気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

歩きたい一心のリハビリ・・楽しからずや

2019-02-21 21:49:08 | エッセイ

  うたた寝をしていて、ふと、眼が覚めた。 

 自室の椅子にいつものように座っていた。愛用のPCの上蓋があいていた。よく見ると、右肩にblogを始めて1500日の字が読めた。格子越しに見える庭も何時しか、うたた寝をしているうちに冬の弱い陽射しに戻っていた。無性に歩きたくなった。

 私は訪問と通所のリハビリを週に月と水と金の3回もお世話になっている。「こんなにも~・・」何を言わんか、ただ歩きたいからだ。勿論、病の症状の痺れや硬直が緩和されるのもねがいながら・・・。

 よく、こんなセリフがある。「見ると聴くとはお~違い。この言葉通りを味わっている。このリハビリとはデイサービスが運営する介護サービスなのである。

 或る通所の午後の半日を紹介してみよう。

 昼近くになり、筋肉も潤み体調も上向いてきた。着替えに時間が掛かるので早めに着手する。11時半頃に電話がなる。「13時15分頃お迎えに伺えます」と連絡が入る。昼食を済ませ、薬を飲み、靴を履き、帽子を被り、杖を手にゆっくりと玄関の重い扉を押し今日のはじめての外気を吸う。駐車場に降りる介護手すりを掴み階段を8段降りた。もう35数年にもなろうか木肌が露わになった山藤を潜り迎えの車を待った。

 車の到着をスタッフ全員でお出迎え。賑やかな歓迎ムードだ。コートを脱ぎ手を消毒洗浄、口のうがいを済ませ入室。自席が毎回変わる。と、言うことは話相手が変わること。病状も違えば介護認定も違う。当然ながら年齢も幅がある。いつしかお世話になって半年が過ぎた。来ている方はお爺いちゃん、お婆ちゃん共に80歳前後に集中している。お爺ちゃんの男性は多い日で30%と寂ものだ。ここで面白いことに気がついた。女性には年齢を伺うのは失礼だった筈だ。それが年齢の高い人ほど率先して「お歳はお幾つなのですか・・」と聴く。「昭和8年の84歳です。学校は旧制でした・・」そうですか「私は昭和9年の83歳の新制です。お姉さんですね・・」と・・話が弾む・・・。新参者でも情報が入って来る。「あの方は96歳の女医さんですよ」には驚いた。女性軍は確かに我慢強い。手術の後遺症で両脚を杖で支えてひとり暮らしとは・・・。痛みもあるとか・・。

 そうこうして、朝の挨拶に始まり、まず座りながらの準備体操そして口腔体操が始まる。下肢鍛錬には5基のマシンによる個人レベルに合わせたマシンによる鍛錬強化更に、バイクマシンで自分自身の体調に合わせて両脚で加速させ5分間に走れる距離を心拍数、スピード等のバランスをはかりながら走行距離を伸ばすマシーンもあり競争心をたぎらされる。一番好んだのは天井からつり下がるレッドコードと呼ばれる2本の綱をつかっての屈伸運動がすこぶる性にあったようだ。

 西日の入射が強いが明るく気分を高揚させてくれる下肢鍛錬室で最後の「脳タレ」が始まる。間違い探しとクロスワードだ。どうも愛称がよくない。こうして半日が自嘲しながら、楽しみながら弱いながらも陽が伸びた中を来た時と同じ道を同じ場所に座って自宅まで送って頂きリハビリの通院は終わった。

 PCを打ち終え机の端に置いてあるパンフレットに眼がいった。

 「遺言信託」と表題に印字されている。無言の圧力を感じた。

終わり 


よくぞ頑張たぞ! 孫息子よ!

2019-02-05 12:33:49 | エッセイ

  孫息子はお爺ちゃんとの昼間の遊びの疲れで、もういつもなら白河夜船だが、今晩は何を察してか緊急退院した母の膝元を離れない。

 成田国際空港リムジンバスの出発の時刻だ。指定席でなく全席自由席だ。大事を取り始発バス停までバックするしかない。こうなると、空港まで延3時間の距離だ。高速道路走行だから揺れは少ない筈だ。 娘と医師と相談し決行することにした。 始発バス停まで夜道を婿と娘を乗せ地図を便りに車を走らせた。当時はまだ土地開発中途の暗闇だった。バスに乗せ数キロは伴走して確認をするほど神経をつかった。 

 娘から無事にSFの郊外ベイエリアの自宅に着いた報告と息子への声のメッセイジを送ってきたのを知り、お婆ちゃんと共に肩の荷が降りた。 後は、残った孫を寂しがらせないように全力を尽くせばよいのだ。連日の緊張で少々疲れた。騒ぎを大きくしたのは外ならね自分であるのに忘れないように努めねばと・・・。(ちかくの公園で・・・)

 これから迎える3か月間を無事に過ごすには問題はいろいろある。 (遊び場に出発)

 まず言葉の問題、次に遊び場所は何処にあるのか探さねば分からない。3番目に遊び相手はいるか、見つかるかそれは無理の筈だから爺様が遊び相手にならざるを得ない覚悟でいた。

 まず、我が家から200m程の近くに「公園デビュー」から始めた。お母様方はお友達になりたく、この機会に親同士の会話が弾んだが、口数の少ない孫はひとり世界に入っているのか、それとも言葉が分からず、ひとりにならざるを得ないのか幼児育成にとって大事な時期だ。そう考えると焦りだした。

 幼児育成教育にはたとえ3か月とは言え、男親と女親の両性の愛情、慈しみが必要なのではないかと自問した。時間が許す限りお婆ちゃんと二人タグで孫には接するように努めた。 

 「公園」の砂場、鉄棒、網、滑り台、ぶらんこを皮切りに車を武器に遊び場を求めて走った。 遂に、素敵な全館木造のログハウスを見つけた。床下にもぐり、壁の隙間にもぐり2階の天井裏にもぐり込むなど孫は狂ったかのように喜んで潜た。残念だが大人にはやや狭く、しかも爺の身体の動きが緩慢で声掛けで遊ぶしかできなかった。この遊びの間は全てお爺ちゃんの日本語だけだ。このお陰で日本語が急伸長したと自信を持って言える。  (ハロウイーンパーテイで仮装)

 お婆ちゃんが子どもらに教えている劇による英語が孫も好きになったのかセリフが言えなくても劇中キャストの出演者になりきって練習に参加してくるのだ。 どうも、言葉が英語も日本語も関係なく理解できるようになったからなのかも知れない。

 言葉とは本来修得するのに区別されるものではない。 2か月が過ぎた頃、こどもらのOB.OG達が作った発表会で会場内が暗くなり誰も気づかない中で、孫はひとり腹ばいになって舞台の端で演技をし出演してたのには皆が驚いた。それに気づいた出演者の子どもらは手を差し伸べて舞台にのせ一緒に参加させた。 (ボクも舞台に日本語で出演するぞ・・・)

 ことばの耳は完全に英語から日本語そして英語になり再び日本語になった。言語の修得は身体表現で自然と身に付くものだと孫に実証させられ、教えられたのでした。  

 そして今は亡き私の母の生存中だった本家の集いで末弟が連れて来た大きな家犬を見て孫は驚き、興奮のあまり咄嗟に何か声を発したくなったのか、しかも、「日本語」で発したフレーズが、今、お婆ちゃんと一緒に聞いていたCDテープに収録されていた日英のフレーズだったのです。それからは、咳を切ったかのように日本語が口から飛び出してきたのです。 (ボクは大きな犬を見てCDで聴いていた「噛まないで・・ボクは身体が小さいのだから・・・」日英語の日本語が咄嗟にでた瞬間の実写)

 それから数日後に、お爺ちゃんとお婆ちゃんと3人で母の待つサンフランシスコに向けて飛び立った。(ママに会いに帰る前夜・・お爺ちゃんの家で)

 (成田国際空港に向かうバスのなかで喜んでいる・・)

この短い期間、孫息子にとって言葉の切り替えが何不自由なく日本語そして英語さらに日本語へと操る技術を身に付ける機会を得ることができた。

 吾々爺婆にとっては「癒し」を十二分に貰うことができた。

孫にとっては2歳6っか月は余りにも幼く記憶にはないことだろう。でも、人間形成の肥やしには少なくてもなっただろうと思考している。

 余談だが孫の搭乗した機がサンフランシスコ国際空港に着陸態勢に入った時、「耳が痛い・・・」と日本語で叫んだ。その時、アテンダントの飴を握った多くの手が一斉に伸びてきた。[モテるとは羨ましいものだ]  機上から引き継がれた女子地上員からもひと言。孫は気もそぞろで、聞いちゃいない。ママに早く会いたいのが心境。未熟な日本語で理解不十分で良かったとホットした。

 こうして、波乱に満ちた短くも永くもあった日本滞在が無事に終えた。 

 今晩もお婆ちゃんと夕餉の折に、心を癒されたこの時の想い出を語りあった。   もう、18年も昔になった、あの日が懐かしい。 刻よ! 戻って呉れ!(やっと会えたママ。昼食を一緒にする孫。市内のレストランで・・。もう、離れたくない…)

終わり


あわてふためくお爺ちゃん奮闘記

2019-01-29 12:32:42 | エッセイ

 娘のサンフランシスコからの里帰りである。

 陽射しの強い真夏日の夕方だった。 ふたりを迎いに成田国際空港に張り切ってひとり空港バスで2時間もかけてでかけた。 出迎えの人込みの中で見失わないように緊張して到着ロビーのテレビ大画面と目の前の到着者の人混みの流れを見ていた。 「いた」声のない声で手を振った。 

 こうして、孫息子との日本での楽しい生活が始まる筈だった。 

 里帰りをして10日程が過ぎた頃、娘が突然緊急入院となり孫息子がひとりお爺ちゃんとお婆ちゃんの家に取り残された。 そして、入院経過をみて「退院後のケアを考えると米国への帰国が良い。」との医師の判断で急遽米国へ戻ることになった。婿を日本に呼び寄せ、早々に娘を米国に向けて立たせた。病人と一緒に連れて帰るには余りに幼な過ぎる2歳6か月の孫はお爺ちゃんとお祖母ちゃんの処に残った。日本での10日間の入院も泣きもせず、何ひとつぐずらず母親のいない生活を我慢したものだ。

 これまでの生活の言語の中心は米国に住んでいるアメリカ人だから当然ながら英語に決まっている。 日本語は母親との会話のみに限られていた。 英語の生活から全てが日本語の生活に大転換をしたのだ。お婆ちゃんはまだ英語を話すから許せるが、お爺ちゃんに至っては日本語しか話さない。(影の声:おじいちゃんは君の日本語の先生なんだよ。英語はできるんだが我慢してるんだぞ!)

 おじいちゃんは「僕を愛して呉れて、信用はできる」が日本語なので何を言っているのかが分からない。 こう言う関係のなかでのお爺ちゃんと孫息子の奇妙な生活が始まった。 信頼を失わない様にまず気をつかった。 

 だが、不幸にも、これに重なるように、また事件が起きた。

 その夜、孫の寝床を急遽作るために邪魔なものを動かしていた。その急いだ勢いで立てかけてあった和机を引っ掛け、机は傍にいた孫の額をバットで直撃したように投打し、みるみるうちに赤く肥厚、救急車より直接行った方が早いと病院の緊急外来に車で運び込んだ。CT撮影するなど大騒ぎ。この救急外来の直ぐ上の2階には前日の昼間、孫の母親の娘が緊急外来で入院している。 娘には余りにも酷な話で伝える訳にもいかず、お爺ちゃんの一存で黙りを決め込んだ。娘が動揺したら更に、二重災害になるかねないらである。 勿論、他言無用。

 慌ただしく婿を迎え、娘を緊急退院、緊急帰国と孫息子の存在を一時忘れたかのように騒然とした中で成田国際空港に前泊させ無事に自宅に戻ることができた。その3か月後に孫娘が元気な産声を上げた。

 日本で、お爺ちゃんと、3か月も、母もいないで我慢した孫息子と交流できたのは誰かが試練に選んだのかも知れない。感謝しかない。

写真は1.夜間面会時間に病室へ駆ける孫。2.母と病室で語る3.毎日お爺ちゃんと遊びにお出かけ・・・。18年も昔話になたとは・・・。

遊びは次回に・・。終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


突然!ひとり日本に残った2歳の孫息子

2019-01-19 16:29:04 | エッセイ

   年が明け1月初旬の頃。

 近くの書店まで服を着替えて散策がてら出掛けることにした。 杖を右手に玄関の扉を開けた。 昨日のリハビリのせいなのか、背筋が伸び歩幅も大きく背が伸びたようで、杖がむしろ邪魔のようだ。 もう30年超の古木になりかけてきた桜並木の下を通り抜けて大通りにでた。

   書店で立読みをして書店を出たのが小1時間も過ごしたのか、夕暮れが迫り、桜並木の西の向こうに夕日が茜色に染まっているのがみえた。 帰りの路すがら、孫息子から「新年の挨拶の国際電話を貰ったがリハビリに出掛けていて留守をしていた」のを思いだした。大学の寮生活だとなかなか電話はむりだ。留守居していて悪かった。もう2年は逢っていないな・・・。  

 歩きながら、或る出来事を想いだした。 我が家には米国に孫がいる。 ところが、孫は国籍が日本と米国の二重国籍である。 これから語る昔話は孫息子と爺の二人だけが味わった話である。 

 この初孫は日本で言えば14日に成人式を迎えた青年に成長していた。 いまは西海岸の大学一年生になっている。 

 話の舞台は、1999年の初秋、サンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを渡りノバトの閑静な芝生に囲まれた住まいのあったコートから始まった。ノバトはカリフォルニアの北部に位置し、あの「ナパバレイ」までハイウエイR100で一路北上と近かった。 また、アルフレッド・ヒッチコック映画「The Birds]の撮影地と劇中レストランまでも近いロケ-ションにあった。 

   これからの主人公である孫息子との初の出会いは、初秋のサンフランシスコ国際空港が好天気に恵まれた朝でした。 当時の到着口は質素なものだった。 娘の迎えで初めて写真でない生の初孫に会えた。「火星ちゃん・・が俺の孫か・・」が第一印象である。生まれて6か月になる。 ここから他愛もない孫と爺との二人が歩いた舞台が始まったのである。

 娘が日本語学校の教務主任の仕事をしていたので、勤務時間中は市内を乳母車に載せて孫息子の火星ちゃんを坂道の多い歩道を押して歩いた。うっかり手でも離そうものなら転がる程坂道の登半がきつい地点もあったので油断はできなかった。。土曜のせいもあり母娘連れが多く「cute」と女の子などは叫んで寄って来る。 婿の弟が盛んに「Babby GAP」モデルにと叫んでいた。お爺ちゃんは腹の中で「火星ちゃんのモデルじゃいやだね」と孫息子に人には聴こえない声で声を掛けていた。子供の純真な顔は正に「cute 可愛い」のひと言に尽きる。ましてや、俺の血が流れいると思うとひとしきり愛しさが強く涌くものだ。 通り過ぎても戻ってきて肌に触れんばかりに可愛らしさを身体一杯に表現をする。一体何人に言われたかしら・・・。うれしいのを通り越して慢性化してくる。それにしても、余りにも表現力が豊かな国民だ。 こどもはみんな「cute」に決まっているのに・・・。 騒ぎ立てるのが仰々しい。 でも、何か嬉しいものだ。世の爺も同じだ。

 こうして、2年後の日本に里帰りした或る日、事件が起きた。         母国語の英語も習得中で、ましてや日本語は母の胸に抱かれている折に耳にする言語でしかなかったと推察する。

 突然、母と別れ日本に一人ぽっちに残され言葉の分からない中での爺と二人で遊んだ物語が始まる。 

続く。 

 


何か投稿し終えたい平成の年に・・・

2018-12-30 11:31:13 | エッセイ

 いま、時刻は30日の午前9時を丁度まわったところ時計の針は指している。    この頃、ブログへの投稿が遅速になってきた。記事となる行動半径が狭い。歩きが可なり短く成ってきた。更に、眼も霞むようになり・・なのに眼科医に行く時間がない。どうして・・・。 優先順位が低いから・・・。 でも、ブログさえできない。新年を迎えたら真っ先に行こう。 

 来年からは賀状を失礼することにしてある。よかった。 これでは宛名も書けない。 PCは位置を憶えているので、打てる。 

 今年も、あと1日と数時間で終わる。 何もないと思っていた今年には頼りになるものとの出会いがあった。 9月から始めたデイ・サービスの「リハビリ」である。 内容は訪問が週1回の1時間、さらに送迎付きの週2回の半日コースを受けている。 規律正しくカリキュラムに基づき更に脳訓練もあるシステムである。受講するコースの合間に用意されて懇親の会話の中に日頃耳にしないことがある。 

 女性はと、言ってもこでは全員が「おばあちゃん」で男性はと言うと、これまた「お爺ちゃん」である。 特に女性は年齢をはっきりされるのを嫌うものだ。だが、ここの世界では人生年令が幅を利かすものだと知った。しかも、最高なのは「年齢が人より上で、見た目が若く見える」のが高得点である。 いないよ~!  ところが、いるのだ。それから、動きの大きい運動をしながら眼を瞑り動きが止まり仮眠をするなんてと、信じていなかったがいるのだ。とかく言う私もしてしまう。疲れたら直ぐに疲れを取ることが基本なので注意はない。 むしろ、「無理はしないで結構ですよ」と声かけがあるぐらい。 

 こうして、リハビリ効果を期待し除夜の鐘の音を聴き85回目の新年を迎えることになります。 

 ブログの楽しさを教えてくれた人、拙文にも拘わらずコメントくださる人、自分史の後半を書く気にさせた人などの励ましがあったこそ遅速ではありましたが、この一年を無事に終える事ができました 。今年もよろしくお願いいたします。 

終わり