気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

60年昔の若者の青春旅行は・・・前編

2019-04-20 06:35:19 | エッセイ

ケチンボ青春旅行

 

桜便りが聴こえてくる季節を迎えていた。

  東京のオフィス街の中心にある東西ビルの屋上に昼時の休みに大勢の社員どもが一斉に太陽の陽射しを浴びに屋上に花が咲いたかの様に集っていた。そこには入社数年が経った或る会社の若手五人組もいた。

「ことしも、行くか‥?」「こんどは、二泊三日で?」

「行こうよ」「車は借りられるか」「ひとり、少し上げて千円でどうかな」

「行先は何時もの通り、その日の朝、多数決で・・」「何号線だけを・・」

「じゃ~行くか・・。誰を幹事にする~」「猿ちゃんでどうかな」「ちゃんと、するかな」

と広い屋上の手すりに寄りかかって今年の作戦会議が決まった。 

欠席裁判で幹事に決められた猿ちゃんこそ、はた迷惑だ。出張ではしょうがない。これが我々のルールだ。致し方なし。

 

 吾々五人組は同期入社して五年になる中堅の真っただ中にいるクラスである。  結婚もそっちのけで遊びに更けているのはそれだけ魅力があるからだ。      遊びとは、大型連休を如何に安い費用で旅行を楽しむかである。

吾々の規則はまず幹事を決める。幹事に予め旅行資金を預ける。壱銭なりとも隠し現金携帯は厳禁と厳しく守る。行き先不明となれば当然泊りも不明となる。      この旅行の醍醐味はここにある。

車の燃料や昼飯も飲料も全て幹事の一存で支給される決まりの「ケチンボ青春旅行」である。

この物話は昭和39年の東京オリンピックが終わり日本中の街々が落ち着きを取り戻した頃の長閑な平和な当時の若者の五人組が織なした青春物語である。

旅に出発する吾々にとっては、いつものことで気にしていない。         だが、周りは噂を耳にして余りにも滅茶苦茶な無鉄砲だと思うらしく気になるようだ。

明日から大型連休が始まる前の日、社員食堂から昼食を終えて戻ってくると、待ち構えたかのように

 「ドライブに行くそうだけど何処へ行くのだい」

課長は書類を見ながら聞いてきた。

 「まだ、決めていません」

書類を机の上に置きながら

 「北か南くらいかは決まっているだろう」

 「それも、決まっていません」

噂を耳にしていたのだろう一瞬呆れた顔を・・直ぐに笑顔で・・

 「気を付けて 元気に 行って来い・・」

 

空は五月晴れ。

全員が駐車場に集合した。ガソリンは満タン万事往来。

運転は一人50㎞で交代。

さて、行き先は・・・国道何号線を走るかでその方向にある泊まる温泉地が決まる。

弥次喜多の時代で言うならば甲州街道かそれとも中仙道と来るが、現代のいま流では国道2号線にするか、それとも国道4号線にするかで日本列島を南北に大きく分かれることになる。

誰言うとでもなく

 「何号線を走る どうする」

 「17号線を走ろう 信州は春がいいぞ~」

 「決まり 他になければ国道17号線で決まりだ」

何時もの通り誰もが議事進行して決めるのが吾々のやり方だ。

 「じゃ~決まり。俺が運転するよ」

こうして手際よく、それぞれの役割分担が決まり車は5人を乗せて人通りの少ない、静かなオフィス街をスタートした。

車内で資金の千円が幹事の猿ちゃんに手渡された。

当時の貨幣価値は安宿で一泊二食付きで千円あれば泊まれたものだったが、この旅行はこの旅行の一切合切を千円でしかも二泊で仕切るのだからひと苦労である。 

この旅が楽しくも苦しくも全てが幹事の腕一本にかかっている。

集合時間は朝の7時でそんなに早くはない。しかし、2人が独身寮住まいである。と、言うことは当然朝食抜きである。残り3人は親元出身だが、ひとりのみ朝食にあずかっていた。幹事は独身寮で主(ぬし)になりかかっていた。         誰もが当然、早い昼食にありつけるものと期待をしていた。

道路沿いの店は「準備中」の看板から「商い中」の看板に表返しなっても一向に声が掛らない。

 「昼飯は何時になる・・・のだ・・」

遠慮がちに語尾が消えるような低音でひとりが我慢ならず声をだした。

ひと言、後部座席にいた猿ちゃんの声で

 「パス。なし」「え~何で」「予算に入れてないので」

偉いのに幹事を欠席裁判で採決してしまったものだと悔やんだが時は遅い。

 「その代わり寮の小母さんに残りごはんで、握り飯を握って貰っておいたよ」

 「それを早く言えよ」「どうしようかと思ったよ」

刺々しくなりかけた雰囲気が一瞬にして穏やかな空気に戻った。

県境の大きな川に架かる戸田橋を渡り埼玉県にはいった。

そろそろ、車から降りて屈伸運動をしないと筋肉硬直の恐れがある。国民車と言われた車だけに実にコンパクトにできている。ところが、搭乗員五人の中に平均より背の高いものが若干二名いた。車が小さいのか、それとも人が大きいのか分からない。総員で背の高低を相殺すれば客室容積はバランスがとれている筈だと下らんことを考えていた。

車は快調に信州の何処かに向かって走っている。遠くに来れば来るほど空気は澄んでいるのが良くわかる。花粉症と言う言葉がまだ知らない時代の話だ。国道沿いにはラーメン店などは何処を探しても視界に入ってこない。仮に視界に入ってきたとて幹事は「昼食パス」のひと言だし・・・。でも「握り飯の手配とはお見事」流石仲間が選んだだけのことはあると、ひとりほくそ笑むだ。勝手なもんだ。下げたり上げたりとは大変だ。  

信州に仕事で来るところはオフィス街が立ち並ぶ都会で長閑な処は少ない。

「ドライバー交代にしょう」のひと声で車を道端に止めた。休息に止めた辺りは農家の庭先なのか山林の一部なのか都会育ちの若者には区別がつかない。

  「おい、柿がなっているよ。失敬してもいいよな・・」

  「あそこの農家の庭だよ。しかも、渋柿だよ」

と地方出身の猿ちゃんが教えてくれた。

  「誰も咎めたりしないが、恥かしいよ」

 

「前編の終わり」

(続編で終わり 4/27)

 


「ケチンボ青春旅行」は誰が書いたの・・・

2019-04-14 14:14:47 | エッセイ

 この頃の気象は落ち着きがない。

春の陽射しが早々と訪れたかと思えば、寒の戻りか、雪が舞い降りたりと年寄りには着るものはもとより体調の調節に苦労する。

言い訳がましいが、この気象のせいかブログへの筆が進まない。 単に、頭の回転が鈍くなった所以にすぎないのに・・。 往生際の悪いことだ。

そこで、ふと、思いついた。 実は遊び心で作った、もうひとりの自分がいることに気がついた。 そいつが、陰に隠れて書いた拙作がある筈だ。

そいつは、今から5年程前から私の部屋に間借りをしていた。 名は何と言ったかな~。 そう~そう「名前はある」が・・・。 いま、何処にいるかは知らない。 

俺の青春時代は前回の「東京オリンピック」が開催された頃だった。 そいつは、若いのに俺の部屋でその頃の話をよく聞いていた。 だから書く舞台はどうしても古いのだ。 そう言えば書き散らかした原稿があった。 ブログ投稿の数回分はある。

本人は留守なので、無断拝借をしよう。 

題は「ケチンボ青春旅行」

この話は小説風に書いてあるが、実話を元に書いたフイクションであり、遠足の感想文レベルである。 リリーフに登場した投稿である。

いま頃言うのは不謹慎だが、いま気がついた。

本文を、どうすればブログに転写して投稿できるか、調べますので暫しお時間を頂きたくぞんじます。できる筈ですが・・・。

終わり

 

 


「別れ」と言う文字の響きに・・・

2019-04-05 20:24:25 | エッセイ

 いつものながら夕食をふたりして妻の仕事である子供らの話を聴きながら終える。 この頃の日課になっている。

 とくに、今日は中学時代の友人からも電話を頂き話が弾んだ。 

 部屋に戻り気になっていた本立ての隅に束ねてあるメモを読み返した。 

 メモを読んでいると、家を出るとか、考えを切り替えるとか、人と違うとか・・・このメモは単身赴任を始めた35年前の頃にしたためたメモのようだった。         

 単身赴任は家族との別れである。娘の米国留学もしかり別れだ。そして別れはやはり悲しいものだ。だからこそ、それを避けるには、自分を励ましてくれる者は誰もいない止む無く自分を自分で励ますしかなかった。 それが無意識に私は当時メモを選んだのだと思う。このブログにもメモと題し投稿をした気がする。それはこのような切り口ではなかったと思う。

 この4月の末に齢84が85歳の誕生日を迎える。迎えるのも84からの別れだ。まだお迎えは早いと思うがこのお迎えも人生のお迎え即ち人生のお別れである。

 その頃のメモには・・・

朝顔の「花が美しいのは 短い命でも ただ、一筋に咲いているからだ」と言う。人も「懸命に生きてこそ 素晴らしい人生である」と思う。

「夫婦って、一緒に暮らしてこそ 夫婦ですよね」とテレビドラマで言っていた。15年も単身赴任で離れていた夫婦は何て言うのだろうと思う。

「青春の夢は果てないが 老いての夢には限りがある」が、老人とて「老いても、心は青春であり続けたいものだ」自ら青春と別れることはない。

「頭で考えるとともに 心でも考えてみよ!」と言いたい。頭は別れても心までも別れることはない。

 

会社人生を終え、赴任地から去る数日前に洗濯をしていた。だが、如何した訳か動きが可笑しい。今にも止まりそうな音を立てながら・・・。

私は最後の荷物をダンボール箱に汗をかきかき詰め込んだ。いかにも洗濯機に背を叩かれ励まされているよな音を聴きながら荷物をつくった。最後の単身赴任との永遠の別れを・・・

「後 少し 動いてくれよ 洗濯機」

単身赴任も後数時間で終えるよ・・・

「君も 後 少しだと励まされ 」

もう少しで荷物詰めが終えるよ!すべたが終えるよ!

現役の頃の別れは寂しかった。これを払拭できたのは仕事でしかなかった。

雑談を乱筆した。

終わり

 


忘れかけた想い出を唄に求めて・・・

2019-03-27 00:58:27 | エッセイ

眼の前の時計が夜中の1時を指している。

もう直ぐ平成が終える。懐かしい昭和がまたひとつ遠くなった気がする。 この4月で85歳になる。だが、喜ばしくも悲しくもない。歳が老いて行動半径が狭くなると、小さな忘れかけた想い出に追憶を重ね心静かにしているものだ。

10日ほど前に階段で足を滑らせ肋骨を骨折してしまい貼り薬のせいか眠れず、夕食後の仮眠も手づだい眠れず机に座り昭和の唄を聴いている。随分久しぶりだ。

吾々の時代は歌声喫茶の時代だった。東京の新宿や銀座の電通通りのドイツ歌声バーなどよく行ったな~。後楽園では都市対抗応援に行って、その前に歌声にと…音痴揃いが良くいったものだ。いまだに代々木には昔のままであるようだ。渋谷にも・・。

「月の砂漠」が聴こえてきた。中国から引き揚げて来て小学校の卒業劇で聞いた甘い感じを味わった覚えがある。

引き揚げ船のデッキの上で聞いた「帰り船」などは過酷なことを思いだすので寂しさを呼び覚ます。「上高地」などは青春お謳歌した志賀高原を想い出す歌声が夜空に木霊する夏の合宿など少しの時間でしたが心静かなひと時を過ごせました。 

家の近くの桜並木がこれから満開を迎えると言うのに歩行が厳しく2階の窓から梢だけで満足するしかない。早く横になろう。疲れた。

時計の針は丁度2時を指している。

終わり 

 

  


この頃、動きが悪い・・・自由に・・

2019-03-16 00:19:00 | エッセイ

 数日前におない年の友人の訃報が届いた。彼とは入社年次は異なったが中國大陸からの引き揚げ者と言う境遇が呼ぶのか現役を去ってからも旧交を温めてきた。何か寂ものだ。教会で最後のお別れがあった。だが、残念ながら持病のためそこまで行けない。彼には短い手紙を書いた。「・・語り尽くせる想い出を残せて呉れて・・ありがとう。さようなら・」と・・。

 もう少しで夜の9時だ。ここ横浜なのに地震の振動が小刻みに可なり頻繁に昼から続いている。工事の地響きでもあるまいし・・・?では何だろう。。。不気味だ。本ちゃんの地震かな・? 地階では妻がクリスマス会での英語劇を控えてもう特訓をしている賑やかな騒音(失礼)が下から聴こえている。「もう、今年も終わりか・・」ひとりつぶやいた。いつもなら応援をしてゃったのに・・・可哀想だが、もう無理だ。

 そんな事を考えながら手と眼はある物を探しに眼の前の物を退かしながら「つい先ほどここにあったのに・・」と、ひとり事を口しながら探している。 

  この原稿は昨年の12月中旬頃に友人の訃報に接し書き記したものである。

もう、今日が終わり明日を迎える時刻である。眼の疲労と手足の筋肉の疲労が強く継続して書くことが厳しくなってきた。穂に継ぎたすが如く書き足すのも面白い。あれから3月が過ぎた。この間に妙なことがあった。珍しく携帯がなった。中学時代の友人のS君の名前だったので 電話をした。しかし、「もう、つかわれていません」とメッセージが流れてきた。何遍も・・・。その友人もいつの間にか「さよなら」も告げずに去っていった。 

 自分に置き換えてみた。5年前に「自分史」は本にした。先祖の家系図も何とか調べられた。そして、いまは墓所を整理している。少子化と考え方による避けられない「墓守」そして「墓じまい」がある。勉強をさせられた。

あとひとつやり残しているものがある。来月で85歳を迎える歳になる。

もう、時計の針が明日を指している。

数日前に妻から良いニュースを聞いた。サンフランシスコにいる娘家族が夏休みに里帰りすると言う。孫娘とは3年前に背の高さもまだ160cmぐらいの頃に別れたはずだ。いまでは、167cmのバスケの選手になっている。会うのが楽しみだ。

逢う日まで、体調を・・・。では、休みますか。

終わり