「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

本日の大河は、高松城水攻め。

2014-07-06 18:20:39 | 城、城跡、歴史
本日の大河”軍師官兵衛”は高松城水攻めです。
前半の大きな山場が4週にわたって展開されるようです。


毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせる。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定した。低湿地にある沼城の利点を逆手に取った、まさに奇策であった。

秀吉は即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命された。

堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して、高松城は孤島と化してしまった。
堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視した。
一方、城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気も低下。
城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。

毛利輝元は、5月21日になって猿掛城に輝元の本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景が着陣した。しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和を決意する。

それに関連して、こんな画像を見つけました。


これは以前、岡山県立図書館の企画展で見たような記憶があります。

古川古松軒(ふるかわこうしょうけん)の自筆である。寛政3年(1791)3月に描かれたもので、「黄薇山人古川辰図」
朱印と黄印により、羽柴勢と毛利勢を色分けしている。

もう一つ、こちらは東京都立中央図書館所蔵の赤松之城水責之図

高松城を赤松之城としている。



左手の櫓の上には、秀吉の千成瓢箪が見られるので間違いなく、高松之城水攻めです。

そして現在、高松城址の資料館には、水攻めのジオラマも展示されています。



旧暦では今日は6月10日。
本能寺の変は1週間前に起こったわけですが、その当時も今日のように雨が降っていたのでしょうか?

秀吉軍は6月10日朝には明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。
明智光秀の軍は久我(京都市伏見区)付近に着陣したとの記載があります。

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