気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

孫にとって「人の優しさを知る旅」でした

2019-08-26 19:34:14 | エッセイ

 今日は、・・雨は降らないようだ。

blogを始めて確か5年になるかな? そして、休んでから4ヶ月が過ぎた。

残された日数はあと3日だ。 何が、入院が・・・? 何てことはないよ。 白内障の手術だよ。 でも、制約が多すぎる。 済ませておかないと・・と、ひとり天気も良く久し振りに杖を片手に医者に歩いて行った。 バス亭を通り過ぎようとして、いつもと違う風景に接した。 いつも鎮座していた「止まり木」の椅子がいつしか消えていた。 主はもう亡くなられたのかな。 合掌! 桜並木通りも日差しを遮り暗く感じた。

 当分、顔も風呂も床屋も行けないと、言う。 やっと、見つけた「床屋」でない「カット屋」を見つけておいた。 行くか~。タクシーに電話を掛けた。 直ぐにタクシーがきた。 「近すぎてすみません・・」と言いながら、ふらつく身体で店の前で降りた。遠回りをして300mしかない。でも、果たせたから感謝しなくちゃ・・。

 これで遅くとも10月中旬には戻れそうだ。

 

 元気づけに来日した娘と孫娘との上州の草津えの旅は人の心の温かさをしみじみと味合わさせてくれた短い「今も残る日本古来の人の優しさ」でした。

 横浜から東京の中心を車椅子での貫通は電車にせよ車にせよ列車の出発時刻に間に合わせるのは至難の技だ。 だがあった。前泊と言う策だ。 この細かい手配をサンフランシスコの近郊に住む娘がPCひとつで海外でできるとは驚きの時代がきたものだ。

 最初に娘たちが感激した人の優しさは我々を迎えた駅長さんが

「車椅子のお客様」ですので、タクシーは必要と判断し混みますので予め押さえておきました」と、暖かいお出向かいの精神でした。

乗り継いだタクシーの運転手さんからは

「おじいちゃんには元湯を見せてあげてください。だが、絶対にひとりにさせてはいけませんよ」「雨がふります。降られたら着替えられません。頂いた雨傘ですのでお持ちください」と言うとお釣りと一緒にビニール傘をくれました。

 温泉の源泉の元湯を見終え

タクシーを呼ぼうとしたが、バス・ターミナルまで歩かないと来て貰えない。教えられたとおり路の悪い山道を車椅子を押しながら探した。 列車の出発時刻が迫る。 登り下りの大きい地形だ。しかも、路を間違えて谷底へおりているのに気がつかない始末。路を外してしまったので歩いている人影が少ない。 そこに坂の下から黄色いロングドレを着こなした背の高い都会的な素敵な女性が上ってこられた。 車椅子を押し疲れた孫娘と歩き疲れた娘はすがるように道を尋ねた。「道を間違えていますよ。車椅子では・・無理」「待ってて、車で送るから・・」と、言うと走って坂を下ってしまった。7~8分も過ぎた頃、車が登ってきて我々一同をバス・ターミナルまで送ってくださった。

お礼にお名前を・・・お尋ねすると・・・

youtubeで rose_dollhouse_singer

と、メモを書いた紙の一片を渡された。

「一つ票でも投じて・・!!」

我々3人は大きな声で

「ありがとうございました」

手を振って遠ざかる車を目で追いながら、孫娘は「米国では信じられない。 さすが日本だ!」と興奮していた。

実は、来日の初日に財布を店内に置き忘れ出てきたこともあり孫娘には旅だけでない素晴らしい経験を味わえた旅でした。

母を抜き167cmも、バスケでセンターを守る孫娘に優しさをくださった方々に、ありがとうございました。

終わり

 


父親をもう一度やり直したい・・・

2019-05-03 11:26:36 | エッセイ

 令和元年の5月2日の朝を雨音と共に眼をさました。

 子どもたちや孫からの誕生祝のことなどを想い起こしながら布団の中にいた。   昨日の昼、妻とふたりで行った仏蘭西料理店の小さな店だが静かな落ち着いた雰囲気に浸れ、ゆったりとした時間を・・・静かに思い起こしながら床から起きた。 いつしか陽が射してきていた。 

 昭和の一桁の最後に生まれ、軍国時代に子供時代を育み終戦による自由の風潮の中、夢を大きく膨らませ夜遅くまで働き、何時しか迎えた平成での第二の人生は覚えたFacebookやBlogで楽しみ、そして娘の住むサンフランシスコで孫と気ままに遊び、そして令和を迎えた。

 電話が鳴った。いつもの遠く離れた地に住む娘からの声の定期便である。「どうでした。お誕生日のお食事はいかがでしたか・・」と85歳の祝いを言ってきた。 

 電話はいつも長電話だった。 長電話を叱ることをやめていた。永きに亘りアメリカ滞在も最後の訪問と決めた夕方、娘に「幼い児が愛を求めて母親に抱きつくのと同じ仕草」をそ~と抱き締められた。なすがままにしておいた。親として心からすまないと思った。娘とは15年の単身赴任そして米国留学を経て結婚と女子中学以来一緒に生活をしたことがない。昨今、実の親からの悲しい子への事件に触れるにつけ、自分自身も父親として反省を禁じえない。

 もう、時間を戻すことはできないならば、せめて、「夢の中で時間を戻して父親をもう一度やり直したい」と述懐する

 一つの屋根の下に共に住んでこそ家族である筈だと思う。 いまからでもいいから、親は子のためにも少しでも長生きしてやりたいと思うこの頃です。

いま、YouTubeから流れる昭和の唄をイヤーホーンで聴きながら極端に悪くなった眼を更に細めながら書いている。

 窓に射しこむ弱い陽射しに先程涼しさを感じ暖房のスウイッチを入れたがOFFにした。娘の住むサンフランシスコは、もう初夏の気温だろうと想いを馳せながら令和を迎えた3日のひと時でした。

終わり 

 


僕の誕生祝は「平成の最後」か「令和の始まり」か

2019-05-01 20:27:44 | エッセイ

  

 私の記念すべき85歳の誕生の祝いは、夫婦ふたりで静かな処で祝杯を上げたいと1年程以前よりかねがね思っていた。仰々しく聞こえるが、家の近くの処でないものかと考えたに過ぎない。

 幸いなことに、住んでいる街の美味しい食べ処を取材した本が本屋に店頭で販売している。早速、電話をしてみた。 もう既に予約で満席とのこと。 何でも、土日、祝日のみで、しかも昼食、更にコースのみとのことには、些か驚いた。 でも、予約をした。 予約は平成最後を迎える土曜日の27日と決まった。・・と思ったら、キャンセルせねばならず・・・。再度5/1日に確保。だが、平成から令和に暦が変わってしまった。 

12:10に妻の運転で向かった。 20分足らずで到着した。「Bistro・・・」と看板に・・。 フランス料理店である。静かな落ち着いた雰囲気の店だ。 運ばれてきた。盛り付け、味付け「旨い!美味しい!文句なし!」と妻と開拓成功と眼でサインを送った。 

 降り出した雨の中を家に戻った。駐車所に覆いかぶさるように15mにわたり山藤の紫色の花と新緑の葉が雨に濡れてより際立って美しく見えた。、

 新しい日本の歩みを祈念し、自室に戻った。

終り    (夜になると目が悪くなり良く字が見えず誤字乱文お許し乞う。写真を貼付する予定でしたが残念ながら取りやめにします。)、


「ケチンボ青春旅行」バンザイ!・・・後編

2019-04-27 08:03:05 | エッセイ

それから、車は砂埃の山道に小石を蹴散らし走っていた。すると、ハンドルを握っていた九州出身のバナちゃんが舗装道路にでる150メートルも手前にも拘らずウインカを点灯したのには流石に助手席に座っていた湘南ボーイが

  「山道で、何処にも車は走っていないぜ」

ビックリしてひと言余計な事を言ってしまった。実はバナちゃんはこの旅行の直前に出会いがしらの事故を起こしてきていて、つい早めに・・それにしても早過ぎるよ。都会ならまだ横道が2~3本はあるよ。と思ったが言葉を呑み込んだ。

 

信州のどこまで行くか、作戦会議を車中で開いた。 

  「最終決定権はこの幹事の専権事項だぜ~」

と、猿ちゃんのまたもや横槍がきた。

   「そりゃそうだな・・」

と、押し切られた感じだ。しぶしぶ全員同意する。ドライブマップを膝の上に置きながら話はすすんだ。

暗くなる前に上田辺りまでは走らないと目的の旅館の数が少なくなるだけでなく探すのにひと苦労する。

珍しく信号機が赤になり車は停止線に止まった。辺りは一面に麦畑が広がり舗装道路が空港の滑走路のように一直線に伸び不思議にも一台の車も見えない。麦畑の所々に山田の案山子がみえた。

何処までも平和だなと思った。

そこへ静かなバイク音を響かせ白バイが横に止まった。

何となく運席の窓を開けた。

大きなバイク音が車内に充満してきた。

ふと、聞いてみたい衝動に駆られ聞いてみた。  

   「上田に行きたいのですが、このままこの道を走ればいいですか・・」

この時信号機の赤が青に変わった。

「ついてきてください」

と、言うと白バイは軽快なバイク音を響かせて颯爽と走り去るかのように走っていった。

道を聴いただけで咄嗟のことで戸惑ってしまった。

この風景は白バイ先導の道案内に見えるか、それとも交通違反で誘導されていると見えたか、いずれかは明白である。後者あろう。いい話なのか悪い話なのか一時はパニックになった。管轄区域の町外れ来たのか白バイは赤い停止ランプを点灯し止まった。「ここを真っすぐに行かれれば間違えることはありません。ご旅行を楽しんでください」と、胸を張り挙手し爽やかな、きりっとした顔をした青年が白バイに跨り颯爽とUターンをして走り去っていった。

「ありがとうございました」と、大きな声で車中からもお礼を伝えた。

「こんな経験は初めてだ」「吾々より若いな」「青春はいいな」誰言うともなく口にだした。

 

初日は、苦も無く宿泊先が決まった。

何てたって白バイ先導の上客様だものと、胸をはった。

猿ちゃんが何か店の女将とヒソヒソ話をしていた。話ついたのか「お~い、ここに決まりだ」気も玉の小さい残り四人は口数が少なくなり「あの予算で大丈夫なのかな」「芸者を頼んだようだぜ」「え~、知らんぞ~」「ご案内します」の女中の声で部屋に案内された。

やっと、身体を横たえることができ狭い車中室でできなかった背伸ばしができホットした。何と言ったとてコンパクトカーで身動きができない。湘南ボーイの「風呂に行こうぜ」の掛け声で「行こう」浴衣に着替え手ぬぐいを肩に引っ掛け浴室に向かった。「猿ちゃん凄い事を考えていたんだ」客は吾々一組しかいないようだ。大型連休だと言うのに・・館内は静かだ。

裸になって浴室に入って驚いた。湯船には今、温泉口を開栓したようで湯船が満杯になるには夜中かだぜ。裸になってしまった。

悔しいこともあり底が見えている湯舟に入り横になってみた。何と水深は。片足の高さにも満たない。こんな旅館だから部屋が空いていたんだとひとり合点した。

 

五月の季節とは言え山里の冷気は肌に寒さを感じた。

「しょうがないな。飯を食ってからにしよう」

若い芸者が着物姿でやってきた。当たり前だ。洋服姿の芸者なんている分けがない。幹事の特権で猿ちゃんの脇に座り夕餉の酒の世話をした。

更に旅館の部屋担当女中が世話をしてくれていた。芸者の入った宴席の経験はもう入社五年にもなれば慣れてはいたが、個人宴席は初めてだ。それがお互いに若かっただけに意気投合し宴会が盛り上がった。

芸者の花代が二時間分しか予算がないので延長はいくら頼まれてもできなかった。

ここの宿は温泉街の端にあり、別の旅館の宴席などはない。

久し振りに同期の気心を許した楽しい夕餉を初めての芸者を介添えさせた思いもかけないケチンボ旅行が豪華な身分不相応な宴会になった。食事を済ませた吾々は自由に寛いでいた。

猿ちゃんは我関せずとばかり将棋をする始末になる。

哀れなのは行き場のない芸者だ。

「ここに、おさせて貰っていいでしょ」と、皆に声を掛けて了解を得て将棋を観戦していた。その姿を見て何だか可哀想になってきたが金はない。芸者の花代を払わらず芸者が傍にいるなんて前代未聞の変な感覚の話だ。

 

こうして旅の最初の朝を迎えた。

のり、生卵、旬の山菜つきの朝食には感激した。こんな山奥の安旅館で味わえるとは幹事の腕は天晴れだ。

一点豪華主義もいいもんだ。だとすると、若しや、最後の宿泊即ち今晩は野宿でも考えているかな、それも風情があっていいものだぞ。一度味合うと癖になる。簡単に自分好みの旅館が苦も無く手に入ると錯覚してしまう。若者って怖いもの知らずだ。大物のバナちゃんは早めに旅館を抑えておくのが良かろうと少しは風情のある旅館に予約しに一人で敵陣に乗り込んで行った。「ここの旅館は労働大臣の認可をうけているかね」と、高飛車にでた。中年ぶった態度で・・。丁度通りすがりの年配の女性に声を掛けた。すると、女性は烈火の如く怒り、叱り飛ばされ逃げかえってきた。よりによって、そこの旅館の女将に運悪く聞いてしまったのだ。「当然のことでしょう。失礼ね。」「部屋が空いていても貴方には空いてません」」のひと言で玄関払い。遠くから車の中で経緯を観ている者には声が聴こえないので、ペコペコ下げる頭の回数だけが見えた。

 

早くも、陽が沈み午後7時を回った。

作戦会議を狭い車の中で開いた。隠し財源はこのゲームにはない。軒並み泊まりを断られたのを分析した。何だか会社で残業をしているみたいだぞ。そう思いながら旅館の玄関先での向う側の目線で考えてみた。靴を視ていたような気がする。 自分の靴を視た。 土埃で汚れた靴だ。

上着も着ないで・・・。「そうか・・」「今度、俺が往こう。 

誰かたばこを一本呉れ」土埃の靴を払い、上着着て、先程貰ったたばこに火をつけて次の玄関先にはいった。

「4人だが・・」女将はやはり俺の靴を視た。

磨いてあるぞ。金は持っているぞと言わんばかりの大人びた態度で先手を打った。

「部屋 空いてるかね。」すると老夫婦こじんまりとやっている旅館らしく「一部屋なら空いているよ。だが、風呂は落としてしもうただ。夕飯ももうない。もしかしたら天丼なら出来るかも」ときた。

時計の針はもう午後8時になっている。

疲れ果てた。神様仏さまだ。天丼が来るまでに30分程待った。この時に食った天丼はこの世で食った最高の天丼に思えた。

その晩は、湿気を多く含んだじとじとした布団にもぐり込んだ。寝心地が悪いはずなのに、宿が取れた安堵の方が強いのか、ゆっくり夢路につけた。

 朝を迎えた。

 朝食はない。 だが、こんな爽やかな朝はなかった。

一路東京へ、途中の沿道のラーメンを期待し、晴れ晴れとした満足気の顔で信州の山並みを顧みしながら最後の3日目の旅を終えた。

空は五月晴れが続いていている。

五人の若者に思いもかけない「芸者」と言うキャストが加わった若者ならではの青春旅日記でした。

終わり

実話は、その後、結婚と言う世間並みな人生の行事に取られ5人の枠が崩れ懐かしい青春旅行の最後を紀伊で迎え終えた。 もう、二度と交えぬ遠い昔の良き青春時代の話でした。


 


割り込むな話である。

2019-04-24 22:55:22 | エッセイ

ブログの次期投稿は今週末の27日と決めてある。 そうして、腕の筋肉をここぞとばかり休ませて安心をしていた。 

 しかも、今日は昔共に苦労した同じ職場の仲間との飲み会である。 気づいてみると、いつしか最古参になっている。 難病を気遣い我が家の自宅近くの駅前で場所をセッテイングしてくれた厚情に報いるには元気に参加することである。 数日前から極度の運動は控えることにしリハビリの鍛錬も辞退し今日の日を迎えた。 

その時、「ピンポン」と外来者のドアホーンの音がした。

「国際郵便小包です」

何だろうと思いながら小包を受どった。 

開梱してみた。娘と孫娘からの85歳の誕生祝いであった。 

この4月始めの短い春休みに父親の新しい職場のあるアイルランド、ダブリン市に会いに行き、帰りに娘の友人に会いにパリに寄ってくる話を想いだした。     たった、7日間の休暇とは孫娘の高校の厳しさには驚いた。 そう言えば数年前に車椅子持参で浜名湖への旅に連れて行って呉れたのもこの7日間だった。

パリと凱旋門の絵葉書が2枚はいっていた。プレゼント品と共にはがきに祝い文が添えてあった。そして、旅行の話に菓子を添えてダンボール箱に入っていた。 ダブリン市内はもう春が来ていると言うのに冬のように寒くSFの温暖さをしみじみと感じたようです。娘からの話を聞きながら土産のお菓子をコーヒーで味わう。

陽が沈みかかる6時ごろ、飲み会の会場にタクシーで出向いた。

久し振りに昔の仲間と飲んだ。

酒と言える程の量ではないが酒が旨く感じた。リハビリを控え体調保全を優先した甲斐があった。。

時計の針が0時をまわった。 

今日は、朝起きてから、この時間まで何時もよりは変化にとんだ一日でした。   酒が身体に入っているのか、文章の構成も題材も滅茶苦茶である・・・      乱筆乱文で投稿するとは不謹慎と・・・。

終わり