大垣市墨俣町下宿、鎌倉街道沿いに「義円(ぎえん)公園」と名づけられた一画があります。
名は『源義円(幼名:乙若丸)』、母は『常盤御前』、『源義経(幼名:牛若丸)』の兄に当る人物で、頼朝の命により援軍として陣に参加し、墨俣川の戦いで平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に戦死しました。
享年27歳・・・僧侶として生きていた彼にとって、源氏の名の下での死は本望だったのでしょうか?
後の時代の人間が、どう逆立ちしても分かりっこない事実を前に、あれこれ言うのは実はとても不遜なのです。供養塔の近くに建立されていたお堂には、誰が奉納したものか・・「義円地蔵」の碑。
治承5年(1181)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川において行われた「墨俣川合戦」。源氏軍の大敗という結果で終わった戦でしたが、そこにも多くの物語が秘められていました。
「義円公園」には、当時の合戦の様子が詳しく語られた案内板もあり、興味深い場所ではあります。けれども源氏の武将の名を上げろと言われてとっさに出てくるのは、義経・頼朝に木曽義仲くらいというお粗末さ。
まさかこんな場所で、義経の兄「義円」の存在を知る事になろうとは夢にも思いませんでした。
そうそう、この「義円公園」、全くの下調べ無しの訪問だった為、最初は別の場所に立ち寄ったのです。そこで「史跡・伝説の案内」を見て、【あれ?ここじゃない、間違ってる】と気がつきました。
でも今になって考えれば、大海人皇子をはじめ、かなり興味ある人物の名もあり・・立ち寄らなかったのが悔やまれます。
「史跡:鎌倉街道」の碑、その後ろに見えている鳥居が、案内板に掲載されている伝説の『木花咲耶姫命』をお祀りする「不破明神」・・😥
訪問日:2018年10月11日
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