前回投稿で1837-39年恐慌について述べましたが、その事はイングランド銀行に対しても深刻な影響を及ぼしました。というのは言うまでも無く、パーマー等がそのルールにより運営していたにも拘らず、又もや深刻な恐慌が引き起こされたからです。そしてその間、36年から41年に懸けて、五つの委員会がもたれ、特にその中でも40年代の委員会の中で、ウオード(イングランド銀行理事)により、“通貨原理“、“銀行原理“と呼ばれた人々により論争が行われる事となったのでした。
“パーマールールにより運営していた“とされる訳では有りましたが、実際の所はその総債務額(発券+預金)が変動している場合にそれが主として預金に対してであり、銀行券流通高では無かったと言う事等から、パーマー自身が考えていたように“流通量“の変動が為替に影響しその相場を修正するであろうと言うその考えを勘案した場合に、“何が通貨であるか“と言う方向に議論が向かいそれと恐慌の発生が原因付けられました。そういった中、1838年にはパーマー準則の廃止が検討されました。
①通貨学派の立場
イ)原因認識
通貨学派と呼ばれた人達は銀行家のサミュエル・ジョーンズ・ロイド、イングランド銀行理事のジョージ・ウオード・ノーマン、退役軍人のロバート・トレンズ等でありその拠って立つ基本的立場はリカードの貨幣理論でした。
それは簡単的には1国で金属貨幣が適当な割合を超えると→貨幣価値減少→物価上昇→(輸入増)→金属流出その逆は逆となり→国際間の金の流出入と言う事になると言うものでした。
その前提の下に通貨の収縮が無い限り、商業的熱狂の変動、物価の変動が激しくなり、金流出が激しくなった段階でのイングランド銀行の急激な政策が公衆に対する圧迫をかけそこから恐慌が生ずる(ロイド)と言う事になるわけです。
ロ)その恐慌対策
上記の認識からは通貨収縮の一定した固定的ルール、通貨の収縮を厳密に地金の変動と一致させる事が求められ、そしてそれらが行われる事により地金の変動の期間も短く抑えられ通貨の収縮がおくらされる事無く通貨価値の上昇に作用し、金準備を決して危険水準にしない、“公衆の不便“も小さくなると言うものでした。
参照:渡辺佐平 地金論争・通貨論争の研究 野村重明:通貨論争と恐慌(岐阜経済大学論集10巻外