じ時間で得ることができたとしても、それを消化できる精神がなければ何の意味もないのだ。
5Gシステムが完成して、社会のあらゆる場所、場面に、高性能の端末があって、本家のスパコンが、それを統括する仕組みができたとしても、本当に大切なことは「自分にとって必要な情報が必要なだけ得られるか」という視点だけなのだ。
社会は、猛烈に進化しているように見えるが、私の目からは、それらは小手先の技術ばかりで、人生の本質を変えるようなものは何一つない。
5Gシステムでも同じで、AIは長足の進歩を遂げるだろうが、それを理解できる人間の心の方は、決して進歩しない。
しかし、何度も書いているように、EMP爆弾一発で、我々は原始の野山に、裸ひとつで放り出されるのだということを忘れてはいけない。
そのときスマホはない。5Gもない。
あるのは、ただひとつ、「因果応報」の世界である。
簡単にいえば、通信速度が従来の100倍になる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC5%E4%B8%96%E4%BB%A3%E7%A7%BB%E5%8B%95%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
100倍になることで何が起きるのか? いろいろ、目出度い予想をする人が多く、なかには、スマホの持ち歩きが不要になると言う人がいる。
https://www.youtube.com/watch?v=Pwtnro2BR5Q
おいおい、オラは、スマホが不要になるどころか、一度も保有したこともない。1990年代に、外回りの仕事上、ポケベルから始まって、緊急時の対応に備えて、移動通信の携帯を購入してから、そのまま使っていて、IDOからKDDI・AUと変わっていったのだが、スマホについては、欲しいと思ったことも一度もない。
スマホで可能なネット上の仕事は、パソコンで可能だし、パソコンの方が、画面も大きくて、仕事の自由度も桁違いに大きくて、ずっと扱いやすいのだ。何より、Windowsの膨大なフリーソフト資産を自由に利用できるしな。
こんなブログを書いていても、スマホじゃ無理だ。一太郎も使えないし……。
持ってない、必要性を感じたこともないスマホが不要になると言われてもな……。
10年前くらいの携帯は結構便利で、ネットの接続も可能で、ツイッターなどにも対応していたので、出先から、しょっちゅう携帯でツイッターを更新したものだ。
ところが、スマホの普及に合わせて、ネットの接続が、まるで嫌がらせのように不自由になり、今では、事実上、WEB接続機能には何の意味もない。
これは、スマホにシフトさせるために、無理矢理、携帯WEBの性能を落としたものに違いない。今では、スマホ以外では移動しながらネットを参照できないのだ。
ちょうどIphonが、古い世代を使えなくして、新しいスマホを無理矢理購入させる工作をしているのと同じで、私のような懐古主義者にとっては、実に不愉快千万、やり口が汚い。
だから、意地になってガラゲーにこだわっていて、前のソニーは6年間使用して見るも無惨にボロボロになったものだ。バケツに落としたので保険で変えた京セラもレベルの低いワープロにうんざりしながら、すでに3年でボロボロになった。
携帯を30年近く使っていて、本当に必要な機能は、電話とメールだけなのだ。アプリもたくさんついてるが、ほとんど無意味な長物ばかりだ。
スマホに変えたとしても、それで革命的に便利になることはありえないし、帰宅して自宅のパソコンを見れば99%は間に合う。
そんなスマホが、必要なくなると言われてもな……。
通信速度が100倍になったって、個人が消化できる情報量など、たかがしれていて、今でさえ多すぎるくらいだ。
端末さえあれば、社会の至る所に高性能のコンピュータがちりばめられていると同じとはいうが、コンピュータは他人の作った情報であり、自分自身が作り出した情報世界ではない。
だから、自分に必要な情報は、自分で探すしかなく、他人のフィルターが加わったネット情報などより、自分の目、自分の足、自分の脳味噌で紡ぎ出した情報こそが、本当に自分に役立つ情報である。
むしろ、スマホ依存症になったりすると、自分で見いだす、生み出す情報が、どれほど大切なものか、忘れてしまうことになりかねない。
それに、大切なことを忘れている。
人生に本当に必要なものは何か? という視点である。
私が還暦を超えて生きてきて、人生の奥義、真価を無理矢理ひねり出すとすれば、それは、たぶん、心がワクワクする情報を手に入れることである。
自分が、どんなときにワクワクできるのか、普段から一生懸命考えていないと、本当のワクワク感→ 人生の喜びは得られないのだ。
果たして、スマホは、私にワクワクする情報を与えてくれるだろうか?
残念ながら安室ファンとは無縁な私にとって、安室ステージのチケットが手に入ることに何の関心も持てないし、ワクワクもしない。
いかなる意味でも、ネット上の情報で、私をワクワクさせるものは、ほとんどない。
私が本当にワクワクできたのは、一人で厳冬の日本アルプスに出かけたときだ。
このとき、外部からの情報を遮断された世界で、たった一人の孤独感に耐えながら、一歩一歩、厳寒の雪山に足を踏み入れ、雪洞を掘って寝泊まりし、マイナス20度の世界で、ろうそく一本の灯りに頼って夜を過ごす。
明日は、本当にルートを誤らずに予定通りのルートをこなせるだろうか? 雪のトラバースで滑落せずにすむだろうか? と怯えながら、緊張感に満ちた時を過ごす。
見るもの聞くもの、雪山での、あらゆる体験に新鮮さが満ちていて、日焼けと凍傷でボロボロになった顔になっても、人生最高の充実感、ワクワク感を堪能できたものだ。
なかなか、私と共通の趣味や感性を持つ人は少なくて、私はいつも孤独だったが、それでも、雪山の充実があったから、私は自分の人生に悔いはない。情けない話だが、この年になっても、結婚もしたこともないし、子供もいない。
この年になると、人生は未来よりも、過去の思い出にすがって生きていることが多いが、それでも百名山の完登や厳冬期アルプスの縦走の思い出は、過去を振り返っても懐かしく、満足感を与えてくれる。
今、スマホに夢中になって、アイドルを追いかけて、歓声をあげて、はしゃぐような喜びを共有している若者たちは、人生の黄昏を迎えるとき、何か忘れ物をした気分にならないだろうか?
何か、もっと大切な時を見落としていたのでは? と後悔しないだろうか?
そもそも、釈迦は、人生の本質を「因果応報」であると説いた。(スッタニパータ)
「あなたの人生は、あなたが与えたものが、あなたに還ってくる」
というわけで、私から見ても、人生にこれ以上の真理は存在しないように思える。
自分が与えたものが自分に還ってきたときのワクワク感は、とても楽しく充実したものだ。
私は、自分の人生で、他人に与えたものは本当に少なくて忸怩たる思いだが、誰かに操られるのではなく、自分の意思で、自分の人生を渡ってこれらたことには満足している。
今、思う後悔は、「どうして、あのとき、他人に優しくできなかったのだろう」という、我が身を大切にし、人に与えることをケチったことへの後悔である。
だから、私には還ってこないのだ……。
話が逸れてしまったが、今の百倍のスピードで情報通信が拡充したとしても、我々が、それによって何か新しい、意味のあることを得ることができるのだろうか?
私は、全然そうは思わない。
国家権力にとっては、民衆支配管理の機能が百倍になるのだから目出度いことだろう。しかし、我々にとっては、次から次へと猛烈なスピードで襲ってくる情報の洪水を、消化できるとは思えず、つまり「情報に溺れる」という、水難がやってくるとしか思えないのだ。
還暦まで生きていると、人生の情報量は、もの凄いが、本当に人生に役立つ情報というものは、実は数えるほどしかないことを思い知らされる。
ものごとには「本質」と呼ぶエッセンス=抽象があって、それは、もの凄い数の事象から共通点を抜き出したものだと考えればよいのだが、無限に無数に、(無量大数)あっても、それらの本質は、手に取れるほど、わずかなものであり、必要にして十分な本質を見抜けばよいだけのことだ。
そうした視点からは、情報がたくさんあればいいってもんじゃない。人生に本当に必要な情報だけあればいいのであって、今の百倍の情報を同じ時間で得ることができたとしても、それを消化できる精神がなければ何の意味もないのだ。
5Gシステムが完成して、社会のあらゆる場所、場面に、高性能の端末があって、本家のスパコンが、それを統括する仕組みができたとしても、本当に大切なことは「自分にとって必要な情報が必要なだけ得られるか」という視点だけなのだ。
社会は、猛烈に進化しているように見えるが、私の目からは、それらは小手先の技術ばかりで、人生の本質を変えるようなものは何一つない。
5Gシステムでも同じで、AIは長足の進歩を遂げるだろうが、それを理解できる人間の心の方は、決して進歩しない。
しかし、何度も書いているように、EMP爆弾一発で、我々は原始の野山に、裸ひとつで放り出されるのだということを忘れてはいけない。
そのときスマホはない。5Gもない。
あるのは、ただひとつ、「因果応報」の世界である。