「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

天正八年,羽柴秀吉 官兵衛を「播州宍粟郡山崎に城に居らしむ」

2014-09-18 20:55:53 | 城、城跡、歴史
波賀城跡を後にして、もう一か所”篠ノ丸城跡”へ立ち寄りました。

篠ノ丸城跡は、宍粟市山崎町の市街地にある、標高324mの”一本松”の山頂に位置する中世の山城です。
石垣などは全く存在せず、土塁や堀切などで構成された山城です。

南北朝期に赤松円心の次男、貞範の子、赤松顕則によって築かれたとされています。
室町期以降は、守護代宇野氏の拠点とようです。

「黒田家譜」にみられる、官兵衛の居城「山崎の城」に推定され注目されているそうです。

山の中腹に車を止め、そこから本丸跡まで700m。



本丸までの道はそれなりに整備されております。



どんどん登ります.....一日に2か所の山道はちょっときつい。


途中に、曲輪跡が。
ここから、揖保川を挟んだ対岸の山頂に”聖山城”が見えます。



この”聖山城”は、明応年間、宇野氏の幕下下村民部少輔則真が築いたといわれています。
聖山城は堅木山にあることから「堅木城」、また山麓に鎮座する篳篥(ひちりき)神社にちなんで 「ひちりき山城」とも呼ばれています。

『赤松播備作城記』によれば、”篠ノ丸城”の出城の役割を果たしていました。

城址からは揖保川を挟んだ西方すぐのところに今回登った篠ノ丸城、北西方に長水山城が一望でき、 揖保川を越えて山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝。

天正年間、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを行なったとき、別所氏、宇野氏らは はじめ秀吉に通じたが、のちに毛利方に転じて秀吉と対峙。
天正八年(1580)、長水城を攻めた秀吉はまず聖山城を落として本陣としました。そして、篠ノ丸城ついで長水山城を落とし、宇野氏を滅亡に追い込みました。

今回は時間がなく”聖山城跡”には行くことができませんでしたが、本丸で出会った地元の歴史マニアの方によると、”聖山城跡”からここ”篠ノ丸城跡”や”長水山城跡”を見ると羽柴秀吉の気分になれるとか...。

ここからさらに300mほど登ると、本丸に到着



山頂の上にしてはかなり広く整地された城跡です。


空堀


堀切


本丸の前の土塁

この、”篠ノ丸城跡”かなり本格的に精密な測量と調査が行われたようです。
発掘調査などの結果から、”篠ノ丸城跡”は織豊系の城郭の特徴が認められず、天正8年の宇野氏滅亡時の状態を伝えているということです。

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