東大寺再建のための木材伐り出しに従事する人夫たちのため、重源が設けたと言われる石風呂「阿弥陀寺の湯屋」。
「桟瓦葺 切妻造 平屋建の覆屋をもち、鉄湯釜で沸かした湯を石製の湯舟にくみとり、石敷の洗い場で湯を取って体を洗う方式で、洗い場は男子用、女子用で区別されている。鎌倉時代のものと伝えられる鉄湯釜(内径178㎝、深さ100㎝、高さ104㎝)と鉄湯舟(内径96㎝)も保存されており、当時からの湯屋のようすを知る上で貴重な資料なっている。文明16年(1484)、寺と共に焼失したが、江戸時代の延宝元年(1673)~天和3年(1683)年に再建され、その後、幾度か修理がなされた。現存の石湯舟の内径は、長さ128㎝、幅28㎝、深さ14㎝で、文政3年(1820)の銘文があり、鉄湯釜には文政11年(1828)の銘文がある。」山口県文化財より
画像右手の棚が設けられた場所が「脱衣場」。手前に「石敷きの洗い場」があり、二つの区切りの間に見えるのが「岩湯舟」。洗い場の上にはござが巻かれており、使用中は目隠し用として用いたものと思われます。
別の場所には「湯釜の焚口」の焚口があり、ここで「鉄湯釜」に湯を沸かします。
現地にあった説明図によれば、竈から湯を柄杓で酌んで岩湯船に流して利用したとあり、こうした方式を「取湯(とりゆ)式」と呼ぶそうです。
こちらは自然石をまんじゅう型に積み重ね、表面を赤土で塗りつけた「石風呂」。昭和56年(1981)に地域の有志により鉄骨で補強され、昔の湯屋の東隣に新しく造られたました。入り口は人がしゃがんで何とか出入りできる大きさで、それほど広そうには見えません。
現在でも願掛け巡りの一つとして、月に1度だけ一般の人が利用出来るとの事。ちなみに着衣のままなので、これは今でいうところのサウナに匹敵するものらしいです。
湯谷そのものは私が側に立ってこれくらいの大きさ。ちなみに私・・大人の標準身長より、か・な・り!低いです(笑)
湯屋の左手に見えるのは阿弥陀寺の仁王門。工事中でなければ真っ先にこの湯屋を目にしたわけで、そうすれば往時の「石風呂の遺構」も見つけた筈なのに・・ちょっと(いやかなり)残念 😥
「重要有形民俗文化財:阿弥陀寺の湯屋」、思いがけなく素晴らしい遺構を見せて頂き感謝です🙏
訪問日:2015年11月14日
🌸明日は「三田尻塩田記念産業公園」の紹介です。
上に立つ者の姿勢が如実に反映されたものを、見聞きするとき
権力者が詐取するだけのどこかの国とは違い、人としての思い遣りを見ることができます。
だからこそ「主の為に身命を賭しても」という思想も生まれたのかもしれません。
こうしたものを見聞きすると、私たちは本当に嬉しくて、そのような所に出会えた僥倖に感謝せずにはいられません。
そしていつでも思うのです
「日本人に生まれて良かった」と。
湯屋に引かされました。17年前、大英博物館を見学した時、その隣だったか、「ローマンバスの大浴場」がありました。
ガイドさんの説明では古代の貴族階級が利用したとのことで、長さ120m、幅20m、深さ1.9mで、天井が吹き抜けになった、石造りの巨大な風呂場でした。
男女別になっていたとのことですが、キリスト教が広まるにつれ、裸を他人に見せる習慣がなくなり利用されなくなったそうです。
規模ははるかに小さくても、湯屋は作業する人夫たちのため作られたのですから、貴族階層だけが楽しんだイギリスと違います。
日本は昔から、上に立つ人々が庶民のことを思いやった国だと知りました。
再建された入口も、tononeko殿との比較で大きさが分かりますが、建物の大小が問題でなく、思いやる心の大きさを比較すると、日本の方が大ですね。
貴重な写真を有難うございます。
最後の一行で噴き出してしまいました😄
結果がオーライなら・・ですが
でもやっぱり東大寺の大仏様を焼くなんて
個人的には許しがたいです😫
一門中随一の美男子かつ将の才も高く、一の谷の合戦で捕虜になり鎌倉に連行された際にも、頼朝、政子のほか鎌倉方の多くがその眉目秀麗、才気煥発にほれ込み存命を願ったとされています。
ただ、大仏殿などを焼き払ったことの罪は重く京で斬首に処されます。
奈良県人としては奈良を焼くとは何事ぞ!!と言いたいところではありますが、こと重衡に関して言えば『結果的には再建できたんだからええやないか!』
古くから栄えた地域には
驚くような文化財の足跡が沢山ありますね
いつかぜひ
大切な奥様と旅してください
おはようございます!
素敵なところですね!
こういうところは行って見たいですねぇ🤭🤭